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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

1・祖母のレストラン「アヴァロン」

けたたましいクラクションの音に、はっと硬直した。
慌てて視線を向ければ、渡ろうとしていた信号は早くも赤信号に変わっている。いけない、いけない。つい、手の中の帳面に夢中になっていたみたいだ。帳面を閉じて、せこせこと信号を渡り終える。通り過ぎる車から罵声が飛んで、さらにはまわりの視線まで感じ取ってしまって、いたたまれない想いを味わった。

(ごめんなさい~)

日本人の哀しいサガと云うべきだろうか。他愛のない罪悪感のまま、やや前かがみになって人々の合間をすり抜ける。荷物の入ったリュックサックを背負い、読みふけっていた帳面を小脇に抱えて、だ。こそこそと行動するわたしの姿はさぞかし情けないものだったに違いない。羞恥に頬が熱くなる。

(それもこれも、おばあちゃんが悪いのよ)

八つ当たり気味に、わたしの思考は1年前に亡くなった祖母のもとに向かう。祖母は生粋のイギリス人で、ここ、ロンドンの地において食堂を経営していた。なんでもその食堂は、100年以上の歴史を誇るお店で、知る人ぞ知る、と云う名店だったらしい。なかには有名食堂のシェフまでも、お得意さまとして訪れていたとか。同じ料理人を志しているわたしにとって、そんな逸話を持つ祖母、エマ・ウィルソンは憧れの存在だ。

彼女のようになりたい。

そんな願いを抱いているわたしは、大学受験を終えた最初の夏休みに、もう他の人の手に渡った、祖母の食堂を見学するために渡英したのである。そして祖母の娘である母が、出がけに渡してくれたのが、このわけのわからない単語で書かれている帳面、と云うわけなのだ。

「わたしはもう、あの人のようにはならないと決めているから」

祖母の後継者になると云う選択を、食堂のオーナーになると云う道を、父の花嫁になり英語教師になることで放棄した母ダイアナは云った。

「だからそれは、わたしには不要なものよ。でも橙子、あなたは母のように料理人になりたいのね? だから母から受け継いだそのノートをあなたにあげるわ。母の生き方を否定しても、その記録までも消し去ることはわたしには出来ないことだから」

――母と祖母の間に、何があったのか。わたしは知ることはない。おそらく永遠に知らないままだろう。

それでもこの帳面は、生涯独りであり続けた祖母の忘れ形見であり、伝統を持つ食堂の味を記したレシピ集でもある。それを譲ってくれた、母の想いに感謝するしか、出来ることはないと思うのだ。

しみじみとこみ上げる想いを噛みしめながら、流れるような筆記体でrecipeと書いてある帳面をめくったのは、ようやく動き出した飛行機の中のことだ。

そして、わたしは大きな問題に直面した。
読めないのである。

せっかく母が譲ってくれたレシピ集、祖母が残したと云う膨大なその帳面に書かれている文章をわたしは読むことはできないのだ。文字が汚いと云うことはない。丁寧に書かれた文字は、崩したところも少なくて、日本の英語教育を受けたわたしでも読みとれるアルファベットだ。

けれど、読めない。意味が理解できない。
英会話理解のために持っていた、電子辞書に祖母が書いた単語を打ちこんで意味を調べてみた。ところがそのような単語は存在しないのだ。ちなみにレシピ集であることは間違いない。先にも云った通り、表紙にそう書いてあるし、めくった帳面にも手書きのイラストでいかにもな料理が描いてある。それにわけのわからない単語の隣には、数字と重さの単位が書いてあるのだ。おそらく材料の量だろう。だからこの帳面がレシピ集であることは、間違いないと思うのだけど。

ともあれ、信号を渡って道路を歩いているわたしは、少しだけ考えた。チェックインの時間までまだ間がある。どこか落ち着いたところで、この帳面を読もうと。

さいわいにも観光ガイドをめくれば、遠くないところにレスター・スクエアと云う公園がある。お昼代わりのフィッシュアンドチップスでも購入して、食べながらゆっくりと帳面を読んでいくのもいいじゃないか。

閃いたアイディアは、なかなか素敵なものに思われた。だからまずはリュックサックを握りしめ、意気揚々と歩き始めたのだ。

――やり遂げた感を覚えたのは、わずか13分後。

英会話の極意は、云った者勝ち。そんな教訓を得ながら、戦利品のフィッシュアンドチップスを手に持って、その公園に足を踏み入れた。行儀が悪いことかもしれないけれど、フィッシュアンドチップスを食べながら。

旅の恥はかき捨て、と云う段階まで開き直ったつもりはない。ただ、こんなに熱々の美味しいものを美味しいうちに食べないのは、料理に対する冒涜じゃないか。そう呟いて、歩きながら食べたのだ。

フィッシュは衣が思ったよりも薄くて、カリッと揚がって、ジューシーな感触だ。そしてチップスはジャガイモの種類が日本とは違うのだろうか。不思議なほど甘みがあって、まぶしてある塩との味のバランスがすごく良い。誰だろう、イギリス料理がまずいと云った人。こんなにおいしいものがあるじゃないか。そんなことを考えながらご機嫌に歩いていた。さいわい、雨が多いと云うイギリスにしては天気も良く、そして公園の翠は青々として本当にきれいだったのだ。

だから、ちょっと足元が不注意だったと思う。

あっと思ったときには、もう、わたしは地面に手のひらをついていた。もちろん持っていたフィッシュアンドチップスは散らばってバラバラだ。じんじんと響く手のひらの痛みより、熱々であんなに美味しかったフィッシュアンドチップスがもう食べられなくなった状態になったことの方が哀しかった。ぐっと唇を結んで、そしてきっと振りむいた。そこにわたしの脚をひっかけた、けしからんものがあるはずなのだ。

ところがそこにあったのは、けしからんものなどではなく、きらきらした男の人だったのである。

いままで見た映画にも覚えがないほど、本当に純粋な金色の髪をかきあげながら、ゆっくりと起き上がる彼は、これまたあざやかなほど冴えた印象のサファイアブルーの瞳をわたしに据えた。ただ、優美な美貌の彼がまとうシャツには、フィッシュアンドチップスの油が飛び散っていて、男ぶりを少々台無しにしている。

