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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

5・いきなりそうきますか!?

そろそろ使い慣れた感のあるアヴァロンの台所で、わたしはちょこちょこと動いていた。

自分のための料理をしていても、外から覗き込む人には、食堂の準備をしていると思われるだろうから、だから少しだけ、この場所で調理することには抵抗がある。でも、しないわけにはいかない。わたしはこのイギリスに、大学の休み期間中は滞在することにしている。おばあちゃんの家に滞在することになったから、滞在中のホテル代金は浮いた。けれど沁みついた節約精神は、まぎらわしい行為だと理解していても、わたしを自炊へと導くのだ。ましてや、いま、手元にはおばあちゃんが遺したレシピ集まである。

――東條さんは行方不明。アヴァロンも休業状態。

そんな状態で、レシピ集を翻訳することには意味がないのかもしれない。でもわたしはその作業を止めることが出来ないでいた。理由はふたつ。

ひとつは、ほとんどおまじない的な意味だ。このレシピ集を翻訳している間、おばあちゃんの食堂は、アヴァロンは大丈夫だと信じることが出来る。これは何もできない状況で、精神的な救いになってくれるのだ。

そしてもうひとつは、おばあちゃんたちが遺したレシピ集が、純粋に面白い、という理由だ。もともと料理人志望だから、ということも関係しているだろう。材料の欄に書き記されている材料――異世界の材料までも含めて――が、とても興味深いからだ。

たとえば昔のレシピには、ウミガメのレシピがある。お腹の肉は茹でて、背中の肉はローストして、濃厚なソースをつけたひれや内臓などと一緒に食べる。最初に読んだときには、ぎょっとした。何せ日本育ちなわたしに思い浮かぶカメと云えば、あのかわいらしいミドリガメしか思い浮かばない。

でもこのウミガメは、西インド諸島で捕まえることが出来る巨大なカメであるらしい。いまでも材料は手に入るのかな、と思ってページをめくれば、ニセウミガメスープのレシピ、というものまであって噴き出してしまった。合間に書いてあるメモによると、ウミガメのスープは最高の珍味だったみたいで手に入らないことが多かったみたいだ。

そんな風に、このレシピ集を翻訳していると、知らなかった知識をどんどこ知ることになる。それが楽しくて、わたしは観光に出かけることもなく、ひたすら翻訳作業を進めていたのだった。

そしてついに、わたしは翻訳していた単語の中に、デリシャ、の文字を見つけて瞳を輝かせてしまった。

あれから毎日、デリシャの実は食べるようにしている。でもいくら美味しくても、そろそろ飽きがきていて、どうにかならないかなあと思っていたところだ。おまけに、これは果物。日々、熟していく感触に、内心大慌てだったことは云うまでもない。だからそのレシピを見つけて、さっそく調理することにした。

アヴァロンのカウンターに入ったのは、午後を過ぎてのこと。今日もオリヴァーは来ていない。東條さんの情報を知りたいだけではなくて、アビゲイル夫人が置いていった代金を渡したいと思ったのだけど、やっぱり彼の姿はない。

(やっぱりひと言くらい欲しいんだけどなあ)

なんだか、心細い。

そんな自分の状態だけを客観的に認めながら、しゅりしゅり、とますます固くなってきたデリシャの皮を、包丁で剥いていく。紫色の皮は、そろそろ黒い。不安を覚えてしまうけど、でも固い分、皮は剥きやすいと云う一面がある。そして現れたオレンジ色の実を、ざく切りにする。そのときあふれ出る果汁、これを使って肉の蒸し煮をつくるのだ。

牛肉が夢のようにやわらかくなる。そう書き添えてあって、わたしはほっとした。実はイギリスで購入する牛肉は、日本の牛肉と比べてずっと硬いのだ。理由はわからない。とにかく噛んでも噛んでも呑み込めないのだ。その硬さとおさらば出来るのは嬉しい。

けれどその調理時間を見て、わたしはひっくり返りそうになった。4時間! 焦げ目をつけてハーブなどを振りかけた肉と香野菜、デリシャの果汁を一緒に蓋つきのお皿に入れて、煮汁が蒸発しない温度で4時間、オーブンで焼き続けるのだ。気が遠くなりそう。

でも、と、脳裏に浮かんだ面影に動きを止めた。

(喜ぶだろうなあ、シャルマン)

オリヴァーと違って、シャルマンは毎晩このアヴァロンを訪れる。その度に、わたしが調理した料理を食べて、会話して、そして夜が明ける直前に帰宅する。充分に楽しんでくれているけど、――わかるのだ。

シャルマンはおばあちゃんの味を食べたがっている。

なぜなら毎回、シャルマンはおばあちゃんのレシピ集の、その翻訳作業の進み具合を必ず訊くのだ。彼が料理する人ではないとわたしは感じ取っている。それでも訊いてしまうのは、いつかは、という期待があるからだろう。それでも直接的に希望を口にしない。美麗な貴公子のそんな特徴は、なんだか微笑ましかった。

(よし!)

彼のそんな様子を思い出してしまえば、たちまちやる気がわき上がる。気合いを入れ直して、フライパンにショートニングを溶かした。そして塩コショウして薄力粉をまぶした肉を、転がして焼き目をつける。ふわりと、あの焼き肉のいい匂いがする。ああ、このまま食べてしまいたい。そう呟いて、慌てて頭を振った。いかんいかん、いま食べても硬いままだ。

――そろそろ食堂にさしこむ光は、オレンジ色を帯びている。

時計を見て、わたしは調理の手を速めた。しまった、もう少し早くに作り始めるべきだったか。でも調理時間のほとんどは、あちらの世界で迎えたかったからなあ、と小心な自分に溜息をついたときだ。扉が開いた。

その気配に青ざめるような心地で、わたしは振り返っていた。だってこの微妙な時間なのだ。通りすがりの人間を異世界につれていくことになったら、と思えば、諸々の面倒事の予感に血が引いていく心地だった。

でも、無用な心配だった。扉を開けたのはオリヴァーだったのだ。

「不用心だね、トウコ」

呆れた口調で、開口一番、そんなことを云う。
わたしは唖然と口を開き、少しの間、硬直していた。

連絡がないことを薄情だと憤っていた人物なのだ。だから逢えばきっと、罵りの言葉が口からこぼれ出すに違いないと思っていたのに、現実には的確な言葉が見つからないでまごまごしている。きっと、きらきらしたサファイアブルーの瞳のせいだ。意地悪そうでやさしげな、あの笑顔のせいだ。

オリヴァーはわたしを見ている。

(しっかりしろ、わたし!)

