運命の女神

    地上よりはるかに温度が低い上空を、竜の背中から感じている。アルセイドが乗っているのは竜族の若長の背中だが、他のレジスタンスはあれから集った竜族の背中に乗っているはずだ。人間が若長の背中に乗るなどと、と渋った竜族もいたが、若長が笑って快諾したので乗ることが出来ている。

    そして他の皆と同じように、ドワーフがつけた印の場所に向かっているところだ。これから『橋』を埋めに行く。

    「叔父上の気持ちがわかる気がする」

    唐突に若長が話しかけてきたので、アルセイドはしがみついていた背中から顔をあげた。竜はゆったりと空を飛びながら、わずかに首をこちらに傾けた。若長の瞳は綺麗な蒼穹の瞳をしている。胸に迫るものを感じながら、アルセイドは口を開いた。

    「先代の長のことか? 魔女の、夫であったという」
    「そうだ。義母上が眠っている間、我は幼き時より叔父上から義母上の話を聞いていた。とりわけガイアで背中に乗せて飛ぶことを楽しんでいたと。小さな体に似合わぬ寛大な心を持っていて、自分がいなければ義母上はとうに死んでいただろうとも。同族の、それも小さな娘を殺めようとは我は信じ難かったが、それが人間の特徴だと叔父上はおっしゃっていた」

    わずかな苦みを以ってアルセイドは笑った。
    胸を突っ切る痛みの正体は、すでに知っている。

    自覚して、それでもどうしようもない想いを抱えているがための痛みだ。
    魔女はかつての夫をとても大切に想っている。

    少しためらい、それでも、と思いきってアルセイドは問いかける。

    「訊いてもいいか? 魔女が眠っている間に、先代の長は竜族から妻を迎えようとはしなかったのか。もう二度と魔女と出会うことができない可能性もあったわけだろう?」
    「むろん。叔父上にちゃんと次代の長を産める娘との婚姻を薦める者もいた。だが、肝心の叔父上がよしとされなかったのだ」

    運命なのだから、と若長が告げる。
    運命。その言葉が持つ重みに、アルセイドは唇をかんだ。

    運命というのならば、あの時、あの場所で、自分と魔女が出会ったことも運命だった。いまのアルセイドがあるのは、あの瞬間に魔女が命を救ってくれたおかげである。そのことを一瞬たりとも忘れたことはないし、恩を返さなければ、と思うこともある。

    だがいつからだろう。
    そうした立場の不均衡が、たまらなく耐えがたくなるようになったのは。

    あの時からだ、とは具体的な時を示すことは出来ない。
    ただ胸に宿る想いは確かなもので、だからこそ義母という言葉に痛みを覚える。

    「だがな、運命という言葉で納得できないものも多くいた」

    考え深げな若長の言葉である。アルセイドははっと顔をあげた。竜はすでに前方に顔を向けている。そうであるにもかかわらず、風にさえぎられることもなく、若長の言葉はアルセイドの耳に届く。

    「竜族の長の運命が、よりにもよって人間の小娘とつながっているなどと、と云いだした輩もいた。すると叔父上は云ったものだ、あの娘を妻とすることが運命なのではない。あの娘と出会ったことが運命、そして朋として、妻として選んだのは我の意思だと」
    「なんだ。それじゃあ、ますます反論する者が多く出ただろう」
    「いや。だからこそ、叔父上の意思を曲げることが出来る者はいなかった。運命とは無数に存在する。その中であの娘を選びとったことを運命とする、と叔父上はおっしゃったのだ。他の娘とも縁はあろう。だが運命はひとつでよいと決めたのだと」
    「魔女を選んだことを運命とする、か」

    そして魔女も竜族の長を選んだことを運命としたのだろうか。
    そうなのだろう、と心の中で呟き、背中に顔を伏せた。

    腕に抱え込んだ『橋』が妙に重い。
    放り出さないように慎重に力を分散させた。分散させることに意識を傾けた。
    長針どの、と、若長が語りかけてくる。

    「そなたが、義母上の運命であるのだな」
    「……、なぜ、そうなる?」
    「義母上を動かすことが出来る人物だからだ」
    「あいつの、魔女の人生を動かすことが出来る?」