じろり、と睨まれたのは、決して気のせいじゃない。

「人がいい気持ちで寝ていたのに」

それはなめらかでゆったりと響く、聞き取りやすい上級英語の言葉だった。

「痛みで中断させられた揚句、フィッシュアンドチップスのシャワーか。まったく最高の目覚めだよ」
「ご、ごめんなさい」

思わずわたしは謝っていた。

英会話の極意は、云った者勝ち。先ほど取得した教訓を思い出していた。ああ、そしてもちろん、不満もおそらく云った者勝ちなのだ。わたしだって、お昼ご飯であるフィッシュアンドチップスを失って哀しい想いをしている。でもその不満を主張するより先に、不機嫌になってしまった人に文句を云われてしまったら、謝る他ないような気がしてくるのだ。弱腰? 仕方ないじゃないか。だって不注意だったことは事実だし。

目の前の彼は、わたしの謝罪を聞くなり、きゅっと皮肉げに唇を持ち上げた。あ、容赦しないつもりだ。言葉はぼんやりとしか理解できなくても、表情の変化はよくわかるのだ。ましてやこれだけ表情が豊かに動く人間なら、なおさらだ。

「ごめんなさい? じゃあ、きみは償いのために何をしてくれる?」

想像通りに厳しい言葉が、その唇から吐き出される。

何をさせようと考えているんだよう。うろうろと落ち着かない気持ちではあったけど、必死で考えた挙句に、せめてと閃いた償いを口に出してみた。

「お、お昼ご飯、おごりましょうか?」

彼の意地悪な微笑は揺らがない。

「フィッシュアンドチップスを?」

冗談じゃないね。表情だけでそう云って、傍に散らばっているフィッシュをつまみ上げた。ふんと鼻で笑う、その態度がこのときはじめて、むかっと来た。

「イギリスに来た観光客は、これしか美味しいものがないかのように、フィッシュアンドチップスを注文する。そして他にイギリスには美味しいものはないと侮辱の言葉を吐くんだ。まったく呆れたものだよ」
「……侮辱しているのは、あなたじゃないの?」

辛辣な言葉って不思議だ。細かいニュアンスが理解できなくても、しっかりその意味が伝わってくる。
だからわたしは我慢できなくなって、そんな言葉を吐き出していた。イギリスの料理がまずい。そういう評価が定着していることは、わたしだって知っている。

でも、そうじゃないことも知っているのだ。

先ほどまで食べていたフィッシュアンドチップスは本当に美味しかった。さすが海に囲まれた国だとまで称賛したくなるほど、イキのいい魚を使っているんだろう。身が適度にしまっていて、衣との相性は抜群だった。熱々で、口に入れれば火傷するほど。チップスだって、ほくほくとしているけど、ぽくぽくしたような味気なさはない。カリッと揚がっていて、それは熟練した職人の技を感じさせる逸品だ。

それだけが美味しいと云うことは決してない。

わたしはそれを知っている。だってわたしは、あの、エマ・ウィルソンの孫娘なんだもの。

わたしの言葉を聞くなり、ちかりと蒼い瞳がきらめいた。それはよく観察したら、面白いものを見つけた子供のような瞳だったかもしれない。けれどもむっとしていたわたしには、挑戦的な瞳に映ったのだ。

「少なくともわたしは、フィッシュアンドチップスだけが美味しいイギリス料理だって思っているわけじゃない。確かにイギリス料理の種類は少ない。調理方法だって、野菜は元の食感がわからなくなるほど茹でてしまうし、真っ黒になるまで油で揚げるのは正直どうかと思う。後で塩やレモンで風味をつければいいやと云わんばかりに、味付けしないのもはっきり云って料理人の手抜きとしかいいようがない。でもねえ!」

そしてしまっていた帳面を、リュックサックの中から取り出して、びし、と彼に突き付けた。

「イギリスにだって100年は続く、美味しい食堂だってあるってことは知っているのよ。これから行こうとしてたの。これがその証拠。レシピ集だけど読んでみる? きっと美味しい料理のレシピがのっているんだから」

ふうん、と目の前の彼は、わたしを見た。ちらりと笑う、その微笑は苛立たしい要素を含んでいない。

「イギリスで100年以上続く食堂なんて珍しくもないけれど? でもまあ、そこまで云うなら、たしかにおごられてみたいと云う気分にはなるね」

そうして彼は立ち上がり、ぱんぱんと服からカスを払って落とす。油のしみは落ちていないけれど、それでもだいぶんマシな状態になった。そして寝っ転がっていた彼のまわりに散らばっていた本を閉じて集める。意外なことに、それは料理の本であるようだ。ところどころ油シミがあるところに顔をしかめながら、それでも黙って動き続ける。なんとなくわたしは、黙ってそんな彼を見守っていた。するとそんなわたしに気づいた彼は、呆れたように眉を上げる。

「なにをぼさっとしているんだい」
「え?」

わたしはこのとき、本気で何を云われているのか分からなかった。

「お昼。おごってくれるんだよね?」

にっと唇の端を持ち上げて笑う。そんな様子は本当に意地悪そうだったけれど、同時になぜだかやさしい印象もあって、ちょっとだけまごついてしまった。でもすぐに我に返って、散らばったフィッシュアンドチップスを集めて新聞で出来た袋に入れる。捨てるしかないにしても、せっかく調理していただいた料理だ。大切に捨てたい。そうしてゴミ箱を探すわたしをさりげなく案内して、彼は腕を組んだ。

「それで、どこの食堂を案内してくれるのかな」
「……アヴァロン」

おそるおそる、祖母が経営していたと云う食堂の名前を口にしてみる。アヴァロン。ずいぶん、たいそうな名前だと聞いたことがある。なんでもアヴァロンはイギリスのどこかにあるという伝説の島の名前で、イギリスの英雄アーサー王の遺体がある場所とも云われているらしい。不思議な響きの名前は、けれどもわたしにとっては憧れを誘う名前でもある。

その名前を聞いた彼は、ふっと笑みを消した。

「アヴァロン。……アヴァロンね」
「知っているの?」

期待とときめきを込めて訊き返すと、顎を指ではさんだ彼は軽く頷いてきた。

「名だたるレストランのシェフたちが、ひそかに常連だと云う食堂だよ。ただ、僕はその場所を教えられたことがないから、行ったことはないけど」

うわあ。思わず誇らしくなって、頬がゆるむ。
そうでしょうとも、と云わんばかりに、うんうん頷くと、彼は苦笑した。そしてちらりとわたしが手に持ったままの帳面に視線を落とした。