心の内で叱咤して、にっと唇の端をあげた。

「紳士の国だから、いきなり扉を開ける人はいないと思ったんだけど?」

わざとらしく顔をしかめて、オリヴァーは云う。

「紳士の国でも、図々しい人間がいないというわけじゃない。鍵くらい閉めておくべきだよ、きみのような立場ならなおさらね」

でもまあ、説教はここまでだ。

そう言葉を続けたオリヴァーは、ふわりと薄い唇をほどいた。興味深げな表情で、こちらに近寄ってくる。そしてカウンター越しに、わたしの手元を覗き込んだ。肉はすでにオーブンに入れている。次の過程としてパンを作っていたところだ。手ごね段階も発酵段階も終えて、ちょうど、食パンの型につめ込んだ生地を自然発酵していたところ。オリヴァーは楽しそうに笑った。

「本格的じゃないか。ついにパンも手作りすることにしたのかい」
「牛肉の蒸し煮が出来るまで、時間がかかるから。それより、今日来たと云うことは?」
「残念。あの男に関する情報はないよ」

なあんだ。思わずがっかりして、けれど他にも用事があったことを思い出した。アビゲイル夫人が置いていった代金だ。エプロンのポケットに入れておいた封筒を取り出して、カウンターに腰掛けているオリヴァーの前に置いた。

「アビゲイル夫人が来たの」

そう云いながら、わたしの意識は自分が浮かべているだろう表情に向かっていた。差し障りのない表情のはずだ。繊細な反応を示していたオリヴァーを思い出す。ちらりとまなざしを向ければ、彼は楽しげな表情をするりと消した。ふうん、と呟いて、でも封筒に目を向けようとしない。

「母は、なんて?」

「母」ね。
わたしは面倒事の予感を覚えながら、さらりとした様子を保って口を開いた。

「別に。料理を注文して、食べて、帰宅しただけ」

わたしの口調は必要以上にそっけなかったのだろうか。オリヴァーは、苦笑を浮かべる。
指を伸ばして、封筒をつまむ。意味もなくひっくり返したけれど、諦めたように上着の内ポケットに収めた。
そしてわたしを見上げて、視線でパンを示す。

「パン、焼かないの?」

ああ、と、わたしは食パン型を見下ろした。

「シャルマンが来てから焼いた方がいいかな、と思って。濡れ布巾でもかぶせておいた方がいい?」
「すぐに焼いた方がいい。パンは生き物なんだ。このまま放置しておいたら、発酵し過ぎになる。まずくなるよ」

そうなのか。知らなかった。

慌ててわたしはオーブンを温め始めた。こういうとき、オーブンがふたつあるのはいいなあ、と思う。家だと一個しかないから、先にパンを焼いて料理を用意していたもの。同時進行で調理が出来るのは嬉しい。

「今度、母が来ても構わなくていいよ」

さらりとした、何気ない口調の言葉だった。
振り返りそうになる身体をこらえた。オリヴァーに背中を向けて、オーブンに集中する態勢で、口を開く。

「それ、向こうに云って。お客さまとして来られたら、わたしとしては拒みにくい」
「いまはこの食堂、休業中じゃないか」
「その理屈、わたしが口にしないと本気で思う?」

背後で溜息が響く。彼女が強引だと云うことにようやく気付いたか。やれやれ、と思いながら、オーブンに向かい続ける。

でも沈黙がいたたまれない。

(早く温まれ)

オーブンに向かって念を飛ばす。かたん、と、椅子が動く音がした。ぎくりと肩が揺れる。オリヴァーはカウンターに入ってきて、隣のオーブンを覗き込む。ちらりと視線を飛ばした。相変わらず端整な横顔だ。苦労も多いんだろうなあ、とその苦労だろう女性を思い出す。オーブンに視線を戻した途端、ぽうんと灯った明かりに惹かれた。異世界に移り変わったのだ。

なにげなく外を見ようとして、こちらを見下ろしているオリヴァーに気づいた。優美な美貌を、温かな光が彩っている。浮かべている表情はなぜだか真面目なもので、ぎゅ、とこぶしを握りしめた。緊張する。

「なに?」

緊張を隠すように、きっと見つめた。するとオリヴァーは唇の端を持ち上げて、ぽんとわたしの頭の上に右手を置いた。くしゃりと髪をかき混ぜる。

(なんなのさ)

いきなりの行動に、わたしは困惑することしかできない。先日に見かけた、神経質そうな指を思い出す。
いま、頭の上にあるてのひらは、大きくて温かい。

「トウコは小さいね」

唐突にそんなことを云う。意味不明の行動に、こんな言葉だ。わたしは口を開いて、その真意を問いただそうとしたのだけど、とんとんとんと響いた音に意識を散らした。オリヴァーも振り向く。

すると扉のところに、半獣半人の生き物が立っていた。見覚えがある。デリシャの実をもってきた契約農家だ。また、新たな果実を持ってきたのだろうか。オリヴァーがカウンターから出る。わたしも同じように歩きながら、困惑していた。どうしよう、食料品を売りつけられても、お金はないんだけど。

「ごめんやす。調子はへえおすか?」
(えっと)

扉を開ければ、懐かしい日本語、けれど馴染みの薄い京都弁が耳に入る。何を云っているのか、いまいちわからないけれど、たぶん、ご機嫌いかがとでも云っているんだろう。ありがとうと云いながら、わたしは彼の背後に見える台車に言葉を失った。ぎっしりと食材が載っている。まさかあれを売りに来たのだろうか。

(シャルマン!)

