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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

2・真夜中の訪問者はしゃべる猫でした。

ぽたぽたと髪先から落ちてくるしずくを、リュックサックから取り出したタオルで丁寧に拭った。夕食を近所のパブで済ませ、入浴を済ませたところなのだ。うっすらとかいていた汗と埃が流れて、肌はずっとさわやかな感触になっている。ようやく人心地つけた。部屋の中央にある、アンティークなベッドに座れば、スプリングがわたしを受け止める。そのまま大きく腕を広げて、ばふんと倒れ込んだ。気持ちいい。

居住部に荷物を移していないと云っていた東條さんだったけれど、それでも掃除をしていてくれていたのか、寝室を始めとする部屋に埃は少なかった。おかげで窓を開けて換気するだけで、生活に耐えられる空間となっていた。大いにありがたいと思いつつ、ぐるりと部屋を見まわした。

少しばかり古めかしい印象があるけれど、なんだか温かい印象の部屋だ。この部屋の内装を眺めて、思い出したのは恥ずかしながら、ピーターラビットだった。あの人形の、おもちゃの家の内装にとても似ている。

ジョージアン王朝風とか、ヴィクトリア王朝風とか、そういう名前があるのかもしれない。でも残念なことにわたしにはこの内装を分類する知識はなく、素朴で落ち着ける内装だなあと思うばかりだった。

少しだけうっとりしている。いかにもホテルのような、この部屋に、夏休みの間、滞在していられるなんて。予約していたユースホステルではたぶん、ここまでの内装は見ることができなかっただろうし、ここは素直に東條さんに感謝しておこう。

(とにかく、気をつけるように)

東條さんを思い出したことで、繰り返しそう云っていたオリヴァーを思い出した。少し唇をとがらせる。

わたしの決意に対して、協力する、と云ってくれた彼は、当たり前だけどすでに帰宅している。ただ、協力すると云ってくれたわりには、どこに帰宅していくのか、と云うことをまったく教えてくれなかったのだ。

これから毎日、こちらを訪れるようにする。――そう云ってくれたけれど、なんだか不自然によそよそしい態度じゃないか。教えてくれたのは、少し長い名前だけ。オリヴァー・ルイス・エルバート・スタンフォード。彼のおじいさんたちの名前を含んだ名前だけだ。

でももしかしたら、わたしの方が図々しいだけかもしれない。そんなことを思いながら起き上り、居住部の居間に向かった。そこにはつい先ほど、購入しておいたペットボトルがある。一階の食堂の冷蔵庫で冷やしていたのだけど、お風呂に入る前に持ってきたのだ。風呂上がりにはやはり水分は欠かせない。そう思って、ボトルの口をひねる。まだ充分に冷たいミネラルウォーターが、喉を滑り落ちていく。

じりり。そのときだった。奇妙に耳に響く音が聞こえて、ペットボトルから口を離した。じりり。また、鳴り響く。もしかしてチャイムかも、と閃いて、そして困惑した。だってもう、パジャマに着替えているし、なによりこの家に訪れてくる人の心当たりはない。じりり。それでも、チャイムは鳴り続ける。

(えーい、ままよ)

パジャマの上に、カーディガンを着て、扉に向かった。ちなみにこの扉に、のぞき窓と云うものはない。ためらいを覚えて、扉越しに声をかけた。

「どなたですか」

ややして聞こえてきたのは、低い響きの美声だ。

「エマの血統か。店を開くんだろう? 食べに来た」

う、とわたしは硬直した。いいいいま、このひと、食べに来た、と云ったよ。

どうしよう、と頭が混乱する。この人、おばあちゃんの食堂に来たお客さまなんだ。でももうお店は閉まっているのに、昔から夜は営業してないんじゃなかったの、と様々なことを思って混乱していたけれど、とにかくこのままの状態はまずい。多少、不用心かなあと思ったけれど、鍵を解錠して、おそるおそる、扉を開いてみた。

すると、そこに人の姿はない。

あれ、と思い、頭をきょろきょろと動かす。でもそこはただ、階段の踊り場があるだけだ。人の気配はない。不思議に思って首を傾げると、するん、と足元に空気が揺れる感触がした。思わず視線を下ろして、目を見開いた。そこにはあの、綺麗な黒猫がいたのだ。