「それが、その噂のアヴァロンのレシピ集? なんできみが、そんなものを持っているんだ?」

誇らしさは最高潮に達したと云っていい。
わたしは少しだけ顎をあげて、大きな声で云った。

「それはわたしが、アヴァロンオーナーの孫だからよ」

彼がとても驚くかなという期待はあっけなく裏切られた。なるほどね、とあっさりとした様子で呟いた彼は、貸してくれ、と云う言葉で、さらりとわたしから帳面を取り上げた。期待を裏切られるどころではなく、大切なものまで取り上げられたわたしは憤慨して睨んだものの、彼は高い位置で平然とページをめくる。

くそう。少しばかり背が高いと云って調子に乗って。

ちなみにわたしの身長はこれでも155センチはある。小さすぎると云うことはないはずだけど、それでも最近の日本人としては小柄なほうになるだろう。そんなわたしより、この男の人は20センチくらい背が高い。イギリス人としては平均的な体格なんだろうか? でもこうして帳面を取り返そうとしたら、ためらってしまうほど、体格差は大きなものに感じた。

「……なんだ、これは……」

やがて、そんな言葉を聞いた。

あ、とそこでわたしは帳面の内容を思い返していた。英語の辞書には載っていない単語が並んでいるレシピ集だ。もしかして生粋のイギリス人である彼なら分かるかもしれないと思ったけど、そうでもないらしい。

「あなたでも、わからない?」

訊いてみると、ちらりと冷やかなまなざしがわたしを見下ろした。ちょっとむっとしてる。え、とためらっていると、ややして、諦めたような溜息が響いた。

「わからない。僕も料理人として、平均以上に調味料や材料には詳しくなっているはずだけどね」

わたしはその言葉に目を見開いていた。
料理人。確かに彼はいまそう云ったのだ。すらりとした体形や、なんだか優美な印象もある美貌からは信じられないけれど、でもこんなことで嘘をつく人はいないだろう。

「あなたはどこかのレストランで働いているの?」
「まあ、……そんなとこ」

曖昧な言葉が少し気になったけれど、嬉しくなってわたしはさらに言葉を続けた。

「わたし、いまは学生だけど、料理人希望なのよ。ゆくゆくは自分のお店を持ちたいと思っているの」
「ふうん」

あまり気がなさそうな答えだったけど、それは仕方がない。なぜなら彼は相変わらず帳面に視線を落としていて、その読解に意識を囚われていたからだ。

けれどもわたしは構わず、にまにまと言葉を続ける。

「たぶん、日本で開店することになると思うんだけどね。でもおばあちゃんが食べさせてくれたような、美味しいイギリス料理を出すお店を経営したいと思っているの。だからそのレシピ、解読したいんだけど」
「難しいな。――さっぱりわからない」

そう云って彼はようやくその帳面を返してくれた。
そうしてゆっくりと歩き出す。けれどもすぐに足を止めて、わたしを振り返った。

「ちょっと。きみが先に立ってくれないと目的地にはたどり着けないよ。僕は場所、知らないんだから」

そういえばそうでした。慌てて先に歩きながら、思いがけない展開になったなあとこっそり呟いていた。

いつまでもあなた、きみと呼びかけるのも奇妙なものだから、お互いに名前を名乗り合った。高槻橙子、と名乗れば、ひどく呼びづらいようにトウコ・タカツキと繰り返される。トウコはトーコに似ていたけれど、それでも丁寧に繰り返される発音は、悪くない。

そんな彼の名前は、少しだけ長かった。
オリヴァー・ルイス・エルバート・スタンフォード。

なんでも産まれた際に、父方の祖父と母方の祖父とが、共に、自分の名前をプレゼントしてくれたらしい。小説で読んだことがある風習を、まさかまのあたりにすることは思わなくて、わたしは曖昧に言葉を継いだ。

「ふうん。おばあちゃんたちはプレゼントしてくれなかったの?」

おじいちゃんだけ、と云うのは、なんだか不自然に思えてしまったからそう訊いたのだけど、オリヴァーは露骨に呆れた顔をした。

「僕は男だ。そんな僕に、女の名前をプレゼントして何の意味がある?」

ごもっとも。わたしは肩をすくめた。
馴染みのない風習に、どう返したらいいのか戸惑ってしまったのだ。心の中でそう云い訳していると、オリヴァーはふっと笑った。食堂までの距離だけの付き合いだけど、この短い距離でもわかったことがある。

オリヴァーはよく笑う人だなあと云うことだ。というより、笑顔のバリエーションが豊かな人と云うべきか。馬鹿にしたような笑顔に、普通にさわやかな笑顔、温かさより辛辣さを伝えるような笑顔。笑うと云えば声をあげて笑うしか思い当らなかったわたしには、それはずいぶん新鮮な感覚をもたらした。なんだかいろいろな反応を引き出してみたいと思ったのだ。この感覚は、弟が産まれたときに相手をしていた感覚に、非常に似ている。

とはいえ、オリヴァーはすでに料理人として働いている人間だ。明らかにわたしより年上だろう。だからそんな想いは心に隠して、それなりに弾む会話をしながら、食堂まで歩いた。

――食堂・アヴァロンは、ずいぶん立派な石造りの建物の一階にあった。大きな通りから入り込んだ、小さな裏通りに面している。けれど立派な風体だと感じた。深い緑色のテントに、Avalonと斜めに傾いた筆記体で書いてある。テント自体は新しいもののようだけど、建物の石はすこし黒ずんでいる。それがまた続いてきた歴史を感じさせ、わたしはたじろいでいた。敷居の低い食堂だと聞いていたのに、なんだか、格式が高いような気がする。さきほどイギリスに着いたばかりのわたしは、おしゃれなどしていない。ジーンズではないけれど、近所のマーケットで購入したパンツを履いていた。これはまずくないだろうか。

完全に怖気づいたわたしは、うろうろと視線を動かして、ふと食堂前にいる黒猫に気づいた。ずいぶんきれいな猫だ。金と翠が混ざったような瞳が印象的で、じっとこちらを見つめている。かわいい。余りものでも貰おうとしているのかな。思わず微笑んでそちらに意識を集中させていると、ポンとオリヴァーがわたしの肩を叩く。そんなに着飾った印象はないのはオリヴァーも同じなのに、やけに堂々としている。不思議に思うと、くい、と唇の端を持ち上げた。

「きみは祖母の経営している店の営業形態もろくに知らないんだね」
「どういうこと?」

するとオリヴァーは食堂を眺めながら、人から聞いた話だが、と前置きして教えてくれた。

「イギリスにあるレストランは、朝、昼、夕と数時間にわけて開店する店が多い。でも、このアヴァロンは朝、昼、だけの営業に限って開店している。夜は営業していないんだ。だからいまを逃せば、明日までアヴァロンの料理を食べることはできないよ」