わたしはすがるような心地で、彼の名前を心の中で呼びかけていた。
いつもこの時間には来てくれているのに、どうして今日に限って、まだ来てくれないんだよう。

とはいえ、どうしようもない。

「あ、のね。実はわたし、こちらのお金がなくて」

おそるおそる、相手の様子をうかがいながら日本語で返す。気のよい微笑みを浮かべているが、油断してはいけない。相手は商売人だ。

するとわたしの言葉を聞いた彼は、いっそう微笑みを深めて、「安心おくれやす」と告げた。迷っていると、オリヴァーが食堂から出てきた。横目でわたしを見る。

「彼は?」
「この食堂の契約農家」
「呼んだの?」
「ええと、」

ためらいながら半獣半人の農家さんを見つめると、愛想よくオリヴァーにも頭を下げた。落ちついた表情のオリヴァーはわたしの困惑に気づいているらしい。口を開こうとして、けれど半端に閉じた。農家さんが口を開いてずらずらと言葉を紡ぎ出したからだ。

「伯爵よりうかがい、こうして参上したんでっせぇ。なんやてエマはんの食堂を再開させる見込みがついやしたとか? ウチにお持ちどした食品は、伯爵よりのお祝い品どす。どないぞお受け取りおくれやす」
(え)

思わずオリヴァーと顔を見合わせる。違和感に気づいたのはこのときだ。農家さんは日本語を話している。でもオリヴァーは難なく理解しているようなのだ。そう云えばシャルマンも彼とは英語で話していたっけ。どういう仕組みなんだろう、と首を傾げそうになって、オリヴァーにつつかれて、我に返った。いかん、答えが出そうにないことを考えている場合じゃない。

「あのね。シャルマンからの依頼ということだけど、アヴァロンは再開するわけじゃないの」

ためらいながら、英語で農家さんに云った。するとぺしりと頭を叩いて、「あかんあかん」と呟く。不安になって眺めていると、彼は誤魔化すように、にこやかな表情を浮かべる。ぴくりと警戒が働いた。アヤシイ。

「とにもかくにも、受け取っておくれやす。他にも食品を届けなければならへんさかい」

追求しようと思ったのに、オリヴァーが応える。

「わかった。どれがアヴァロンへの食品か教えてくれないかな。運び入れるから、きみも手伝って」
「へえ。こちらどす」
「ちょっと、オリヴァー!」

さすがに口をはさむと、オリヴァーはひょいと振り返って、肩をすくめた。

「彼に問いただすより、シャルマンに訊いた方が早い。どうせ彼、今日もやって来るんだよね?」
「たぶん、だけど」
「ならとにかく食品を受け取ろう。問題はシャルマンにあるようだし、巻き込まれた彼をいつまでもひきとめていちゃいけないよ。なにより通行の邪魔」

云われてみれば、じろじろとした視線を感じる。「すんまへんなあ」と農家さんが頭を下げていたので、慌ててわたしも通行人に頭を下げた。扉を開け放したまま、手渡された食品を次々と運び込む。

一通り作業を済ませると、半獣半人の農家さんはまた「おおきに」と告げて立ち去る。扉を閉めようとして、また、わたしはその音を聞いた。あの、馬車の音だ。

わたしは腕を組んで、馬車から降り立つシャルマンをねめつけた。がらがらがら。馬車が立ち去るまでそうして睨み続けていると、笑みを浮かべたシャルマンが身体を屈ませて、わたしを覗き込む。

「どうした? 機嫌を損ねているようだが」
「シャルマン。あの契約農家さんに何を云ったの?」

するとシャルマンはトボけようとしたので、わたしはその襟元を掴んだ。金と翠の瞳が驚いたようにわたしを見下ろす。乱暴だっただろうか。でも温かく瞳は笑っていたから、わたしは言葉を続けた。

「アヴァロンが再開するとか云ったのね? でもアヴァロンは東條さんのものだって云ったでしょう?」
「だがあの男は行方不明ではないか」

ぐっと言葉につまる。大きな手のひらでわたしの手を掴んで、ゆっくりと襟元から手を放させる。そして顔をあげて、オリヴァーにも微笑みかけた。

「それとも、あの男が見つかったのかな。青年はそれを知らせるために、ここに来たのか?」

いいえ、とこちらも笑い含みでオリヴァーが応える。

「まだ見つかっていませんよ。願わくばこのまま、永遠に見つからないでいてほしいところですが」
「まったくだな」
「2人とも馬鹿げたことを云わないの!」
「トウコ。それよりパンを焼かないとまずくなるよ」

冷静な言葉に、はっとわたしはオーブンの予熱を思い出して、慌ててカウンターの中に入った。とうに温まっていたオーブンに、パン生地をぶち込む。しばらく焼けば、出来あがりだ。それよりも話の続きとカウンター席を振り返れば、男2人はもう座っている。

「今日はとりわけいい匂いがするな」

シャルマンが牛肉の入っているオーブンを見た。わたしも振り返って、残り時間を測る。まだ、時間がかかる。間に合わなかったか、と、がっかりしながら、お茶の準備を進める。ポットを温めながら、口を開く。

「デリシャの果汁を使った、牛肉の蒸し煮だよ」
「ほう!」

嬉しそうに声が弾む。期待通りの反応に、わたしも手を動かしながら唇をほころばせた。

「あの果実か。レシピの解読を続けていたのかい」
「そう。デリシャの果汁は肉をやわらかくしてくれるって書いてあったから」

ちなみに、しぼりとったデリシャの実は、窓ふきに使うとピカピカになります。
レシピにあったおばあちゃんの知恵袋を披露すると、男2人は吹き出した。わたしも唇をゆるめながら、紅茶を2人の前に置いた。2人がティーカップに唇をつける様を見て、そしてテーブルに放置していた野菜に視線を移した。少しだけ迷って、カウンターを出る。

荷車いっぱいの野菜ではないけれど、それでも結構な量がある。指を伸ばして、そのうちひとつを取り上げた。紅く艶々としている、棒状の野菜だ。表面はわずかにごつごつしてる。端の方にしぼんだ花の名残がついていた。くん、と鼻元に近付けたけど、とりたてて目立つ匂いはしない。

「それはドーラーと云う」

ドーラーね。レシピにあった名前だ。カウンターに座ったまま教えてくれたシャルマンを振り返る。

「かじってみてもいい?」

野菜の特徴はレシピ集に書いてあったけれど、でもなにより、わたし自身の舌で感じ取ってみたい。酸っぱいのか、辛いのか、甘いのか、苦いのか。

「それらはすべておまえのものだ。好きにしていい」

鷹揚に頷いたシャルマンの隣で、からかうようにオリヴァーは笑う。

「やれやれ。あんなに怒っていたのに」
「青年。余計なことを思い出させるものではない」
「おや。あなたでもトウコを怒らせたくない、と?」
「ほう? 語るに落ちているな、青年」