「エマの血統」

黒猫がピンク色の口を開いた、そのタイミングで、あの美声が響いた。もういちど首を動かす。すると、ふう、と溜息が響いた。くい、と猫が動く。器用に前脚を上げて、後ろ脚だけで立ち上がったのだ。

そして再び、ピンク色の口を開いた。

「店を開くためにやってきたんだろう? さっさと食事を作らないか。そのために待っていたのだぞ」
(……。……。……)

人間って、驚きが過ぎると、沈黙するんだ。

そんなことを思いながら、わたしはあのかわいい黒猫を見下ろしていた。

猫は後ろ足で立つ態勢を崩したりはしない。そして、まるで人間のように前脚を動かして、腕組みをして見せた。首をわずかに傾げて、――疲れているのかな。ぼんやりとそんなことを思ったけれど、これが幻覚でも幻聴でもないと云うことはわかっている。わたしはちゃんと裸足にスリッパの感触を鮮明に感じているし、だいいちそれなら、聞こえてくる言葉は日本語になると思うのだ。でも耳に響く言葉は、ゆったりと落ち着いた響きの英語だ。オリヴァーが話す類の、上品な印象を与える上級英語。

ぐっと扉を抑えたままの手のひらに力が入った。このまま扉を閉めて、ベッドに眠るべきなんじゃないだろうか。でもそのためには、前脚を組んで立っている猫が、どうにも邪魔だ。強引に扉を閉めてもいいけど、そうしたらこの小さな体の猫はけがをしてしまうんじゃないだろうか。ぐるぐると考え続けて、じっと見つめてくる金と翠の瞳にひねり出した言葉はこれだ。

「さすがハリー・ポッターの国。猫も人間の言葉を話すんだ」

するとぴんぴんのひげが反応する。組んでいた腕を解いて、くわっと云わんばかりの様子で口を開く。

「わたしは猫ではない!」

いや、どう見ても猫ですからあなた。

冷静に心の中で突っ込んでいると、前脚で頭をかきむしる。体毛はあっても髪なんてないのに、と思っていると、ぴたりと動きを止めて、盛大な溜息をつく。

「せっかくエマの料理が食べられると思ったのだが」

切なげな言葉に、どこか外れた動きを見せていた脳が、柔軟な動きで働きだした。猫がしゃべっている。そして猫なのに、猫じゃないと否定してくる。でもそれはひとまず横に置いて、この猫は、エマ、と云った。おばあちゃんの名前を告げたことに注目してしまう。

わたしは唇を結んで、ぐっと目をつむる。

これは、これを云うのはなんだか、大いなる敗北のようにも、そして常識に背を向ける行為のような気がするのだけど、でも思い切って云ってみよう。

「……あなたは、おばあちゃんのお客さまなの?」

すると猫はまたもやひげを動かした。そうだ、と嬉しそうに、小さな口を開く。

「常連と云えるほど通ってはいないが、エマの料理のファンではある。この1年、あいつの料理が食べたくて通い続けたんだ。だから人がいることに期待した」
「おばあちゃんはあなたに餌、ええと、ご飯をご馳走してきたのね。それでわたしを訪れたと。でも」

すっと黒猫は、前脚をあげてわたしの話を遮った。
戸惑いながら口を閉じると、またもや前脚を器用に組ませて、くい、と顎を動かした。

「おまえ、知らないのか」
「なにを?」
「ここは夜になると、わたしたちを客として迎える食堂になるのだよ」
(はい?)

衝撃的な言葉を聞いた、気がする。

まじまじと黒猫を見下ろしていると、「知らないんだな」と溜息交じりの言葉が聞こえた。呆れたような、諦めきったような声だった。面倒そうでもある。なんだか申し訳なくなったけど、素直に謝罪を口に出すのはためらわれた。

だって、猫だし。

黒猫はくんと前脚を地面に落とすと、わたしの脚の間をすり抜けて居間につながる廊下を歩きだした。

「ちょっと!」

すると猫は、黒い尻尾を揺らしてわたしを振り返る。

「この際だから、この家の持つ役割を話してやろう。長い話になるから、紅茶を淹れてくれ、エマの血統」
「え、と。飲めるんですか?」

おそるおそる、そう訊ねると、ぴんと尻尾を立てる。

「飲めるに決まっているだろう。ああ、ブランデーも入れて風味を出すように。こんなこと、飲まなければやっていられないからな」

なんだか、退出間際に厄介な仕事を押しつけられたサラリーマンみたいな様子だな。

そんなことを思ってわたしは立ちつくし、そしてしぶしぶ寝室に戻った。居住部にも簡単な台所はあるけれど、茶葉は下の食堂にあるのだ。いったん外に出なければいけないから、服を着替えなければならない。