奇妙と云えば奇妙な営業形態に、目を瞬かせた。
少し考え込んで、それはもしかしておばあちゃんの身体の調子が悪かったからかな、と閃いた。名店だけれど、個人経営の店だとも聞いている。ならばシェフの体調によって左右されても仕方ないだろう。

でもそうではないらしい。オリヴァーが云うには、それはもう開店当時から続く営業形態で、当時から様々に物議をかもしだしてきたとか。夜でこそ、ゆったりとくつろげると云う考えもあるものね。でも代々のオーナーは、頑固にも考えは変えなかったらしい。

「面白いことに、代々のオーナーは全員女性なんだ。だから家庭の仕事に支障があるから、という理由を云っていた人もいたらしい。もっとも当時だって使用人を雇えるクラスだったから、それははっきり云って疑問視できる意見だけどね」

とにかく入ろう。そんなことを云って、オリヴァーはわたしの背中にそっと手を当てて、入店を促した。

でもやっぱりわたしは、たじろいでしまう。おそるおそる見上げて、オリヴァーに問いかけた。

「ねえ。このお店、やけに立派だけどドレスコードとか、ないのかな。この格好でも怒られない?」

するとオリヴァーは、溜息をひとつ洩らした。
いかにも呆れた、と云わんばかりの態度だ。そんな態度を取られても、びくついてしまうものは仕方ないじゃないか。こちとら、日本にいた頃だって、ファミレスならいざ知らず、フランス料理のレストランにすら行ったことがない身の上なんだ。マナー上の問題にあたふたするのは、むしろ当然だと思う。

「きみは、この食堂オーナーの孫娘だろう」

それでもオリヴァーは云ってくれた。

「いまはオーナーが違うとはいえ、かつてのオーナーの、孫娘であることには違いない。堂々と入ればいい。多少は融通をきかせてもらえると考えるんだね」

そのとき、まるで賛同するかのように、にゃあん、と云う猫の鳴き声が響いた。見ると、先ほどの黒猫が歩行者道路に座り込んで、こちらを眺めている。それがなんだか、応援されているようにも感じてしまって、くすりと笑っていた。

たしかに。そう、緊張しなくていいのかもしれない。

ふっと短く息を吐き出して、一歩足を踏み出す。ぴかぴかに磨きたてられたガラス扉を押せば、明るい内装の店内が見えた。上半部が白塗りで、下半部が木製と云う壁で、木目は飴色に輝いている。客の姿はない。おそるおそる入れば、カウンター内に動いていたエプロンをつけていた男の人がこちらを振り返る。黒い髪、黒い瞳、そして黄色い肌の人だ。そう、おばあちゃんの後を継いだ人は、日本から訪れていた旅行者だった人なのだ。視界の隅に、驚いた様子のオリヴァーが見えた。ともかく声をかけよう。そう思ったわたしが口を開くよりも先に、その人は困ったように眉を寄せる。

「申し訳ありません。もう閉店の時刻なんですが」

え。思わず腕時計を見て時刻を確認する。もう、午後2時に近い。ずいぶん早いな、と呟いて、あ、そうか、と閃いた。オリヴァーがさっき云っていた、営業形態だ。このお店はお昼で閉まるのだった。うわあ、本当に予想以上に早い。そう思っていると、隣に立ったオリヴァーがわたしの肩に手を置いて口を開いた。

「こちらにいるのは、先代オーナー、エマ・ウィルソンの孫娘なんだ。祖母の味を食べたくなって、はるばる日本からやってきたらしい。それに免じて、自慢の料理を出してやってくれないかな」

するとその人は大きく目を見開いて、わたしを見つめる。やけに強い眼差しに、ちょっとたじろいだ。かと思えば、カウンターから出てきて、にっこり笑いかけてきた。親しみを込めて、右手を差し出してくる。

「それでは、高槻さまでいらっしゃいますか」

彼は最初、日本語で話そうとしてくれたのだと思う。
でもオリヴァーがいることから、英語を話すことにしたんだろう。その代わり、ゆっくりと話してくれたから、充分に聞き取ることが出来た。それが嬉しくなって、差し出された大きな手をぎゅっと握った。

「はじめまして。東條孝之さんでいらっしゃいますよね。両親からいつもお話をうかがっています。祖母の味に惚れ込んで、弟子になって下さったとか? おかげで晩年の祖母はずいぶん心強かったと思います」

すると東條さんは、少しだけ気弱な笑みを見せた。

「さあ。エマはとても厳しい方でしたから、いまでも、ご満足いただいているかどうか、自信が持てません。作れば作るほど、彼女の作る味から遠のいているようにも感じています。ですがまだ、お客様には見放されるほどではないようですが」

ずいぶん、自虐的な言葉だ。

わたしは驚いてしまって、次にどう云えばいいのか、言葉に迷った。するとそれを察した東條さんは、首を振って、身体を動かした。テーブルにわたしたちを導くように動いた彼は、にっこりと笑ってくれる。

「失礼。聞き苦しい言葉を聞かせてしまいました。ともあれ、座って下さい。閉店時間ではございますが、高槻さまとそのお連れさまであるのなら、喜んで料理させていただきます」

そうして、わたしたちは、窓際にあるテーブルに座った。もう閉店していると云うのに、外から見えたらまずいと思ったのだけど、にこにこと笑った彼が薦めてくれたのだ。それでもためらっていると、さっさとオリヴァーは座ってしまう。本当に遠慮がないなあ、この人。

仕方がないから、わたしもその向かいに座る。2人の希望を聞いた東條さんは、カウンターに戻って料理を始める。休憩したいだろうに、悪いことしたな。でもようやく祖母の味が食べられると云うことに、頬がゆるんでいた。実は一度だけ、食べたことがあるんだよね。3年前に来日して、作ってくれたのだ。わざわざ調味料から材料まで、飛行機経由で持ち込んでね。それはもう、本当に美味しくて、ほっぺたが落っこちてしまうのではないかと思った。わたしはもちろん、食が細い父親も珍しくお代わりしたものだ。母親は、お代わりすることはなかったのだけど、それでもどこか誇らしそうにゆっくり食べていたことを思い出す。

(おばあちゃんの味は認めていたくせにさ)