    錯覚だ、と云い放ちそうになった声は、まさか、という望みの前に掠れている。
    若長は再び視線をアルセイドに向けた。

    「叔父上の話では、義母上は決して人間と笑い合うことなどなさらなかった。竜族や魔法使い、人間以外の者とは交流を持つことが出来るくせに、人間の為には指一本動かそうとはしなかったと。だが、義母上は、人類の為に我ら竜族を説得した。我らはな」

    若長は再び前方を向いて飛び続ける。
    それでもその言葉だけははっきりと聞こえていた。

    「盟約に従わない人間など、滅びようがどうでもよかったのだよ。そして義母上もかつては同じ判断をする方だった」
    「しかし竜族は人間に親愛を持っていたと聞いたが」
    「それでも大切なものを守りきれない存在に親しみを抱き続けることは難しいだろう? 管理者の行動によって、竜族は人類に失望していた。このまま魔法の消滅によって滅びることが目に見えているのに、と、橋を破壊したことには呆れかえっていた。寿命が短く、正確な知識が伝わりにくい生き物とはいえ、自分に都合のよい夢想を本気に実行しようとすることは愚かに過ぎると云った者もいた。だが」

    長針どのよ、と、再び若長は語りかける。

    「そなたは、スティグマの和を成す、と云った。そして盟約は本来あるべき形で整えられようとしている。誰に強制されることもなく、ご自身の意思でそれを決めた者が人類にはいる。だからこそ、義母上も竜族も人類のために働いているのだ」
    「俺は、――」

    (そう、か――)

    スティグマの和を成す、と心定めたときには、運命という言葉を感じることはなかった。だが、運命という単語から連想するのは、あの瞬間だ。魔女との出会いのとき、命を救われたあのときだ。あのまま雨に打たれて死ぬのだと思っていたアルセイドに魔女は云ったのだ。

    ――おまえに命をあげる。その代わり、おまえは自らの意思で歩み続けろ。その様をわたしに見せ続けろ。何もかも失っても、死にたくないと叫んでしまうおまえ自身を始めてみろ。

    あの瞬間から、アルセイドは生き始めた。むろんそれまでの人生を否定したりはしない。充実していた。家族に迎えようとする娘は本当に大切で、一生を通じてでも大切にしようと心定めていた。それまでアルセイドを取り巻いていたすべてを確かに愛していた。

    だが、自らの意思、という言葉を突き付けられたのは、そしてあれほど死にたくないと願ったのはあの瞬間が初めてだった。

    死なないでね、という娘の顔を見るよりも、ずっと強烈に、死にたくないと彼自身は願った。

    そして魔女がそんな彼に応えた。選択し続けろ、とアルセイドの意思を強烈に問うた。
    それだけでいいと云っていたくせに、その実、それまでの人生とは比べようにならないほど重みを持った選択を魔女は突き付けてきたのだ。なのにアルセイドは少しも魔女を恨んでいない。

    これは残酷でもある真実だ。結局アルセイドは、愛していると思ったすべてを失っても生き続けることが出来る人間だったのだ。

    そして、いま、生きていると実感しているこの時間は、魔女と出会い長針としての役目を果たすことを選択したからこそ得た。

    運命なのだから、と告げた、竜族の先代の長の気持ちがわかる。
    運命と明言することは、選択に責任を負うことでもあるのだ。

    魔女を妻として選んだ責任。それが先代の長が明言した運命だろう。
    そしてアルセイドが果たしたい責任とは、あの瞬間、魔女の言葉を受け入れた選択に対するものである。

    「――俺にとっても、あいつは運命でしかない」

    そうして告げた言葉には、豊かな笑い声が返ってきた。
    唇が笑みを浮かべる。もう、心に痛みを覚えることはなかった。

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