面倒くさいなあと呟いて、そして居間のソファに踏ん反りがえっている猫を横目に眺めながら、ぱたぱたと下に降りていった。お茶を淹れる間、何度も呆けそうになった。その度に、ぱんと頬を叩いた。

ほう。美味い紅茶を淹れるじゃないか」
「……アリガトウゴザイマス」

一人掛けのソファには深い紺色のクッションが置いてある。そのクッションに埋もれるような大きさの黒猫は、前脚と後ろ脚の両方を組んでわたしを待っていた。思わず立ちすくむ。カップがないから人間用のティーカップに入れてしまったけど、持つことができるんだろうか。というより、猫は猫舌じゃなかったか。熱い紅茶なんて、飲むことができるんだろうか。

でもそれは杞憂だった。この黒猫は器用に前脚を動かして、ティーカップをソーサーごと持ち上げる。そして澄ました様子で、お茶を飲んだ。熱いと怒りだす様子はない。それどころか満足げに品評してくる次第だ。

わたしはもはや、考え続けることを放棄して、同じように紅茶を飲んだ。こちらにもブランデーを入れてある。わたしは未成年だけど、……そういう気分なのだ。こういう状況なのだから仕方ない。

しばらく沈黙がわたしたちの間に横たわる。
やがてティーカップを置いた猫は、ゆっくりとわたしを見た。まじまじと見つめ、クッションにもたれる。

「驚きだな。親族の中に似た存在が産まれることはあるが、おまえは驚くしかないほど、エマに似ている」
「よく、云われます」

ちびちびと紅茶を飲みながら、そう応えた。

赤茶色の髪と瞳、これが日英ハーフのわたしに与えられた特徴だ。祖母が同じ色だったと聞いているけれど、正直、実感はない。祖母の若い頃の写真を見たことがないからだ。祖母は写真嫌いだったのである。

だからこの言葉を聞いて、この猫がずっと長生きしていることに気づいた。その事実に気づいてしまえば、猫又、と云う言葉が閃く。日本の昔話に出てくる、典型的な猫の妖怪だ。長生きした猫が変化した存在だと云う。この猫もそう云った存在なのかもしれない。そう思っていると、猫は思いがけない言葉を告げた。

「わたしは<こちら>の世界の住人じゃない」
(世界ときましたか)

はあ、と相槌を打つと、疑わしげな瞳でわたしを見る。猫であってもこの展開ならば、どういう意味か理解できる。自分の話を理解しているのかどうか、疑っているまなざしだ。溜息をつきたくなった自分を、かろうじてこらえた。どうして猫にこんなまなざしで見られなくてはならないんだろう。たそがれたくなったけど、話を促した。しぶしぶといった話を続ける。

「だからわたしは<こちら>の世界の生き物じゃない。猫じゃないんだ。これは仮の姿。極力この世界への影響を減らすために、無難な姿をとっている」
「……でもしゃべりだした時点で、その気遣いは無駄になっているような気がしますが……」

ぼそりと突っ込むと、じろりと睨まれた。

余計な茶々を入れるなと云うことだろう。大人しく口をつぐみ、紅茶を含む。日本では味わえない味だなあ。適当なブランデーを入れたのだけど、美味しいものだったのは、さいわいだ。このうえさらに、いろいろな意味で逃亡したくなりたくない。

「そして<こちら>の世界の住人ではないわたしが、どうしてここにいるのかと云えば、答えは簡単だ。この時刻だけ、この建物は、違う世界と<こちら>の世界の接点となるからさ」