実の娘としては、少し冷たい言葉を云っていた母親を思い出す。ホント、2人の間に、何があったんだろ。

「トウコ」

するとオリヴァーが、わたしの名前を呼んだ。
少しうつむいていたわたしが顔を上げると、メニュー板を取り上げていたオリヴァーがこちらを見ていた。

「なに?」
「さっきのレシピ集を出してくれないかな」

そう云われて戸惑ったけれど、わたしは素直に言葉に従うことにした。隣の椅子に置いたリュックサックの口を開いて、いちばん上に置いていた帳面を取り出す。いざ、手渡そうとすると、なぜかオリヴァーはカウンターに視線を向けていた。東條さんを見ている。察したわたしは振り向いたけれど、真剣な横顔と大きな背中しか見ることが出来ない。ちょっと残念に思ってオリヴァーに視線を戻した。するとまだ見ている。

「オリヴァー?」

呼びかければ、はっとわたしに向き直る。

なぜだか考え深げな眼差しを向けられたけど、なにかを云うことはなく、そのまま手を差し出してきた。その手のひらに、ポンと帳面を置いた。彼はぱらぱらと帳面をめくって、あるページを開いて止まった。気になったわたしは中腰になって覗き込んだ。やっぱり謎の単語が並んでいる。それでもメニューに並んでいる文字と見比べて、オリヴァーは考え込んでいる。

なにか、掴んだのだろうか。

ならば邪魔するのはまずい、と、わたしは口を閉じたままだった。やがてふわりと良い匂いが漂ってくる。すると現金なもので、お腹がきゅうとなった。そういえばお昼は遅かったうえに、公園にばらまいてしまったものなあ。切なく溜息をついていると、やがて料理が出来あがったみたいだ。東條さんがプレートを持ってこちらにやってくる。ことんことんとテーブルに置かれた料理を見て、笑った。そうそう、祖母が作った料理もこういう風にワンプレートだったのだ。お皿の上には、肉のパイ包み焼きとゆでた野菜類、そしてジャガイモがのっている。ふわんと漂う匂いに、思わず鼻をぴくぴく動かしていた。空腹なお腹が痛い。

「デザートは後ほどお持ちしますよ。まずは今日のセット料理をお持ちしました。牡牛の肝臓煮込みパイ包み焼きと、茹で野菜です」

目の前に料理を置かれたオリヴァーは、さすがに考え事を中断させた。レシピ集を隣の椅子に置いて、ナイフとフォークを持ち上げる。いそいそと手をあわせたわたしも、同じようにナイフとフォークを取った。そのままひと口に切って、フォークにさす前に脇に立っている東條さんを見上げる。

「いただきます」

これはさすがに日本語で云った。

すると彼は嬉しそうに笑って、「どうぞおあがり下さい」と云う日本語が返ってきた。それでひと安心して、ひと口、肉を口に含んだ。

ぎゅっと濃縮された煮込みソースの味が口の中に広がる。少しその味を堪能して、もぐもぐと口を動かした。こくりと呑み込んで、にっこりと笑う。おいしい。祖母が作る味とは少し違う気もするけれど、それでも胃袋に沁み渡る美味しさだった。今度はパイを切って、一緒に肉と口に放り込む。しゃくしゃく、とパイが崩れていく感触と、肉がほぐれていく感触がたまらない。さらにひと口食べて、今度はきんと冷えたミネラルウォーターを飲みこんだ。そして東條さんを見る。

「美味しいです」

すると東條さんはなぜか、複雑な笑みを浮かべた。

あれ、と思って瞬いていると、向かい側からかちゃんと云う音が響いた。顔を上げると、オリヴァーがナイフとフォークをほうり出したところが見えた。

「期待外れ」
(――え)

耳に飛び込んできた言葉が信じられなくて、わたしはまじまじと向かい側のオリヴァーを見つめた。彼はナプキンで口を拭って、冷やかに東條さんを見つめる。

「噂に聞いていたけど、アヴァロンの味も落ちたものだね。この程度の味しか出せないの? これならうちの人間に作らせた煮込みの方がはるかに美味い」

次々と云い放たれる言葉に、東條さんは顔をこわばらせていく。それを見たわたしは、オリヴァーを睨んだ。

だって、あまりにもひどい言葉だ。

ところがオリヴァーはわたしなど気にしてない。
ふん、と、あの仕草で、鼻で笑って席を立つ。そしてわたしを振り返ることなく、そのまま店を出ていってしまった。わたしに、ひとことでも云うこともなく。

(なんだ、あの男!)

むかっと来たわたしは、立ちあがって追いかけてやろうかと思った。でもそれよりも先に気になったのは、オリヴァーが残した料理だ。ひとくち、ふたくち。それだけ食べられた料理は、寂しげに放置されている。なんだか、しあわせな気持ちが、汚されたような気がした。沈黙したままの東條さんを見ていられない。どうしたらいいのか分からなくて硬直していると、ふっと空気が触れた。おそるおそる見上げると、東條さんは笑っている。あ、と思った。哀しそうな笑い。

「云われてしまいましたね」

そうとだけ云って、オリヴァーが残した皿に手を伸ばした。あ! わたしはとっさにフォークを伸ばして、かつんとその皿にある料理をぶっさしていた。驚いたように東條さんが動きを止める。そのまま料理を口に放り込んで、もぐもぐ動かした。ごくんと飲みこんで。

「美味しいですよ」

東條さんの顔は見ないままに、わたしはそう云った。
感情がかなり高ぶっていたし、オリヴァーのやつがいなくなっていたから、日本語で話している。

(あんなやつ!)

わたしはむかむかと腹が立っていた。

なんて高慢な奴なんだろう。本当に彼は、紳士と呼ばれるイギリス人男性なのか。たとえ舌に合わなくても、とりあえずその場は穏やかにやり過ごし、そして後でこっそり云えばいいだけの話じゃないか。それを料理してくれた人に対して、いちばん失礼な方法で席を立つなんて。カプ、と食べる。ああ、美味しい。

「……無理をしなくてもよろしいですよ?」

やわらかく東條さんの声が響いた。
むっとしたわたしは、思わず東條さんを睨む。すると東條さんはたじろいだようだった。いけない、これじゃ八つ当たりだ。でもちょっと引っかかりを覚えたわたしは、思い切って口を開くことにした。

「わたしはあの祖母の孫です。お世辞は云いません。本当においしいと感じたから、そう云ったんです。だから、2人前でも食べられるんです!」

きっぱりと云ってのけると、彼は目を丸くした。

そして、くしゃりと顔を崩した。ありがとうございます。そう云った後に、少しだけ息をつく。わたしはその間にも料理を食べていた。だってお腹がすいていたし、美味しいんだもの。野菜はただ茹でているだけではなくて、かすかな塩気を感じる。それをソースにつけて食べると、また美味しんだこれが。

残念ながら、おばあちゃんの味とは、少し違う気がする。それでもおいしいイギリス料理を食べられてわたしは満足だった。唯一、あの男の無礼さを除外して。

(ああ、もう連れてくるんじゃなかった!)