なにやらやり合っている2人は放っておくことにして、許可も出たことだし、わたしは思い切ってドーラーにかぶりついた。口の中に、圧倒的な生臭さが広がる。野菜ならではの感触だ。それでも硬い感触を噛みしだいていると、ふわっと別の味が染みてくる。甘い。ごくんと呑み込んで、わずかに浮いた涙を拭った。それほど野菜臭かったのだ。ちょっと口直しが欲しい。

「ちなみにその緑色の葉がカーライルだ。我々は煎じて薬湯にするが、たしかレシピに肉の匂い消しとして掲載されていただろう?」
「ああ、これ」

小さな葉が並んでいる枝を取り上げる。くん、と匂いを嗅いだ。う、と言葉につまる。くさい。なんというか、あのくさい匂いを放つ虫を思い出させる。

(これを煎じたり、肉料理に使ったりするのかー)

なんとなく意識を逃亡させたくなりながら、思い切ってその葉を口の中に放り込んだ。すると匂いは思ったほど強くなく、それどころか、歯で砕けた葉の合間から、馨しい風味がこぼれ出したことにびっくりした。なんだ、これ、どういう仕組み。わずかにピリッとした風味は、悪くない感触。

「きみのおばあさんたちはたいしたひとだね」

傍にやってきたオリヴァーが、カーライルを取り上げて、くるりくるりと弄んでいる。呑みこみながら、微笑みを浮かべている彼を見上げる。

「ひとつひとつ、そうして食材を確かめて、料理に発展させてきたんだろ?」

そのサファイアブルーの瞳には、確かな賞賛が浮かんでいる。嬉しくなってわたしは微笑みを浮かべた。
わたしもそう思う。そう云おうとした。でもその前に、シャルマンがこう云ったから、硬直してしまった。

「それではこれらを使って、これからここに訪れるわたしの客人たちに、料理をふるまってもらおうか」

その言葉は、過去の出来事を思い出せば、充分に予測してしかるべき言葉だったかもしれない。デリシャの実を購入してくれたとき、シャルマンはその代わりにデリシャを調理することを要求したのだから。

(でも、でもね?)

ぎぎぎ、と首を動かした。美麗な貴公子姿のシャルマンは、長い脚を優雅に組み、ティーカップに唇をつけている。ひと口飲んで、わたしをかえりみた。

「どうした?」

どうした、じゃないんだけど。

「いま、わたしの客人たち、って云った?」

シャルマンは、ただ、微笑を浮かべている。あ、だめだ。わたしは悟った。これは確信犯の微笑だ。わたしがいま感じている困惑もなにもかもあらかじめ承知して、シャルマンはこんなことを云っているのだ。

だからこそ、動き出すことが出来ない。

ただ硬直していると、ぽん、と肩を叩かれた。オリヴァーはわたしの肩に手を添えたまま、シャルマンをまっすぐに見ている。

「それで何人、招きました?」
「わたしを含めて、7人となる予定だ」
「約束の時間は」
「あと2時間ほどだ。職務がらみの集まりではないぞ。至って気楽な、食事会だ」
「メニューにご希望は?」
「この食材を使ってくれ。他は任せる。酒は必要ない」
「わかりました」

テキパキと進むやりとりを聞いているうちに、どうしようもなく追い詰められていく感触を覚える。

見ず知らずの人に料理を作ることは決定なの。
初めて見る食材で料理を作ることも決定なの。

そのふたつがぐるぐると頭を回っている。それらは口に出しても構わないはずだ。だってこんな決定に従わなければならない理由なんてどこにもない。でも。

でも。

シャルマンとのやり取りを終えた後、オリヴァーはこちらを見て、そして沈黙した。なにかを云いたそうで、でもあえて口をつぐんでいる様子だ。そしてシャルマンは落ち着き払った様子で紅茶を呑んでいる。

「――覚えていなさいよ、シャルマン」

出来る限りの迫力を込めて、低い、低い声で云えば、貴公子はあざやかに微笑む。満足そうな微笑は、わたしの行動が彼の思い通りであることを示していた。

それが腹立たしくない、と云えば、嘘になる。
でもわたしは、――応えたい、と思ったのだ。

わたしは料理人志望だ。あくまでも希望者であって、修業中の身であって、決して料理人ではない。だからいくら料理好きでも、他人に振舞えるほどの料理を作れているとは思えない。シャルマンやオリヴァーはわたしの料理を食べてくれるけど、それはわたしが友人だからだ。彼らが口にするコメントで、わたしをまだまだ修行中の身だとみなしていることを理解している。

それなのに、――シャルマンは屋敷にれっきとした料理人を雇っている立場なのに、この気楽な食事会の場所を、ここに選んでくれたのだ。この、料理人として未熟な、わたしが料理する場所に。

それを期待と云わずに、なんと云うのだろう。

かなりの無茶を強いられている。わかっている。初めて目にする食材を調理して、シャルマンのお客様を満足させなければならない。嗜好も何もかも知らない、異世界の存在を相手に、だ。それは無茶だろう。わたしにとって、そしておそらくはシャルマンにとっても。

「オリヴァー」

呼びかければ、軽く眉をあげて「なに」と応える。
すでにわたしの要望なんて理解している顔だ。その証拠に、首元のタイを外し、上着を脱ぎ去っている。

「猫の手も借りたいの。手伝ってくれる?」
「猫の手よりも頼りになるよ、この手は」

頼もしい言葉にちらりと笑う余裕もない。さっそくテーブルの上の野菜を抱えて、カウンターの中に運び込む。シャツをひじまでめくり上げたオリヴァーが、蛇口をひねってざあざあと野菜を洗い始める。その間にわたしは、シャルマンから野菜の名前を聞き出した。

「サイカチーネ」

わさっと広がる、黄色い葉っぱだ。形だけなら銀杏の葉っぱに似ている。でもずっと大きくて、噛んでみれば生臭さと苦みが口の中に広がる。

「ニアーエ」

黒色の小さな粒だ。硬い。包丁で半分に切れば、カラッと乾燥した白い実が見える。豆に似ている。噛みしめてみたけど、何の味もしなかった。

「マヌー」

これは白い枝だ。皮をむいてみると、半透明の茎が見える。印象としては、アスパラに似ているか。でも大きさは段違いだ。わたしの腕ほどにある。噛んでみれば、硬い。でもしゃきしゃきした歯触りが面白い。