ごくん、と、紅茶を飲みこんでいた。

まじまじと猫を見下ろして、うろうろと言葉を探す。
時間によって状況が変わるのか。なぜ夜だけなんだ。って、そうじゃない、云うべき言葉はそれじゃない。

「どうしてこんな建物が、そんなものになるんです」

答えはあっさりとしたものだった。

「しかたない。わたしが産まれる前からそうだからな」

ごもっともと云えばごもっともな言葉に、容赦なく言葉は奪われてしまう。まあ、ユーラシア大陸だってわたしが産まれる前から存在していますね、と相槌を打ちそうになって、頭を振った。違うから。たぶん、この場合に云うべき言葉は違う言葉だろうから。

で もだからといって、的確な言葉も思いつかずに、わたしは沈黙したままだった。猫がしゃべりだした、その場合に云うべき正しい言葉ってなんだろう。

「――それで、ここまでは理解できたか」

理解出来はした、けれど、そんなとんでもない話を受け入れなければならない状況には抵抗を覚えてはいるのだけれど。

「理解、しました」
「よし。さすがはエマの血統だな。順応性が高い」

そんなことで褒められても。

それでもそろそろ、この状況に慣れてきた自分がいる。自分で淹れた紅茶を飲んでいることも原因のひとつだろう。なんというか、非常に日常的な感覚が混ざり込んでしまっているのだ。わたしって非常識に耐性があったのだなあ、と未知の自分に驚きもしている。

ともあれ、こうしたわたしの態度は、黒猫には望ましいものだったらしい。満足げに紅茶を飲んで、――見事に優雅な仕草なのだ! ――、再び口を開いた。

「そして接点がある以上、管理する者が必要になる。無造作に放り出していたら、生き物が勝手に出入りして、世界と世界の均衡が崩れてしまいかねないからな。だからそのために、おまえたちの血統はここにいるのさ」

そろそろ温くなってきた紅茶を飲み干した。しまった、もう少し多めに淹れてくるべきだったか。そう考えながら、でも、とわたしは云い返していた。

「それでどうして料理店なんて開いているんです?」

答えはまたもやシンプルだった。

「知るか」

わたしは思わず顔をあげて黒猫を睨んだ。ここまで説明しておいて、それはないと思う。すると気まずく感じたのか、黒猫は咳ばらいした。こほん、と低い美声には似合わぬ、かわいらしい咳払いを聞いて、複雑になる。なんだかな。そう思っていると、推測はできる、と黒猫は云った。

「まあそういう役割があるからこそ、おまえたちはここから離れることはできない。でも生活していかなければならない。だから、この場所で出来る仕事を模索した結果なんだろう。わたしとしては、たくさんの人が訪れる店にするのはどうかと思うんだがな」

だが、この店の料理はおいしいから構わないんじゃないか。猫がそう続けたものだから、状況はそれどころではないのに、なんだか嬉しい気持ちがこみ上げてくる。

ふと、あのレシピ集を思い出した。

あの、奇妙な単語が並んでいて、孫のわたしにも、生粋のイギリス人であるオリヴァーにも理解できない、暗号みたいな帳面。それをこの猫なら、理解できるのではないだろうか。

閃いたわたしは、立ちあがって寝室に飛び込んだ。そして帳面を取り上げて居間に戻ってくると、猫は不思議そうに首を傾げている。

「なんだ?」
「これ、あなた、読める?」

期待に胸をときめかせながら、帳面を開いて、グイ、とつきだした。興味を持ったように、猫は帳面を覗き込む。ぷるん、と尻尾が揺れた。わたしはじっと待つ。

「読めない」

期待が外れてがっくり肩を落とすと、困ったような美声が響いた。

「これは<こちら>の文字だろう? だから文字自体は読むことはできるが、単語を理解することはできない。知らない単語が並んでいるからな」

まあたしかに、違う世界の住人が、この世界の住人すら読めない文章を理解できると思う方が莫迦だよね。

それでも気落ちしていく気持ちが抑えられなくて、すごすごと長椅子に戻って座り込んだ。ぱらりとめくる。わからない文章が見える。それをぼんやり眺めていると、その、と、遠慮がちな声が響いた。

「それがどうしたのか。――何か重要なノートなのか」

わたしは顔をあげて、力なく笑った。

「おばあちゃんのレシピ集なの。おばあちゃんの味を再現したくて読んでいるんだけど、暗号で書かれていてね、さっぱりわからないんだ」

なるほど、と呟いた猫は、何気なく言葉を続けた。

「エマの味を再現したい気持ちはわかる気がする。あいつの料理は、そこらにある店とは違う味だ。なんといっても、<あちら>と<こちら>の食材と調味料を融合させているからな。見事と云うしかない」