あの瞬間の、妙に腰を低くした自分を思い切り罵ってやりたい気分だった。なんで謝ったわたし。なんであんな男を大切なおばあちゃんの食堂につれてきたんだわたし。心の中でぶつぶつと云っていると、ふ、と、また空気が揺れた。かすかな笑い声が響く。

何事かと思って顔を上げると、東條さんは困ったように微笑んでいた。口を開いて、云ってくれる。

「美味しいとおっしゃっていただけるのは嬉しいのですが、欲を申せば、怒っていない状態で食べていただきたかったですね」
「あ、……ごめんなさい」

思わずしゅんと反省してしまった。

そうだ、あまりにも料理人に失礼な態度だった。とはいえ、もうお皿の上の料理は、ほぼ空の状態だ。いいんですよ、と云ってくれた東條さんは、微笑んで、そしてカウンターに戻ってデザートを持ってきてくれた。

アップル・クランブルだ。わたしは嬉しくなって顔をほころばせた。これは素朴なお菓子。焼いたリンゴの上に、ほろほろと崩れる生地をのせて焼いてある。生のリンゴが食べられないわたしだけど、焼いたリンゴだからこれは食べることができる。お菓子用のスプーンを動かして、口の中に入れる。ほろ、と控え目な甘さの生地が、口の中で崩れる。甘く煮たリンゴが、なんだかクセになる感触だ。これはたぶん、砂糖を使って煮詰めたんじゃない。蜂蜜を使ったんじゃないだろうか。そんな、すごくやさしい味がする。

「……高槻さまは、本当においしそうに食べてくださいますね」

先ほどのオリヴァーの言葉はもう忘れてしまったのか、紅茶を持ってきてくれながら東條さんはやっぱり複雑そうに云った。ふわりとこちらまでダージリンは薫る。スプーンをひとまず置いて、にこりと笑った。

「だって美味しいんですから。美味しく食べるのは当たり前でしょう?」
「……ありがとうございます。そう仰って下さるのは、あなたと、――エマくらいなものですよ」

わたしは目を瞬いた。おばあちゃんが、という想いがまず生まれて、そしてほのぼのとした感触になった。
そうか。――このひと、おばあちゃんの弟子だもの。
認められていたんだなあ、と思い至ると、ちり、と胸が妬ける感触がした。

これは嫉妬。おばあちゃんの傍にいて、当たり前のように料理を教えてもらっていただろうこの人が、わたしは妬ましいのだ。3年前、祖母はわたしの料理を食べてはくれたけれど、「美味しい」とは云ってくれなかったもの。それが祖母の食べた、わたしの料理だと云うことが、なんだか無性に悔しい。わたしはこの人よりもおばあちゃんに近い存在のはずなのに。そう思ってしまえば、悔しさだけではなく寂しさも生まれてくる。ちょっと沈黙していると、気弱な笑みを浮かべた東條さんは言葉を続ける。

「ですがやはり、ほとんどの方が物足りない想いをしてらっしゃいます。これはエマの料理じゃない。アヴァロンは味を落としたんじゃないのか。――先ほどの方ほどはっきりおっしゃった方はいらっしゃいませんが、それでもね、表情が語っているんですよ」

そう、語っている東條さんは寂しそうだった。

どうしたものだろう。わたしは言葉に迷い、黙ってスプーンを動かした。そうして落ちた沈黙に、はっと我に返ったのだろうか、東條さんは今度は照れ臭そうに笑い、そしてこんなことを云ってきたのだ。

「そういえば高槻さまは、いつまでイギリスに?」

変わった話題にほっとして、わたしは口を開いた。

「とりあえず大学が休みの間は、こちらにいようかなと思っています。せっかくですし、いろいろな観光場所を見て回りたいんです」
「では、ホテルにお泊りなのですか?」

はい、と頷くと、東條さんは眉をひそめる。

「でしたらせっかくですし、この建物の居住部分に滞在されたらいかがでしょう?」
(え!?)

わたしは驚いて目をみはった。だってもう、そこは東條さんの家になっているはずだ。ところが思いがけもしなかったことを、彼は少し恥ずかしげに云う。

「実はまだ、この建物は、あなたのお母さまの名義になったままなんですよ」
「でも、レストランは東條さんがオーナーですよね?」
「確かにそうです。ですが、わたしはまだ、充分な代金を用意できないから、書類上ではあなたのお母さまに建物をお借りしている、と云う状態なんです」
「……知りませんでした」

茫然とそう云いながら、日本に残った母を想った。
さては。さては、わたしを諦めさせるために、この食堂は他の人の名義にしたと云ったな、母め!

――そう、わたしは祖母が亡くなったと聞いて、食堂を閉めようと思うの、と告げた母の言葉を聞いて、「わたしが後を継ぐ!」と主張したのだ。

いまになって思えば、世間知らずの子供の言葉だよなあと思う。どこの世界に、料理の修業もしたことがない、それも未成年の、学生に料理店の経営をさせる人間がいるというのだ。もちろん、母は反対した。

でも子供ってのは怖い。やろうと思えばできる。わたしはそう頑なに主張して、大学受験も放り出そうとしたのだ。しばらく母娘間の口論は続いた。その決着がついたのは、母が「祖母のお弟子さんに譲ることにしたの。あなたは諦めなさい」と云ったからだ。それでわたしは諦めて、いずれ日本で、と決意したのだ。

(後で電話して、とっちめてやる)

そう心に決めていると、なおも東條さんは続ける。

「ですからね、わたしは居住部分に荷物を移していません。荷物はあなたのお母さまが処分されましたが、家具はエマの遺したものが置いてあります。充分に使用できますから、滞在されても大丈夫だと思いますよ」
「ですが」
「それにきっと、その方がエマも喜ぶと思います」

わたしは反論しようとしたのだけど、結局はその言葉に押し流されてしまった。それに正直、祖母が使っていた部屋に興味がある。泊ってみたい。

だから彼の言葉に甘えるように、この家に滞在することにした。

「あ」

自宅に戻ると云う東條さんを見送って、建物の中に入ろうとしたときだ。

にゃあんという鳴き声が聞こえた。あの黒猫を思い出して、きょろきょろと首を動かす。すると、猫を抱いたオリヴァーがこちらに歩み寄って来るところだった。猫を抱いた美青年、不思議と絵になる。そんなことを一瞬考えたけど、すぐに睨んだ。こいつ、なんでまだこんなところにいるんだ。

「何の用」

つっけんどんに訊くと、皮肉に口端を持ち上げた。

「ご挨拶だな。せっかく忠告してあげようと待っていたのに」
「忠告?」

そう。頷いた彼は、真面目な顔でわたしを見る。
その真剣さに、思わず呑まれた。そのまま息を飲んで見上げると、彼は深刻な声音で告げてくる。

「あの、東條と云う日本人、気をつけた方がいい」
(え)
「……あんた、なに云ってんの?」

思わず胡乱な目つきで見上げてしまった。
なにを云いだすかと思えば、よりにもよってなんてことを云いだすんだろうこの男。あの、やさしそうな東條さんに気をつけろ、だなんて。

(それを云うなら、あんたの方がよっぽどだ!)