「ヒャラシト」

赤茶色の、ふんわりとした実だ。そっと割いてみれば、バターを溶かしたような色合いの内身が見える。かじってみたら、焼いてもいないのに香ばしい風味が口の中に広がった。このまま食べても問題ないだろう。

これですべてだ。それぞれの特徴をこの舌で確認しながら、わたしはおばあちゃんのレシピを開いた。ぱらりとはさんでいた紙をめくる。さいわいにも、材料欄に掲載されている食材ばかりだ。ふと、いままでの解読具合をシャルマンに報告していたことを思い出した。もしかして、狙った? そうと悟れば、やっぱり期待されているような感覚を覚える。

「トウコ、オーブンがどちらも終了している」

野菜を洗い終えたオリヴァーが教えてくれる。パンを取り出してもらって、牛肉は切っておいた野菜をかぶせて、さらに焼くのだ。オリヴァーがなめらかな動作でこなしている間に、わたしはレシピ集を眺め続けた。よし、と、顔を上げる。にわかに手足となってくれた人の面には、揺らぎのない微笑が浮かんでいる。

「メニューを決めたよ。マヌーのアンチョビソースかけ、リンゴとセロリとサイカチーネのスープ、サーモンのカーライル蒸し、ニアーエとかぼちゃのグラタン、それからいま調理している、デリシャの果汁を使った牛肉の蒸し煮に、食パン、そしてベリーヒャラント」

いちおう、パーティー料理になるように考えた。さらにすべての野菜を使用している。ただ、おぼつかない感触があった。これまでに一度も作ったことがない料理なのだ。おばあちゃんのレシピに間違いはない、という確信はあるけれど、腕をふるうのはわたしなのだ。そして采配を振るうのもこのわたし。そのことに意識を向ければ、ぶるぶるとこみ上げる震えがある。

それでもオリヴァーの存在が心強かった。彼は落ち着いた様子で、ひとつのメニューを告げるたびに、それを書いたレシピを並べていく。その一枚一枚を取り上げるオリヴァーの横顔は鋭く引き締まっている。ふとわたしをみつめて、ふっと口角を持ち上げた。

「わかった」

彼がレシピを確認する間に、洗濯しておいた、東條さんのエプロンを取り出した。差し出せば、ちらっと笑って身につける。

そして頷きあって、行動開始だ。

わたしはパスタ用の鍋にたっぷりのお湯を沸かしながら、マヌーの皮をそいでいく。オリヴァーはとんとんとんと見事な手つきで包丁を使い、リンゴやセロリをこまかく切っている。それぞれ作業に入ったわたしたちを、シャルマンはカウンター向こうで眺めている。

「懐かしいな」

そんな言葉が聞こえた。顔を上げる余裕もなかったけれど、シャルマンの美声ははっきりと聞こえていた。

「エマを思い出す」

そしてそれきりシャルマンは沈黙している。ちらりと顔を上げれば、美麗なおもざしは自らの思考に沈んでいることがよくわかった。

そのまなざしに宿る憂いは何だろう。その声に宿る響きは何だろう。

しかし、追求する余裕など、わたしにはない。
ひたすら手を動かし続ける。なにせ初めての食材を扱っているものだから、その些細な反応すら未知の反応だ。色の変化、感触の変化、味の変化。ひとつの変化を迎える度に味見をして、その変化を舌に叩き込む。そしてレシピにある通りに、食材を料理に変えていく。

震えはもうない。代わりに不思議な高揚があった。

それはおばあちゃんのレシピを再現しているからだろうか。それとも未知の食材の味にわくわくする感触をかきたてられるからだろうか。調理する過程がうまくいったのは、ひたすらオリヴァーのおかげだ。わたしよりも冷静にレシピを見つめ、調整していく。

「トウコ。塩加減が薄いよ。ボーっとしないで」
「わかった。ごめん」
「謝らなくていいから、すぐに動いて」

――そんなやり取りを交えながら、すべての料理を終えたのは、ぎりぎりとも云える時間だった。

すべての味見は終えている。馴染みのない食感に戸惑う舌ではあったけれど、わたしより経験を積んだ舌を持つオリヴァーが『合格』と呟いていた。

だが、異世界人に受け入れられる味だろうか。

シャルマンを見ていれば、彼の味覚はわたしたちと同じだと云うことがよくわかる。でも、という一抹の不安が残る。けれどとにかく身体を動かして、テーブルセッティングをすすめる。そして客人たちはやってきたのだ。

「ようやく戻ってきたか、放蕩者め」

それが彼女の第一声だった。
ふっと気配を感じ取ったシャルマンが顔をあげたと同時に、アヴァロンの扉が開いたのだ。

意外なことに現れた姿は、人間とまったく同じ姿だ。いいや、むしろ平均的な人間より整っていると云うべきだろう。室内灯をはじく白い髪に、紫がかった白い瞳は、まるで氷の女王だ。豊満な身体を、首元から足元まできっちりと覆った濃紺色のドレスに身を包んでおり、耳元にきらきらとした飾りが煌めいている。

「放蕩者とはひどい言い草だな」

なにせ2時間という時間があったのだ。ただ待つだけのシャルマンが申し訳なくて、途中でわたしは軽食を彼に渡していた。と云っても簡単なもので、パンにクリームとジャムをのせただけのものだ。

本当はスコーンを作ればよかったのだけど、さすがにその余裕はなかった。とはいえ、焼き立てだから許容してくれたらしい。そのパン屑を払って、彼は立ち上がった。ふん、と彼女は鼻でシャルマンを笑う。

「職務をおろそかにして、世界をめぐっていた輩が戯言を申しておるな。その間、わらわたちにしわ寄せが来ていたこと、知らぬとは云わさぬぞ」
「だからこそ、今日はあなたをお招きしたのだが?」

ぎくり、とその言葉に、肩が揺れた。

彼女のけぶるようなまなざしがわたしに向いた。ふっと紅い唇があざやかに微笑む。すい、と、シャルマンの隣を通り抜け、カウンター越しに話しかけてきた。

「エマ」

云いながら細い指がわたしの髪に触れる。

「きれいな髪であったのに、惜しいこと。だがその髪型も似合っておる。どのような心境かな」
「あ、あの」
(ああ、このひともおばあちゃんを知っているんだ)