異世界人でもおばあちゃんの料理が突きぬけていることはわかるんだ、そんなことを考えた後、ガタンと長椅子から立ちあがって、猫に飛びついていた。驚いたように身じろいでいたけど、それどころじゃない。

「なんて云ったの、いま!」
「は?」
「いま云ったでしょ。あちらとこちらの食材と調味料を融合させたって。それって、異世界の材料を使って、おばあちゃんが料理していたと云うことっ!?」

そんなことか、と呟いて、猫は態勢を整えた。

「だから云っただろう。夜の時間になれば、この店はわたしたちを客として迎える食堂になると」

確かに、そう云っていた。

でもまさか、と思うじゃないか。同時にオリヴァーから聞いたこの店の営業形態が脳裏によみがえる。朝と昼しか開店しないお店、――アヴァロン。夜に開店しないことをまわりは不思議に思っていたと云う。

それが異世界の住人に対して、営業するためだったなんて、誰が思うだろう。脱力して、わたしはぺたんと床に座り込んだ。すると猫がぴくんと耳を揺らす。

「ほら。呆けている場合じゃないぞ。わたし以外の客が来たようだ」

じりり。もはやその音は不吉な響きとなって、わたしの耳に届いてきた。じりり。わたしはきゅっと唇を結び、鳴り続ける玄関のチャイムを聞く。じりり。3度目に響いた瞬間、わたしは開き直って立ちあがった。

(断るしかない)

状況は、理解できた。

でもだからといって、おばあちゃんの料理をいま、用意することはできないのだ。相手が何者であれ、たとえ異世界の人間であれ、きっぱりそう云うしかない。

絨毯を踏みしめて、玄関に向かう。黒猫はその後についてきていたようだったけど、構うものか、と気にしないことにした。止める理由なんてないし、……それに正直に云えば、少し心細かったのだ。少し前に正体を知ったばかりの存在だけど、傍にいてくれれば心強いと思ってしまった。ふう、と息を吐き出す。

そして玄関を開ける。

「ただいま絶賛開店休業状態ですっ」

ひと息でそう云ってやった。プ、と吹き出す音が背後から聞こえる。思わず睨んでしまいそうになったけれど、わたしは何も云えなかった。言葉を失っていたのだ。

そこに毛深い動物の脚をもった人間がいたのである。

それだけじゃない。その人間は口を開いて、こんな言葉を話したものだから、口をぱかんと開けた。

「へえ。そうでいらっしゃいましたか。どうりでここんとこ、エマはんの姿が見えんと思うておりましたわ」
(どうして、……日本語)

しかも京都弁だ。へなへなと脱力してしまいそうな足を踏ん張っていると、背後から黒猫が話しかける。

「なんだ。客だと思っていたら、契約農家か。エマの血統、こいつはこの店と契約している<あちら>の世界の農業従事者だ。さっき話した、<あちら>の食材を持って来たんだろう」
「へえ。ひさびさにエマはんの匂いがしましたからなあ。これは営業再開かと気張って持ってきたんどす。ちょうど食べごろのものもあるさかいに、それだけでも引き取ってもらえまへんか」
(どうしよう、どう対処したらいいの!?)

わたしは硬直したまま、英語と日本語の会話を聞いていた。どうやって会話を成立させているんだろうと云う疑問より、わたしがひたすら頭の中で繰り返していたのはその言葉だ。

だって異世界の食材なんて。わたしはそんなもの調理出来ないし、そもそもお金だってない。 だからすがるような目つきで、背後にいる黒猫を振り返ってしまった。どうしたらいい? 眼差しだけで問いかけてしまったけど、少なくとも相手はこちらの意思をくみ取ってくれたらしい。溜息をついて、わたしの前に歩み寄った。

「しかたない。そう云うことなら、まずは商品を見せてもらおうか。食材を見る機会はないが、いまはわたしが見るしかあるまい」
「そうどすなあ。伯爵にそれをさせるのは気ぃ、進みまへんけど、状況が状況さかいに」