たったひと口ふた口、食べたくらいで同席しているわたしに何も云わないで席を立つし。あー、思いだしたらなんだか、イライラしてきた。すると溜息をついてオリヴァーはわたしの額を人差し指ではじいた。

「いいから聞いて。――あの男、きみのレシピ集をじっと見ていたんだよ。すごく、いやな感じだった」
「いやな感じで云うなら、あのまま席を立ったあなたの方がよっぽどいやなやつでしたわよ」

そう云ってやって、くるりと身体の向きを変えた。「トウコ」、呼びかけながらわたしの肩に手を置くものだから、睨みながら手を振り払った。呆れた表情の彼が癪にさわって、腰に手を当てて口を開いた。

「あなた、自分の行動に自覚がないの? いくら東條さんの料理に失望したからと云ってもね、あの態度はなかったと思わない?」

するとむっとしたようにオリヴァーは目を光らせる。

口を開いてなにかを云おうとする彼を片手をあげて制した。我ながら大胆な動作だと思うけど、とにかくまだ言葉は続いているし、なにより怒っていたのだ。

「わからない? 美味しいって云うのは、料理の味だけを云うものじゃないの。一緒に味わう雰囲気も大切なの。それをあなたは、ああいう態度を出ることによって、ぶち壊しにした。東條さんは傷ついたし、もちろんわたしも気分が台無しになった。それでも美味しくいただいたけど、気まずさは残った。あなたのおかげでね! この事態、料理人として恥ずかしくない?」

長い沈黙があった。
珍妙なものを見るように、オリヴァーは長い時間、わたしを眺めていた。そして少しだけ表情を崩す。
謝るかと思ったけれど、でもそれは甘かった。意地悪そうでやさしそうな、あの表情で彼は云ったのだ。

「信じられない女だなあ。料理人を目指すと云いながら、料理の腕よりも雰囲気を重視するのかい。料理人に向いていないんじゃないのかな」

今度こそ、わたしは腹を立てる。
無言で身体をひるがえす。そしてその言葉を聞いた。

「ごめん」

その声は、はっきりと大きく響いた。

思わず足を止める。お人好しだと我ながら思うけど、でもその声の響きにはやけに真摯な響きがあったのだ。歩き出すことも出来ないで、ちらりと様子をうかがう。するとオリヴァーは風に髪を揺らして、わたしを見つめていた。すでに黒猫は地面に降ろしている。両腕を静かに脇に降ろして、ただ、わたしを眺めている。

(……やっぱり、美形は得なのよね)

ゆるゆると鎮まっていく気分を自覚しながら、わたしが思ったことと云えば、そんなことだった。

いやなやつだ。腹立たしいやつだ。とんでもないやつだ。

確かにそう思っているのに、まなざしがオリヴァーから離せない。金色の髪を髪に揺らして、サファイアブルーの瞳を静かにきらめかせている。すると驚くほど誠実で、真摯な人間に見えてくるから理不尽だ。確かにそう考えて、同時に、そんな彼に見とれている自分にはっと我に返って、こほんと咳ばらいをした。

「本当に悪かったと思っている?」
「もちろん」
「なら、許してあげる」

そう云って、わたしはオリヴァーの脚元にいる黒猫を招いた。ゆっくりと優美に歩いてきた猫を抱き上げる。すると大人しく腕に収まってくれて、あの印象的な金と翠の瞳で見上げてくる。

ううん、本気でかわいいっ。

でもこれだけきれいな猫が、野良猫と云うのは考えてみると変だ。どこかの飼い猫かな。そもそもイギリスには動物愛護団体が多くて、はぐれ猫や野良猫もすぐに飼い主を見つけると云うものなあ。

「ねえ。あれからずっとこの猫を抱いていたの?」

少しだけ安堵したように表情をゆるませたオリヴァーを見上げて、わたしは話しかけた。いや、と彼は頭を横に振る。待っていたのは事実だけど、この猫が歩み寄ってきたのは、つい先ほどだったらしい。

「それがどうしたんだい?」
「べつに」

口ではそう云ったけれど、背中を向けたわたしはこっそり唇をほころばせていた。ずっと、待っていたんだ。ああいう去り方をしながら、それでもわたしに忠告するために、こっそりと。その事実は不思議なほどくすぐったい感触をわたしにもたらした。

猫を地面に降ろす。だって飲食店に動物を連れこんだらまずいものね。そしてオリヴァーを振り返った。

「ねえ。居住部でよければ、上がらない? お茶、淹れるから詳しくその話を聞かせてよ」

するとオリヴァーは呆れた表情になった。

ぴん。もう一度、わたしの額を人差し指ではじく。思わず抑えたけれど、全然、痛くない。そうしてオリヴァーは食堂のガラス扉を押した。慌てて追いかけると、先ほどまで座っていた席に腰掛けている。

謝ることはしても、態度が偉そうなことは変わらないんだな。そう思いながら、わたしはカウンターに入り、お茶を淹れた。他人の城を侵すような気分だけど、東條さんから使ってもいいと云う許可は得ている。
そしてテーブルに持っていけば、見惚れるほど優雅な仕草でオリヴァーはティーカップを持ちあげた。ひと口、口に含んで、満足げな微笑を浮かべる。その反応に安心しながら、わたしも紅茶を飲んだ。

うん、美味しい。

安心しながら、さらに紅茶を飲む。実は紅茶の淹れ方だけは、3年前来日した祖母に鍛えられたこともあって自信があったのだ。それは味覚に厳しいオリヴァーさえも満足させるものであったことに本当に安心しながら、オリヴァーが椅子に置いたままのレシピ集を取り上げるさまを眺めていた。

