異人の踊り手

    どこまでも続くかと思われた草原は、あっけないほど簡単に終わってしまった。初めて歩くガイアの地は、セレネとさほど変わらない。空気の臭いも、草や土の感触も、全く同じだ。歩く感触も違いはない。

    ただ空には青い月がない。そのガイアに訪れているのだから、当然とはいえ、そのことにアルセイドは違和感を覚えている。違和感というより、覚えているのは寂寥感だ。

    空に青い月がないだけで、こんなにさびしい気持ちになるとは思いもしなかった。だが同時に、その美しい月に立ち歩いているのだと思うと不思議な喜びも心の底から湧いてくる。

    空を見上げればやはり物足りない。しかしどこまでも果てしない蒼穹に、どこまでも自分が広がる感覚を持覚えるのだ。どこまでも自由に心が広がっていくような――。

    「空を見上げながら歩いているとこけてしまうぞ、アルセイド」

    先を歩く魔女が振り返って告げる。迷いのない足取りで進む魔女には、いま、どこを歩いているのかわかっているのだろう。苦笑と共に、子供扱いするな、と云い返したくなる。なにより浮かれているのはおまえだろうとも云いたくなったが、やめておいた。魔女のことだ、むきになって反論してくるだろうし、せっかくの穏やかな空気を壊すことはない。ただ沈黙を守って、楽しげに歩く魔女に語りかけた。

    「どこまで行くつもりだ?」
    「もう少し。空を飛ぶ鳥の姿も確認したし、流れる川に魚がいることも確認した。だから建物の状況も確認したいのさ」
    「なるほど」

    ただ浮かれていただけではないのか、と、自らの浅慮を反省しつつ、向かう先にこんもりとした森があることに気付いた。それでも魔女は足を止めない。

    やがて近づくにつれて、その森は、崩壊した建物の残骸の上にある緑だと気づいた。建物の大きさから判断するに、かつては立派な街だったのだろう。だが500年という歳月が、緑で覆われた街にしている。さらに進んで、魔女はようやく一つの建物の前に立った。アルセイドはその建物を観察する。珍しく一階建の建物で、緑の蔦に覆われている。庭であっただろう場所も、雑草だらけだ。元の色もわからない建物の前に立ち、魔女はそっと手を添えた。隣に立ち、そっと見下ろす。

    「ここは?」
    「わたしの友人が住んでいた家だよ。わたしの異端たる特徴にもひるまない、陽気な友人が住んでいた」

    そう告げる魔女の表情は哀しみと懐かしさが混じったもので、ふと胸をつかれた。
    泣き出しそうに瞳が揺れている。

    さりげなく視線を外し、建物に目を向ける。その時、太陽が隠れたことに気付いた。見上げれば凄まじい速さで、雲が動いている。見事な青空であった空は、雲を引き連れ白い空に移り変わった。はっとした魔女は、ぺちぺちと顔を叩いた。頬をつまんだりしている様子を見て、アルセイドも思い出していた。魔女の感情にガイアは同調しやすいのだと。ぽつ、と滴が落ちる。雨だった。

    このままでは風邪をひく、そう考えたアルセイドは魔女の手を引いて建物の陰に身をひそめた。

    たちまち降り注ぐ大粒の雨、地面をたたきつけるその音が、魔女の感情の激しさを語っているような気がした。だが魔女にその様子はない。かつてのように嘆きを抑えようとしているのかとも思ったのだが、そうではない、むしろ雨の激しさに驚いている様子を見せた。アルセイドは雨を見つめる。魔女に同調して降り注いでいる雨、――たまらず口を開いていた。

    「泣いてもいいんじゃないか、魔女」

    すると困ったように魔女が、アルセイドを見上げてきた。
    眉をしかめて瞳はうるんでいるのに、涙は流れだそうとしない。

    「泣けないんだ、アルセイド。泣こうと思っているのに、涙が出てこない」

    叩きつける雨の音にも負けず、その言葉ははっきりとアルセイドの耳に届いた。
    初めて会った時を思い出させる。

    (ああ、……)

    そうか、と納得していた。あの時の彼も涙を流せなかった。家族として迎えるはずだった娘、心分けた仲間、見慣れた故郷の街、そして自身の命、――すべてを失おうという瞬間でもアルセイドも涙を流さなかった。わずかな痛みが眉をひそめさせる。おそらく、失ったものについて、もう涙を流すことはないのだろう。状況がそれどころではなかったし、強制的に流れた時間が哀しみを奪い去っている。

    ただ、流せない悲しみが胸に留まり、息苦しくさせる。
    魔女もきっとそうなのだ。そう感じたアルセイドは口を開いていた。

    「なら、笑え」
    「無茶を云うな」
    「それなら昔話でもしてみたらどうだ? 哀しいばかりじゃないんだろう」

    魔女は唇を持ち上げて、アルセイドを見つめる。雨から視線をそらして、アルセイドも魔女を見た。

    「そういえばおまえの話を聞いたことがなかったな」
    「昔話はいいのか」
    「そうだな、話したい。でもおまえの話も聞きたい」

    穏やかに話す魔女はすっかり哀しみを感じさせない。
    けれども魔女の感情に同僚しているだろう空は、変わらず雨を降り注いでいる。

    もしかしたら、と、アルセイドは心の中で呟いた。感情によってガイアを躍らせる魔女は、誰よりもこの惑星に愛された存在と云えるのかもしれない。惑星というものに意思があるというのならば、この惑星は魔女を誰よりも好ましいと感じているのかもしれない。

    それはあまりにも夢想的なひらめきだった。ただ、魔女の感情によってガイアが動くなら、決して感情を抑えることはないと伝えたかった。

    哀しみによって大地は潤うだろう。歓びによって大地は育むだろう。
    どんな感情も抑え込むことはない、ただあるがままでいいのだ。

    「そんなに話すほどの歴史があるわけではないけどな」
    「それでもいい、聞きたい」

    雨の音を背後に、ポツリポツリと話し始める。
    雨の為に気温は下がっていたが、胸に満ちる想いは温かなものだった。
    アルセイドの昔話に触発されるように、魔女もようやく昔の話を始める。
    穏やかに、それでも魔女には頑ななところがあると気付いていた。

    だから言葉で伝えても、受け入れにくいことは感じ取っている。
    だからアルセイドは傍にいてこうして受容し続けようと思うのだ。

    この不可思議な、――それでも何も恨みもしない強さを持つ、この娘を。

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