3・めばえた謎、ほどける謎

    じりり。再び玄関のチャイムが響く。わたしはベッドの中でぼんやりその音を聞いていた。時計を引き寄せて、時刻を確認する。午前6時。まだ早い。そう結論付けて、再び掛け布の中に潜り込む。けれど。じりり。がばりと起き上がった。もう、誰が来たんだ。寝ぼけた頭で文句を云いながら、カーディガンをまとって玄関に向かった。どなたですか、と扉越しに声をかけて、「わたしです」と云う日本語を聞いた。

    (東條さん?)

    ようやくはっきりと目が覚めて、扉を開いた。

    すると白いエプロンを身に付けた彼が、申し訳なさそうに立っている。どうしたんだろう、こんなに早く。何気なく考えて、はっと青ざめた。もしかして、昨日使ったサーモンの件だろうか。こくりと息を呑む。

    「すみません、朝早くに。ご迷惑かと思ったのですが、せっかくですからこちらをお持ちしました」

    ところがそうではなかった。彼はそう云って、持っていたバスケットのふたを持ち上げる。そこにはサンドウィッチが広がっていた。きゅうりとローストビーフのサンドウィッチ。思わず目をみはると、遠慮がちに東條さんは云う。

    「余計なことかと思ったのですが、これならいつでも食べられるかと思いまして。ちょっと手早くつくってみたんです」
    「ありがとうございます、嬉しいです!」

    歓声をあげて、わたしはバスケットを受け取った。

    お世辞じゃない。まだ眠る気分だったとはいえ、ぼんやりと空腹も感じていたのだ。出来れば手軽に食べられるものがここにあったらなあと夢想していたから、この差し入れは本当に嬉しかった。さらに手渡されたボトルには、冷たいアイスティーが入っている。二重に嬉しくなった。もう一度お礼を云う。東條さんはどことなく照れ臭そうだ。

    「バスケットや空いた食器は結構な荷物ですから、このままここに置いていてください。店が暇になったら取りにうかがいます」

    かさねがさね、親切な人だ。感心しながら、わたしは口を開いた。

    「本当にありがとうございます。でもずいぶん早いうちから活動されているんですね」
    「や、すみません」
    「あ、いえ。すみません、こちらこそ厭味みたいに」

    軽く頭を下げて、それからなにかに気づいたように、東條さんは自分の時計を示した。するとそれは午前7時になっている。あれ、と思って、はっと閃いた。

    そうだ、サマータイム。

    わたしは慌てて時計を1時間進めた。いまはイギリスではサマータイム中だから、時間が1時間早く進んでいるのだ。しかし本来ならまだ午前6時なのに、時計の上ではもう7時だなんて、なんだか調子が狂う。

    「わたしも昔は、ずいぶん違和感を覚えたものでした」

    少しだけ目を細めて、懐かしげな様子で云う。

    それは、おばあちゃんの味を知ったと云う、初めての旅の出来事だろうか。黙って眺めていると、はっと物想いから戻った彼は、慌てたように下に降りていく。7時30分から、朝の営業ははじまるらしい。イングリッシュブレックファーストを出すと云っていたから、滞在中に一度、食べてみたいなあと思いながら、玄関の扉を閉める。まだ眠い。でも、意識は醒めてる。

    だからボトルからアイスティーを注いで、こくりと飲み干した。窓を閉めているためか、部屋の空気がよどんでいる。そのことに気づいて、カーテンと窓を開け放った。白い雲が、まずは目に入る。そしてさわ、と冷たい空気が入ってきた。気持ちいい。でも、と目の前の気色を見た。もうすっかり、ここはロンドンだ。

    (うそみたい)

    昨夜の出来事を思い出して、そんなことを思う。

    でもうそじゃない。振り返ってテーブルを見れば、山になってるデリシャの実がある。異世界の食材であり、この世界には決してない食材である。その食材を持ってきた存在を思い出した。毛深い獣の脚をもった、半獣半人の生き物に、味にうるさい、しゃべる猫。ああ、猫は人間にもなれるんだっけ。ほんの短い間で目に焼きついた、美麗な貴公子の姿を思い出す。黒い髪を艶やかに伸ばした、伯爵と云う呼び名がふさわしい存在。そんな彼が消えていった、異世界の街並み――。

    (夢じゃ、ないんだよね)

    窓辺から離れて、ごつごつした感触の実をすくい上げる。爪を立ててみた。固い皮はわずかに傷がつく。
    オブジェなんかじゃない。ちゃんとした果物なんだ。信じるしかない。現実に、この非常識な果物はここにある。