伯爵。思いがけない単語を聞いた。そう思って黒猫を見つめたけれど、この2人、……は、わたしを置き去りにしてさっさと階段を下りて行ってしまう。ためらったけれど、追いかけることにした。

そして再び、言葉を失うことになる。

(どこ、……ここ)

ついさきほど、茶葉を取りに行ったときにはこうじゃなかった。間違いなく、明るいとはいえ、ロンドンの街が広がっていた。だからわたしは何事もなかったように紅茶を淹れ、部屋に上がることができたのだ。

でも、猫と話している間に、あたりは一変していた。

建物の前に、通りが広がっている。でもそれはロンドンの通りじゃない。舗装された通りではなく、切りそろえられた石でできた通りだった。ああ、うまく云えていないな。元の通りだって石造りの道路があったわけだし。でもところどころ妙にへこんでいたり、なによりも土がむき出しになった部分があったりして、ロンドンの道路とはまるで違うのだ。

そう、目の前に広がる光景は、もう、ロンドンの街並みではなかった。建物はある。建物は似ている。でもそれは、なんと云えばいいんだろう、より古めかしい印象の街並みに変わっていたのだ。そう、――ファンタジーものの映画に出てくるような建物だ。中世の建物、と云えばいいんだろうか。街灯もそれにふさわしく、電気で灯るものじゃない。ぽうっと暖かな光なのだ。ろうそくだろうか? それにそれに、頭の上に広がる空は、本当に見事な星空だったのだ。小学生の時に行った、夜間学校を思い出す。あれよりももっとずっと煌めく夜空、まさしく「宝石のような」空だった。

そしてその星空の下で、見たこともない生き物が歩いている。羽が生えた人間がいる。驚くしかないほど小さな人間もいる。人間の形をした生き物だけじゃない。見惚れるほどうつくしい馬までが馬具も付けずに歩いていて、唖然と立ち尽くした。

「驚いているな」

黒猫が振り返ってにやりと笑う。
黙って頷いた。そして事態の説明を求めようとするわたしを留めて、半獣半人の彼を振り返った。

「商品はこちらか」

へえ、と応えて、通りに置かれている荷車に向かう。
黒猫が続き、わたしもなんとなくその後に続いた。だって1人だけ離れた位置にいることには抵抗があったし、それに、……それに興味があったのだ。異世界の食材とやらに。

「ほう、これは見事な」

感嘆したような声が聞こえる。そっと覗きこんで、わたしは初めてそれを見た。こくりと喉が動く。
それは紫色をした、丸いかたまりだった。植物の実なのか、ぼこぼことしている。大きさはわたしの頭ほど。結構大きい。それが荷車の一角に山となっていて、半獣半人はそれをひとつ取って、取り出した刃でパカリと半分に切って見せた。なかはあざやかなオレンジ色。半分に切ったひとつを猫にさしだし、もうひとつをわたしにさし出してきた。戸惑っていたけど、おそるおそる受け取る。かぷりと猫がかぶりついたから、思い切って同じようにかぶりついてみた。

(!)
「うまいな」

もごもごと口を動かして、わたしは猫の言葉に頷く。

初めて味わうそれは、なんと云えばいいんだろう、とてもさわやかな甘みを持った果物だった。柑橘系とは違うさわやかさ。たとえるならば、炭酸水系統のさわやかさだ。実はたっぷりとした水分を含んでいて、噛みしめたらそれが口の中ではじける。ほのかに甘い水が喉を通っていった後には、ぷるんと炭酸ゼリーのような、でもそれより甘い果肉が口の中に残る。

「デリシャの実どす。いかがどすか」
「すごくおいしいです」
「エマの血統。おまえならこの食材、どのように調理する?」

面白がるような声が、問いかけてくる。さらにかぶりつきながら、もごもごと口を動かして、考え込んだ。

これだけ素材が美味しいのだ。それを活かした、この風味を失わない調理がいい。頭の中に詰め込んでいるいろいろなレシピがよぎる。その中で閃いたのは、鮮魚のカルパチョのレシピだった。

「このままデザートとして食べるのもいいけど、ぶつ切りにして、塩でもんだ薄切りのお魚と和える。ワインビネガーにお砂糖、それにレモン汁を混ぜてドレッシングは作るの。さっぱりとした前菜になると思う」
「では、作ってみるか」