「料理を作っている間のことだよ。きみがこのレシピ集を取り出そうとしていた時、あの東條と云う男、こちらに視線を流して、きみが取り出す様子を観察してた。そして表情を変えたんだ。僕が視線を向けると、慌てたように料理に視線を戻した。それがおかしい」
「それは、――レシピ集と聞いたから、興味がわいたんじゃないの? そもそも見ていた、と云う割には、東條さん、このレシピ集に関心無さげだったし」

大げさに眉を動かして、オリヴァーはわたしを見た。

「僕が勘違いするとでも?」

わたしは真っ向からオリヴァーを見た。

「ありえるでしょ。ここからカウンターは遠いんだもの。それともそんなに視力に自信がおあり?」
「平均。それでも勘違いするほど呑気じゃないよ」

それはわたしが呑気だと云いたいのだろうか。

背もたれに身体を預けると、ぎしりとイスがわずかに鳴った。ぱらぱらとオリヴァーは帳面をめくる。そして、わずかな舌打ちをする。

「だめだ。やっぱり読むことができない。まったく、どういうつもりなんだろ。この店のオーナーは」

奇妙な言い回しに、わたしは首を傾げた。

何に対してオリヴァーが苛立っているのか、さっぱりわからない。レシピ集が読めないことがそんなに悔しいのだろうか。まじまじとその秀麗な顔を眺めていると、視線に気づいたオリヴァーはレシピ集をぱたんと閉じて、とんとんとその表紙を指で叩いた。

「おそらくこれは、きみの祖母が書いたものじゃない」

「え?」

訝しさにわたしは眉を寄せた。
何を云い出したんだろうこのひと、という心境だ。

わたしはたしかに、この帳面は祖母が遺したものだと聞いて母から受け継いだ。母が嘘をつくはずがない。つく必要もないだろう。だからまぎれもなくこれは、祖母が残したレシピ集なのだ。

ところがオリヴァーは首を横に振る。

「おそらくこれは、いままでのアヴァロンのオーナーが書き遺してきたレシピだ。エマだけじゃない」
「ああ。なんだ、そういうこと」

ようやくオリヴァーの言葉の真意がわかって、納得した。百年以上も続いているだろう、この食堂。ならば代々伝わる味もあるのだろう。それを書き記すための覚え書きとして、オーナーが書いてきたと云う推理をしたのだろう。確かに納得できる。帳面はとても古い。祖母の若い頃からのレシピがのっているからだろうと思っていたけど、そうと云われても納得できる。

(――あれ)
「……おかしいよね」
「だろ?」

ようやく気付いたかと云わんばかりに、オリヴァーが言葉をはさんだ。わたしは頷く。確かにおかしい。

なぜ、そんな覚え書きが、読むに困るものなのだ?

わたしは指を伸ばして、レシピ集を取り上げた。ぱらりとめくる。最初から最後まで、ぱらぱらとめくった。オリヴァーの推理を裏付けるように、そのレシピは途中で筆跡が変わる。いずれにしても、はっきりとわかりやすい活字体で書いてあり、そして単語を理解することが出来ない。アルファベットである以上、英語であることは間違いないと思うのだけど。

「もしかして昔の英語とか?」
「それでもエマが書いた部分はいまの英語のはずだろ。でも後ろの方のページも同じ単語が続いている。これまでのオーナーも使っていた文字なんだ」
「だとすると」

少しの沈黙を置いて、おそるおそる考えを口に出す。

「暗号?」

奇天烈な発想だと思ったのだけど、オリヴァーはあっさりと頷いた。思わず帳面を見下ろす。
奇妙な気持ちだった。なぜ、おばあちゃんは、――その前のオーナーたちは暗号でレシピ集を書いてきたのだろう。他の店の人に見られることを恐れたとか?

でもこの店は、知られざる名店ではあるけれど、小さな店なのだ。わざわざレシピを盗もうとする人間がいつはずもない。そう云えば、すぐに同意するだろうと思われたオリヴァーは少しの間をおいて、頷いた。

「そうだね。店を開くような人間は、多かれ少なかれ、自分の味に自信とプライドを持っている。わざわざ他人のレシピを盗もうとするはずがない、ね」

でも、と呟いて、オリヴァーは何かを考えている。
さっぱりわからないわたしは、開いたままのレシピ集を見下ろしていた。

――長い、歴史を持つこの食堂アヴァロン。

(これはエマの味じゃない)
(アヴァロンは味を落としたんじゃないか)

東條さんが云っていた言葉が、思い出される。この店に通う人々がそう思っているだろうと云っていた。彼には悪いけれど、少しだけ悔しい。

だってここは祖母が1人で守ってきた食堂なのだ。わたしの憧れである、祖母がずっと守り続けてきたお店、なのに、その食堂への評価が落ちてしまうのは、がんばってくれている東條さんに悪いと思いつつ、やっぱり悔しい。彼の料理も充分においしい。でもそれでもおばあちゃんの料理にはかなわないようだ。少なくともここを訪れる常連や目の前にいる人は不満だ。

(オリヴァー)

彼が沈黙しているままだと云うことに甘えて、わたしも考え込んだ。なんとか、このお店の評判を元に戻す方法はないものか。元の、通りに。

――ある。

レシピ集にそっと指をのせる。この帳面に書かれている暗号を解読すればいいのだ。そしてそのレシピを東條さんに渡せばいい。おばあちゃんの味に惚れ込んで、弟子入りしたと云う彼だもの。きっと再現してくれるだろう。そしてこのお店の評判もよみがえる。

「わたし」

そう云いかけると、オリヴァーは顔を上げた。

あざやかな瞳だ。オリヴァーのまなざしを受けて、わたしは頭の片隅でそう思っていた。同じ人間なのに、どうしてこんなに色が違うんだろう、と自分自身のくすんだ赤茶色の瞳を思い出して思う。隔世遺伝で祖母に似ていると云う色彩は、ときどき、妙なコンプレックスを抱かせる。せめて日本人らしい瞳ならよかったのに。これまでに、そう思わなかったことはない。

その宝石のような瞳に向かって、わたしは誓いを立てるような気持で、口を開いていた。

「この、レシピ集の暗号を解く。そしてその解読したレシピを東條さんに渡す。そうしておばあちゃんの味を復活させる。でないと悔しいんだもの」

オリヴァーは意外な言葉を聞いた、と云わんばかりに目を見開いた。けれど曙光のように、ゆるゆると温かな微笑を薄い唇に浮かべる。とても満足そうな、やさしいやさしいまなざしでわたしを見て、云った。

「協力する」

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