そんな事実に気づかされながら、そのまなざしに浮かぶやさしい色合いに言葉を失う。あまりにも懐かしげな、そして温かなまなざしは、彼女にとっておばあちゃんが大きな存在であったことがわかる。

でもわたしはおばあちゃんではないのだ。

その事実を告げるべきだと思ったのだけど、でもなぜだか彼女をがっかりさせることはためらわれて、わたしは半端に唇を動かしていた。

「この子はトウコ・タカツキ。エマではありません」

するとみかねたのか、隣からオリヴァーが口出しをしてくれた。彼女はシャルマンを振り返る。シャルマンは頷きをひとつ返す。それから訝しげに、わたしとオリヴァーを交互に見比べた。

「エマではない? しかしこれほど」
「残念だが、それが事実なのだ。サピエンティア、エマはとうにこの世には存在していない」

<完璧たる種族>であるがゆえに。

ややまつげを伏せて、シャルマンはそんなことを云う。サピエンティアと呼ばれた彼女は短く息を呑み、指を引っ込めた。わずかに寂しげな空気が漂う。いたたまれない感触を覚えて、わたしはうつむいた。

「忘れていた」

ふう、と吐息が響いて、そしてふわりと空気が動いた。かすかな花の匂いが香る。顔をあげてみると、サピエンティアはシャルマンに促されるまま席についた。そして向かいに座ろうとした彼を見据える。

「しかしシャルマンよ。おぬしは何ゆえ、それを事前に云わなかった? エマの料理を食べられると期待している輩は多いようじゃぞ?」

シャルマンは何も云わず、ただ、微笑んでいる。やれやれと云わんばかりに彼女は肩をすくめた。

「エマの血統。トウコと申したか」

わずかに低い、でも甘やかな女性の声が、わたしの名前を呼んだ。呼びかけに応えれば、彼女はまっすぐにわたしを見つめている。

「失礼した。わらわはサピエンティアと呼ばれている。八大諸侯の一人、この世界では北の領地を預かっておる。今宵はおぬしの料理、楽しみにしておるぞ」
「……ありがとうございます」

すでにサピエンティアは陰りのない、堂々とした微笑を浮かべている。
頭を下げながら思ったことは、おばあちゃんは何者だったんだろう、ということだった。

だって、忘れかかっていたけどシャルマンは伯爵だ。
そして北の領主と名乗る人まで、おばあちゃんに対して親しみを覚えていた様子だ。たしかに異世界との接触部を管理する役目を負っていたけれど、結局のところ、ただの料理人だと思っていたのだけど。

「八大諸侯、ね」

同じことを考えているのか、隣からオリヴァーの呟きが聞こえた。視線を向けると、わずかに身をかがめて、囁きかけてくる。

「今日訪れるお客の数は7人だったよね?」
「そうだけど?」

他でもない、オリヴァーが確認したことだ。忘れてしまったのだろうか、と見上げると、軽く笑う。

「だから八大諸侯なんだな、と納得したところ」

意味がわからない。

わたしが首を傾げていると、カランと扉が開く。新たな客人だ。このひとたちも人間と変わらない容姿をしている。また、扉が開く。同じだ。異世界らしからぬ、――つまりは人間と変わらない容姿をしたひとびとが次々と現れて、そしてわたしを「エマ」と呼びかけ、違いに落胆し、そして席につく。わたしはその度に申し訳ない気持ちになったけれど、次第に揃っていくお客さまを眺めているうちに、慣れてきた。

それにしても<完璧たる種族>とは何だろう。

祖母とわたしが別人だと説明するシャルマンが口にする言葉だ。<完璧たる種族>だからこそ、エマはこの世にはもういない。その言葉を口にするシャルマンはそのとき、わずかに憧れの響きを言葉にのせる。

後で訊いてみよう、そう思っているうちに、カランと扉が開いて、最後の客人が現れた。
そのひとは、わたしとさほど変わらぬ年齢に見えた。艶やかに腰元まで流れる黒髪に、深くくっきりとした翠色の瞳が印象的だ。つるんとした白い肌をした彼女は、わたしを見るなり、表情を変えた。

「どうして」

シャルマンを見つけたときには、甘やかに表情をほどいたひとなのだ。それなのにわたしを見るなり、きゅっと細い眉を寄せて、表情を険しくしている。

「どうしてここに、エマがいますの。彼女は亡くなったはずですわ!」
「エクレール」

ウィレースと名乗った男の人が、カタンと立ちあがり、少女に歩み寄る。オレンジ色の髪が印象的な、軍服を着ている人だ。たしか東南の領主だと名乗っていた、と記憶を確認していると、彼は少女の肩を抱き、なだめるようにそっと叩いた。

「彼女はエマじゃない。トウコだ。エマの孫だよ」
「嘘ですわ。それにしたって、こんなに似ているはずがありませんもの。ウィー、わたくしをごまかそうとしているんですの?」
「エマは<完璧たる種族>だ。その血統には良く似た人物が現れることもある」

椅子に腰かけたまま、シャルマンが無造作な調子で告げる。その言葉の響きに、わたしは少しドキリとした。位置的に横顔を見ることになる。その表情は初めて見るほど冷淡で、そっけないものだった。

少女は、ウィレースではなくシャルマンの言葉に反応して、淡紅色の唇を噛んだ。そうしてツンと顎をそびやかし、空いている席に腰掛ける。ちらりとうかがえば、ウィレースは苦笑して自分の席に戻った。たいしたひとだ。わたしはウィレースに対してそう思う。彼女の無礼に動じてない。

「さて、それでは皆、揃ったようだの」

なにか事情があるのか瞳を硬く閉じたままの、金髪のクレーメンスがグラスを持ち上げる。他の面々もその動きにならってグラスを掲げる。なみなみと注がれているのは、ウィレースが持ってきていたお酒だ。透き通るような金色のお酒で、うっとりするくらい、豊かな香りのお酒なのだ。蒸留酒かな、果実酒かな。

いずれにしても鼓動がにわかに波打つ。お酒と合う料理になっているだろうか。運んだ料理を味見したときの舌の感触がよみがえる。アンチョビの塩味がぱりぱりとしたマヌーによく映えるとあのときには思ったのだけど、果たしてお酒と合う味になっているだろうか。思わず隣に立つオリヴァーをうかがう。彼はゆったりと落ち着いていて、客人たちを見守っている。ああ、その落ち着きがうらやましい。