気軽な調子でそう云って、猫はどこから取り出したのか、メダルを半獣半人に渡す。「おおきに!」と嬉しそうに云っていたから、あれが異世界のお金なんだろう。よりにもよって代金を猫に払わせると云う事態に、わたしは慌ててしまったけれど、彼らは気にした様子はない。果物を抱えて、一階の食堂に入っていく半獣半人に続いて、黒猫が振り返って笑う。

「代金の分だ。それをさっそく作ってもらおうか」

ぴたりとわたしは硬直する。

唇を「あ」の形に変えて、なにかを云おうとする。でも言葉が出てこない。立ち竦んでいると、訝しそうに黒猫が戻ってきた。はるか下方から見上げてくる。

「どうした?」

わたしはパタンと口を閉じて、唇を噛んだ。
だって、自信がない。

この猫は、おばあちゃんの料理を食べに来た存在なのだ。あの味を期待してきたのだろう。でもわたしは同じように作ることはできない。なぜなら。

なぜなら、祖母はわたしの料理を美味しいとは云ってくれなかったからだ。

たとえば両親は、友人はわたしの料理を美味しいと云ってくれるけれど、祖母はそんな言葉を云ってくれなかった。最後まで食べてくれはしたけれど、褒めることもせず、どこを直せばいいのか、と云うことも云わなかった。それは明らかな否定じゃないだろうか。

「エマの血統?」

繰り返し様子を問われて、わたしはしゃがみこんだ。金と翠の瞳が見える。ゆっくりと告げる。

「わたし、おばあちゃんの料理は作れない」

すると黒猫は、きらっと瞳を煌めかせた。

「当たり前だろう。わたしもそこまで期待してない」

ざくっと胸に突き刺さる言葉だった。

期待していない。――なら、なんで作らせようとするのよ、そう云おうとして、口をつぐむ。なんだか、すごく卑屈な言葉のように感じた。それでもなにかを云いたくて、でも何も云えなくて沈黙するわたしと、それに付き合っている黒猫の隣を半獣半人は「ほな、これにて!」とご機嫌に歩き去っていく。ちょっと八つ当たりしたい気持ちで彼(?)をちらりと眺めるわたしに、黒猫は告げたのだ。

「それでも、わたしはおまえの料理を食べてみたいと思った。そのわたしの期待をおまえは裏切るのか?」

だとしたら、アヴァロンもこれでおしまいだ。
そっけなく言い放たれた言葉に、アヴァロンはもう、他の人のお店だもの、と云い返してもよかった。

でもわたしはそれを云わずに、黙って立ち上がった。

そのままレストランに入り、カウンターに入る。エプロンはない。けれど冷蔵庫や棚を探って材料と調味料を探した。サーモンの切り身が見つかった。もしかしたら東條さんは明日のメニューに使おうと思っているのかもしれない、とためらったけれど、冷蔵庫の中身を好きに使ってもいい、という、彼が帰る間際に云われた言葉にふっ切った。きれいに洗ってしまわれている、ピカピカの包丁を取り出して、白いまな板の上で、厚さ5ミリほどに削ぎ落とす。斜めに切ったそれを、さらに半分に切ってステンレスのボウルに入れた。一切れ、齧ってみると充分な塩気があったからそのままにしておいた。

続いてデリシャ、と云う名前の、異世界の実を取り上げた。半獣半人がしたように半分に切ろうとしたけれど、まるでかぼちゃのように固かった。それでも力を入れると、すとんと途中からやわらかくなる。パカリと割れて、先ほど見たオレンジ色の果肉が現れる。薄く切ろうとして、先ほど食べた感触を思い出した。薄く切ったら、せっかくの水分が台無しになりそうだ。だからこちらをぶつ切りにして、サーモンを入れたボウルに放り込んだ。上から眺めると、緑が足りない。

だから再び冷蔵庫を開いて、緑色の野菜を探した。するとズッキーニが見つかる。続いておろし器具を探したけど、それはない。だから日本の包丁を使って、細かく切り刻んでみた。玉ねぎも同じように。それを別のボウルに入れて、レモン汁とワインビネガー、オリーブオイルと砂糖と塩を混ぜ込んだ液体を加える。ぐるぐるとかき混ぜて出来上がったドレッシングを、サーモンとデリシャにかける。味見をすると、いままでに味わった感触が口の中に広がる。それでも食べられないことはない、むしろ咀嚼しているとゆっくりと馴染んでくる。ああ、これは異世界の食材だから、と思うと、どくんと心臓が大きな音を立てた。異世界の、食材。そしてわたしの世界の食材。いま作り終えたのはそれを融合させた料理だ。