    でも、誰が信じるかなあ、こんなこと。
    ぽんぽんとデリシャの実をもてあそびながら、正直に云えば、わたしは困惑していた。

    この建物は夜になると、異世界との接点になる。だからこそ、おばあちゃんたちはここを離れることができず、かつ、生活の糧を得る手段として食堂を開いた。

    そこまではいい。でも納得できないことがある。

    なぜ祖母は、後を継ぐだろう東條さんに、そのことを教えなかったのだろう。

    彼がまったくそのことを知らなかったのは、夜に開店しなかったと云う事実だけで、理解できる。だからわたしはデリシャの実を隠すように、部屋に持ってきたのだけど、一階から運びながら悩んだものだ。

    アヴァロンは、いまでは東條さんのお店なのだ。この店の奇妙な特徴について、そして祖母が異世界の食材を使って調理していた、と云うことについても話すべきではないかと思ったからだ。

    でもなぜ、おばあちゃんは彼に話さなかったのだ?

    考えても答えは出ない。もう一度、アイスティーを飲んで、息を吐いた。そしてはっと閃く。

    「母さん!」

    イギリスにいないものだから、事実を分かち合えるだろう存在のことを忘れていた。母は成人するまでこの家に住んでいたのだ。この特徴を知らないはずがない。慌てて電話に飛びつく。日本とイギリスの時差は、いまは8時間。少なくとももう、授業は終わっているはずだ。わたしは携帯電話の番号を押して受話器を耳に押し当てる。あまり待つことはなかった。

    『もしもし?』
    「母さん!」

    なつかしい響きの日本語を聞いて、わたしは思わず、非難するような声をあげていた。橙子? 驚いたように声をあげて、やややわらかくなった声が返る。

    『イギリスに着いた連絡としては、いささか遅いんじゃない? もう何時間経っていると思うの。心配したのよ』
    「それどころじゃない。母さん、この家のこと、どうして黙っていたの!」
    『この家のこと?』

    訝しそうに繰り返して、はっと息を呑んだようだ。

    『ちょっと。まさか、あなた、アヴァロンに泊まったの!?』

    それだけで充分だった。母は頼りになる。そう確信したわたしは、深く深く溜息をついた。

    「泊まったよ。東條さんが薦めてくれたから」

    Shit、という罵り声が聞こえた。ずいぶんお上品な罵り文句だ。皮肉に考えながら、わたしは口を開く。

    「じゃあ、母さんもこの家の特徴、知っていたんだね。どうして話してくれなかったの。わたし、とても驚いたんだからね!」
    『話せば信じてくれたの?』

    皮肉な響きの声が、すぐに返ってきた。ぐっとわたしは言葉につまる。

    世の中には打ち明けられて、信じられる話と信じられない話がある。この家の特徴は、間違いなく信じられない話だ。それでも不満がわだかまって、何かを云ってやりたいと思った。でも、イギリスに来るにあたって、ホテルに滞在するように、と繰り返していた母を思い出してしまえば、反論は力なく口の中に消えていった。

    『東條さんにも云っておいたのよ。母がそうしていたように、その食堂は夜には開店しないでください、それがお店を譲渡する条件ですって。それなのに、よりにもよってあなたを泊めるなんて!』

    あとでとっちめやるわ、と、息巻いている母を慌てて止めようとわたしは口を開いた。違和感がある。でも何を云えばいいのか、とっさには思い当たらない。そうしているうちに、「橙子」と短く名前を呼ばれる。

    『すぐ、ホテルに移りなさい。そこにいたら、ずるずるとあの世界の事情に巻き込まれてしまうから』
    「無理だよ」

    なにかを考えるよりも先に、唇はそう動いていた。云ってしまって、自分でも不思議だった。
    どうしてわたしは、そんなことを云ってるんだろう。

    『なぜ?』

    苛立たしげな母の言葉に、わたしはうろうろと言葉を探して、ようやく閃いた言葉を口にする。

    「だってもう、予約していたホテルをキャンセルしたもの。いま、シーズン中でしょ。たぶん、空いているホテルなんて、どこにも見当たらないよ。大学寮も、ユースホステルも、そしてたぶん、B&Bも同じ」

    そもそも今回のホテルだって、ぎりぎりのタイミングで見つけ出したものだったのだ。母もそれを思い出したらしい。溜息が響いた。わたしは不思議だったことを思い出して、問いかけることにした。

    「ねえ、母さん」
    『なに』
    「母さんは、だから、この家を出たの? 非常識な家がいやで、だから、父さんと結婚したの?」
    『莫迦にしないでほしいわね。逸郎と結婚したのは、逸郎が好きになったからよ。それ以外に理由なんてあるものですか』

    即答だった。

    このすがすがしさは、日本人にはまねできないものだよなあと思いながら、ごめんなさい、と口にした。でないと母はすごく怒るとわかっていたからだ。母は少し笑って、そして静かな口調で語った。