「では、トウコの料理をいただくことにするかの」

クレーメンスがわたしの方を向いて笑う。そして器用にマヌーを切り分けた。アンチョビソースをつけて、口に運ぶ。わたしはうつむいた。正視できない。

しばらく咀嚼をしているらしき間が続く。かちゃん、とグラスをとりあげる音も聞こえる。ふう、と、溜息がこぼれる音もした。

「おもしろい味ですわぁ」

くふふ、と笑い出しそうな、闊達な声が皮切りとなって次々と言葉が上がる。珍しい、とか、たのしい、とか。顔を上げると、美麗な人々は穏やかな表情でフォークとナイフを動かしている。残念なことに美味しい、という単語は出てこないけれど、少なくとも不味いと云いたげなひとは、――。

いた。

黒髪のエクレールだ。彼女だけは、剣呑な表情でじっと料理を睨んでいる。少しも食べていない。なにかまずい食材を利用していただろうか、と冷や汗を流す勢いで考えていると、冷やかに微笑を閃かせたシャルマンが彼女に話しかける。

「どうしたのかな、エクレール。野菜料理でなければ食べられないと云うから、こちらを用意してもらったのだが?」

するとどうした作用か、エクレールは顔を赤らめる。きっとシャルマンを見つめて、がたんとたちあがる。

「わたくし、失礼いたしますわ」
「エクレール」
「いくら久しぶりの集まりであっても、口に合わないものを無理にいただこうとは思いません。気に入りの料理人を雇ったばかりでもありますし、わたくしは城に帰らせていただきます」

言葉だけじゃない、彼女は本当に帰るつもりだ。

わたしは対応に戸惑った。だってこういう場合、どうすればいい? しゃしゃり出て、下手な料理で申し訳ありませんでした、と謝るべき? でも主催者であるシャルマンは平然と腰かけたままだ。

代わりにウィレースが立ちあがり、扉に向かうエクレールを追いかける。オリヴァーを見た。首を横に振るものだから、わたしは落ち着かない気持ちでその場に立ち尽くした。

やがてウィレースが戻ってきて、どかんと自分の席に座る。ちらりとシャルマンを剣呑に睨んだ。

「大人気ないぞ、シャルマン。どうしてエクレールに対してはそんなにも冷たいんだよ」
「云ってやるな、ウィー。こやつは気に入りの料理人を貶められるのが嫌いなのじゃ。そしてエクレールは」

くふふ、とサピエンティアは楽しげに笑う。

「シャルマンの気に入るものが気に食わぬのじゃ。あれも幼きとはいえ、おなごであるからのぅ」

ウィレースはますます憮然と唇を結び、あおるようにお酒を呑んだ。シャルマンは平然とした様子だ。ふっとわたしに視線を向け、あの美麗な微笑を浮かべる。

「これはエマのレシピか」
「はい」

問いかけに応えると、しみじみとした空気が流れる。
ちん、とグラスをぶつけあう人もいた。ふたたび、パクリと味わうようにマヌーを口に入れる人もいる。
あの道楽者め。そう呟いたのは、あざやかな赤毛のナウタだ。見た目だけなら三〇代に見える彼は、じかに祖母を知る人なのだ、もちろん外見通りの年齢ではないのだろう。

ゆっくりと料理を味わう彼らを見て、おぼろに悟ったことがある。
これはおばあちゃんを偲ぶ食事会なのだ。

彼らの食事ペースに合わせて料理を出す。その合間に流れてくるまなざしの理由もそれで納得できる。

誇らしい気持ちと少し羨ましい気持ちがあった。
わたしはまだ20年も生きていない子供だ。もちろん子供だと侮らせるつもりはないけれど、それでも死と云うものは、特に自分の死と云うものはわたしにはまだ実感の遠いところにある。それでも自分がいなくなった後、こうして偲んでもらえることは、とてもしあわせなことだと感じたのだ。

それから、場違いかもしれないけれど、安心もした。

おばあちゃんは独りで亡くなった。生活している国が違う以上、仕方のないことなのだけど、でもやはり、憧れの祖母を独りで死なせたという事実はわたしに負い目を抱かせていたのだ。寂しい想いで亡くなったのではないか、やりきれない想いで亡くなったのではないか。おばあちゃんのことを思い出す度に、ほんの少しだけ、そんな後悔に似た痛みが心にあったのだ。

でも、それはとんでもなく見当外れだといまは思う。

少なくとも祖母には、亡くなった後にこうして偲んでくれる人がいた。友人がいた。それは決して、家族に痛みを覚えさせるような事実ではない。むしろ安心して、感謝していいところだろう。きっと。

「でもやっぱり、エマの味とは違う気がしますわぁ」

やがてそんな言葉を云ったのは、フィレスという凛とした名前に反して、ほわほわとした印象が強い女性だ。淡い色合いの髪もその印象に拍車をかける。やわらかそうな頬に細い指をあてた。

「なんと申しますかぁ、エマの料理の方がもう少し繊細だったようにも思えますのよぉ。あくもくさみも充分に取っていただいておりますけどぉ、エマの方がもっと徹底していたように思えますわぁ」
「そういえば、そうかもしれぬな」

サピエンティアも思い出したように告げる。クレーメンスが、ほっほっほ、と笑う。
まるで年寄りのような言動だけど、女性的な美貌の持ち主だけに違和感が凄まじい。

「女性陣は突っ込みが激しいの。シャルマン、おぬしはどう思っておる?」
「仕方のないことではないかと」

グラスを傾けていたシャルマンは、涼やかな様子を崩さないままにはっきりと云った。

「エマの料理は特別だ。あれの真似は誰にも出来ない」

ゆっくりと夜は明けていく。深い紺色の世界は、しみじみと淡い橙色の世界に移り変わっていくのだ。

いち早く席を立ったのは、麗しのサピエンティアだ。わたしを名残惜しげに微笑んでアヴァロンを出ていく。扉ががたがたゆれて、みぞれ混じりの風が入り込んだ。いまは夏だ。目を瞬いて外を眺めると、いつの間にか現れたトナカイが二頭、優美な飾りのそりを引いている。そりに乗り込んだサピエンティアが白いひげの従者に指示すると、ふわりとそりは空に滑り出していく。

