天体

彼の一日の終わりは、他の人間の一日の始まりだ。

白み始めた空を認めて、ようやく望遠鏡から離れる。まわりに散らばっているのは、天体を観測している間、書き留めていた紙片だ。拾い集めようとかがめば、一晩中同じ姿勢でいたから、固まっていた身体がごきりと鳴る。苦笑した彼は、とんとんと身体をほぐした。改めて紙片を眺める。専門職である彼だから、読み取ることができる数字の羅列。こまかな星々の動きをわかりやすい文章にして報告書にまとめる。それが彼の仕事だ。

閑職、と呼ぶ者もいる。

だが彼はこの仕事に満足していた。たしかにかつてとは、あまりにも違うペースで生活している。夜に起きて朝に眠る。人がめったに訪れることのない山奥の天文台でただ星を眺める毎日は、栄光とは程遠い。それでも、満足しているのだ。ごみごみとした街中で、くだらない争いにかまける輩に云ってやりたい。

夜空に散らばる、星のきらめきを知っているか。
かすかな動きから伝わる、星たちの鳴動を知っているか。

幼いころにあこがれた天体。そもそもこの研究の道を選ばせた衝動の近くに、彼はいる。
心のどこかは確かに枯れ落ちているが、いまの彼はとても穏やかで安定しているのだ。これこそをしあわせと云うに違いない。

望遠鏡を丁寧に布で拭って、階下に降りる。やかんを火にかけ、湯を沸かし始めた。今日はどの紅茶を飲むことにするか。知人が送ってくる紅茶缶を見比べているうちに、ちりりん、と自転車のベルが鳴り、いつもの若者が新聞を差し出してきた。しゅーっと湯気が朝の空気に立ちのぼる。穏やかな終わりだ。

014:天体▼
(ファンタジー? 政争に敗れた天体学者)

天体というお題を眺めているうちに、メガネをかけた五十代の学者さんが思い浮かびました。傍目からは淡々と、でも本人はしあわせに感じながら星を観測しているの。どうしてこんなに穏やかなのかなあと考えているうちに、こういうお話になりました。

2011/08/25

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