(おばあちゃんと、同じ)

唇がふわっとゆるむ。かと思えば、ぶるぶると震える。気づけば指先も震えていた。それでも出来るだけ自分の気を鎮めて、大きなスプーンで大雑把に混ぜて、透明なガラス製の器に盛り付けた。

黒猫はカウンター席から、わたしが料理する様子をずっと眺めていたらしい。振り返って視線があったことで、それに気づいた。抑え込んだ手の震えが、再びよみがえろうとする。ぎゅっと唇をかみしめ、そして静かに息を吐いた。フォークを先にカウンターに置いて、カルパチョもどきを持った器を置く。

「……どうぞ」

短く頷いて、小さな前脚が器用にフォークを掴む。
小さく切ったサーモンを口に運ぶ。ピンク色の口が開いて、そして閉じる瞬間を見ていられなくて、ずっとうつむいていた。しばらく咀嚼する音が聞こえる。短いそれが止んで、こくりと喉を動かしていた。

――昼間、オリヴァーに席を立たれた東條さんの気持ちが、胸に迫ってきた。

つらかっただろうな、とか、悔しかっただろうな、とか、この胸に満ちる想いは、そんな言葉では言い表せない気持ちだ。この感情は、細かく分類することはできない。ぐちゃぐちゃと泣き出したい気持ちが鮮明だ。そして、ぐらぐらと、まるで地震であるかのように、不安で立っていられなくなる。でもこらえてうつむいた。顔を上げる度胸は、味見をしたいまでも、ない。

「エマの血統」

だからその声を聞いたとき、ぴくんと肩を揺らした。

「足りない」

思わず顔をあげていた。カウンターに前脚を置いた猫は、呆れを隠さない様子でわたしを見ている。思わず確認したお皿は、すっかり空になっている。慌てて見つめれば、笑いを含んだ声が聞こえた。

「まだ、エマには及ばない」

それはそうだ。でも空になっている器が、相変わらずわたしの目には映っていて、その否定の言葉が与える衝撃を軽やかなものに和らげる。

「それでもこれは、充分に美味い。出来あいのおかずとしては、まずまずだ」
「……はい!」

しっかりと足を踏みしめて、わたしはそう応えた。

とりあえずおかわり、という嬉しい要求をされて、わたしは慌てて残りの料理を器に盛り付ける。たった一個のデリシャ、たった一切れのサーモン、けれど結構な量が出来ていたのだ。それをぺろりと平らげて、猫は満足そうにナプキンで口元を拭っている。猫が上品にナイフとフォークを扱う、そんなさまにももはや違和感なくにこにこと眺めていた。だってこの黒猫が上品にふるまう姿、ってすごくかわいいんだよ。

「エマの血統」
「はい?」
「わたしの名前は、シャルマンと云う。覚えておけ」

驚いて目を見開くと、猫は、シャルマンは後ろ足で歩いて食堂の出口に向かった。慌てて手を拭きながら近寄ろうとする。けれどその姿がゆっくりとぼやけていくことにわたしは目を疑った。相変わらず黒い姿だ。でも少しずつ大きくなっていくその姿は、次第に人間の姿に近づいていく。

ずいぶんな長身だ。オリヴァーより高いのではないだろうか。さらりと流れる黒絹の髪の合間からおそろしく整った白皙の顔立ちがのぞく。身にまとうのは黒色のフロックコートだ。シャーロックホームズの挿絵に出てくるような格好、でも彼の方が惚れ惚れするほど格好良い。

――やがて出入り口に立つ頃には、猫であったシャルマンは美麗な微笑みを浮かべた貴公子になっていた。先ほど聞いた伯爵、という呼びかけを思い出した。たしかにその敬称ふさわしい気品が漂っている。薄い唇が開いて、相も変わらず見事な美声がこぼれた。

「また訪れよう。せいぜい励めよ、エマの血統」

そうして彼は、悠然と出入り口を出ていったのだ。

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