そして次に立ち上がったのは、クレーメンスとフィレスだ。この2人は実は仲が良いらしく、席を立つときにも腕を組んでいる。まだ夜は明けていない。今度、外に現れていたのは、白い翼と黒い翼の天馬だった。クレーメンスが白い天馬に乗り、フィレスが黒い天馬に乗る。そしてぴしりと手綱を引いて、北東と北西、それぞれの方角に飛んでいく。思わず外で見届けようとして、出てきたナウタに二の腕を掴まれた。

「じきに世界が変わる。おまえはアヴァロンの中にいた方がいい」

これが初めて、ナウタに話しかけられた瞬間だった。だれよりも低く響く声は、ずしんと心に響く。大人しく引っ込んだわたしに頷いて、ぴぃーっと指笛を吹いた。するとかつかつと馬具をつけた見事な馬が走り寄ってくる。ぶるるっ、と息を荒く吐き出したその馬の顔面をなだめるように叩いて、わたしに目をあわさぬまま、ナウタは告げた。

「うまい、料理だった、と思う」

そう云うなり、身をひるがえしてその馬に乗り込む。
わたしを見下ろして、ひとつ頷く。あまり動かぬ表情で、瞳が温かな南の海の色をしていることに気づいたのはそのときだ。でも彼はあっという間に手綱を操作して、走り去って行った。

「さて、我々も帰るとするか」

云いながら背後に立ったのは、シャルマンとウィレースだ。振り向き、少しだけ目をみはる。黒髪の貴公子、オレンジ髪の軍人。傾向は違えど、2人とも見事な容姿を持つ男性だ。見応えがある。ちょっと見惚れてしまったかもしれない。するとウィレースがくい、と口角を持ち上げた。蒼氷色の瞳が悪戯っぽく煌めく。

「今度は俺の城にも招待したいね。お嬢さん、受けてくれるかな」
「ウィレース」

まるでたしなめるようにシャルマンが呼びかける。笑い出しながら、軽い調子でウィレースは肩をすくめる。深い紺色の街路に、行き交う生き物の姿は少ない。肌寒くなるような空気の中に立ち、彼はわたしに告げた。

「でも俺からじゃなくても、近々、きみには別の諸侯から招待が届きそうな気がするな。そう、」

きらりとその瞳に鋭さが宿る。

「エクレールとか」
「途中で退席された方ですね」

わたしと同じように、見送りに立っていたオリヴァーが口をはさんだ。ウィレースはにやっと笑って、シャルマンを見る。シャルマンは知らぬ顔だ。そんなそぶりを装っているのではなくて、本当に興味がないんだなあとわかる態度だった。

同じことを想ったのだろう、ウィレースは溜息をついて、ばさりと右手を払った。するとどうした次第か、ウィレースの姿は消えて、代わりに見事な大鷲がその場には現れていた。艶やかなオレンジ色の体毛が見事だ。蒼氷色の瞳でわたしをみる。かと思えば、大鷲になったウィレースは大空に飛び立った。

(鳥なのに、夜空を飛ぶことが出来るのかしら)

そんなことを考えているわたしは、少しばかり気づくのが遅れた。がらがらがら。いつもの馬車がやってきたと振り返ったときに、まなざしを交わしているシャルマンとオリヴァーにようやく気づいたのだ。

「どうしたの、2人とも」

言葉を交わしていたわけではないと思う。この至近距離でさすがにそれを聞き逃すことはない。
ただ、2人は何らかの意思を確認し合っていたのではないか、そんな気がした。

その証拠に、わたしの呼びかけに2人は同時に振り返った。その動作に微妙な違和感があったのだ。慌てたような、誤魔化そうとしているような。眉をひそめる。けれどわたしが何かを云うよりも先に、馬車の上の従者が、シャルマンを呼び掛けたのだ。

「乗ってくだせぇ、旦那。巻き込まれますぜ」
「エマの血統。下がっていろ」

シャルマンがやわらかく肩を掴んで、わたしを、アヴァロンの奥により押しやった。とん、とオリヴァーの細長い指が引き寄せる。シャルマンが扉を閉めて、ガラス越しに走り出す馬車の姿が見えた。

そして、夜が明けたのだ。

それなりにこの瞬間を迎えたけれど、いつ見てもこの瞬間には違和感を覚える。ちょっと瞬きしたかな、そう思った瞬間に、街並みはロンドンになっているんだもの。先ほどまで馬車が走っていたのに、もう自動車が走っている。道路にだって土なんて見当たらない。思わず外に出たわたしは、そのまま不思議そうな新聞配達の人に新聞を渡された。まだ、止めていないのだ。

「あーあ、激務だった」

背後でそんな声が響いて、振り返るとオリヴァーが皿を片づけている。慌ててアヴァロンに入った。

「いいよ、休んでいて。あとはわたしがやる」
「気軽に云うけどさ、結構な量だよ? 物はついでと云う言葉もあるし、さっさと片付けるさ」
「でも悪いから。座って。それにお腹空いたでしょ?」

まあ、そりゃあね、と頷く彼を強引に座らせて、わたしは洗ってかけていたフライパンを取り出した。喜ばしいことだろう、食べ残しはない。新たに調理しようと思ったのだ。するとオリヴァーはちょっと笑った。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

そんな言葉を残して洗面台に消えた。ああ、そう云えば男の人だものね、と、朝日に輝く金色のひげに気づかされた。でも薄いのになあと思ったけど、黙っておいた。その代わりに、フライパンでベーコンエッグを作って、さらには刻んだ野菜でミネストローネを作った。この辺りは日本にいたときから繰り返している過程だから、手慣れたものだ。そしてパンをオーブンで焼けるようにセットした後に、洗い物を運び入れた。

(たくさん食べてもらったなあ)

きゅ、と蛇口をひねって水を出して洗い出しているうちに、いまさらのように胸がどきどきしてきた。
だって初めて、料理人として調理して成功したんだ。

これってすごいでしょう、と、自画自賛の気持ちがわき上がってくる。ま、ひと口も食べずに退席された方もいたけど、どちらかと云えば評価されたのはおばあちゃんのレシピでむしろわたし(たち)の調理は批評されたように感じているけど、それでも成功には違いない。オリヴァーは動じてなかったけど、わたしには大きな達成感がある。そうか、世の中の料理人はこういう思いを味わっているんだ。そう思ったときだ。

「いったいこれはどういくことなの、橙子!」

忘れかかっていたひと、――母さんの声が響いた。

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