    『いやというわけじゃないわ。常識を疑ってしまうような特徴だけど、わたしにとってはそれが当たり前だったのだもの。好き嫌い以前に、それが日常だった。でもね、――ただ、自由になりたかったのよ。その家に縛り付けられて、一生を終えることがいやだった。もっともっと、広い世界を見てみたかった。それだけだったのよ。だから家を捨てたの。だから母がいなくなってしまった以上、もう、その家は閉鎖するしかないと思ったのよ』

    けれど結局は東條さんに後を継いでもらって、アヴァロンは存在し続けることになったのだ。ああいう非常識を(一応)管理する人間としてはうかつじゃないだろうか。そう思ったけれど、黙っていた。その中途半端なところが、母なりの情の形に思えたからだ。沈黙したわたしに安心したのか、考え深い声が続く。

    『ホテルに泊まれない以上、あなたはそこに滞在するしかないわね。野宿なんてとんでもないし。……まったく、あの日本人、よくもやってくれたわ。この建物には夜、誰もいないことを条件にしているのに』
    「母さん」
    『なに』

    それだ。怒涛の勢いで耳に流れ込んでくるおしゃべりに圧倒されながらも、わたしは微妙な違和感を覚えていた。東條さんは書類上ではこの建物は母の名義だと云う。でも母は夜に開店しないことを条件に譲渡したという。一体どちらが正しいのだろう。

    「この建物は、いま、誰の名義になっているの?」

    すると訪れた沈黙は、少しばかり長いものだった。

    『わたしよ』

    いかにもしぶしぶのように母は云う。わたしに対して嘘をついてしまったことが気まずいのだろう。
    でもそれはもういい。わたしが思ったのは、この違和感を解消したい、それだけだ。

    『でももう、東條さんに譲渡するために書類を作成させていますからね。あなたはその店を継げないから』
    「うん。それはいいんだ。でも東條さんはこう云っていたの。充分な代金がないから、いまはまだ賃貸になっているって。矛盾してない?」

    ああ、と短く合いの手が入る。

    『そう云えば彼、えらく譲渡に対して遠慮していたわね。このまま放置しておいては寂れていくばかりですからって説得しても、代金を必ず払います、と云うばかりだったわ。律義な人だと思ったけれど、』

    中途半端に言葉を切って、母は考え込んだ。

    ともあれ、2人の言葉はそれぞれの意思が反映したものだったのだ。合意が成立していないから、矛盾が成立している。わたしはようやく納得した。

    (でも)

    それでもわたしは、再び別の疑問にぶつかる。
    なぜ、おばあちゃんは東條さんにこの建物の持つ特徴を話さなかったのか。

    母が話さなかった理由はわかる。閉鎖も考えたのだ、これ以上、あの非常識な特徴を広めたくなかったのだろう。管理する人間としてそれでも一応話しておくべきだったと思うけど、身内すら信じられないような話だ。母をあまり強く責められない。仕方がない。

    でも、どうしておばあちゃんは東條さんに、このことを話さなかった?

    弟子だったのではないだろうか。後を継がせようと思って、取り立てた弟子だったのではないだろうか。それならば話しておかないといけないはずだ。この建物で、店を続けさせようとしていたのならば。

    『橙子』
    「――なに?」

    わたしは必死になって、考えを進めていた。でもいくら考えても理解できない、祖母の意思に翻弄されていた。おばあちゃんはなにを考えていたんだろう。その言葉だけが脳裏を閉めていた。だから母の言葉に、ぼんやりと反応して、そしてとても驚いた。

    『わたし、そちらに行くわ』
    「はい?」

    短くもない間をおいて応えると、それしかないと思うの、ときっぱりとした母の言葉が響いた。

    『代理人を立てて話を進めていたからまどろっこしい、そしてこんな事態になってしまったのよ。明日には無理だけど、……そうね、数日のうちには予定を組み替えて、そちらに行くことにする』
    「も、もしもし、母さん?」
    『東條さんにそう伝えておいて。あ、あなたを泊めたことに関しては、文句は云わなくていいわ。わたしがイギリスに行ったときに直接云うことにするから!』

    そうして電話はあっけなく切れた。

    つーつー、と音を立てる受話器を眺めて、わたしは深い溜息をついた。そう、母はこういう人だった。受話器を戻しながら、微妙な後悔に襲われる。

    結局、相談したいと思ったことは出来てないし。それどころか、悩みは深まっていくような気がする。

    もういちど、ボトルからアイスティーを注いだ。母との会話の間に、ずいぶん汗をかいてしまって、少し温くなっている印象がする。くる、とお腹が鳴った。バスケットのふたを開き、サンドウィッチが入っている器を取りだした。その前に、と洗面を済ませる。寝室に戻って、服を着替える。

    思いついて、台所でナイフを探した。錆びてもいない果物ナイフを見つけて、デリシャの実を切る。それをデザートに、朝食を始めた。はむ、とサンドウィッチを頬ばる。わずかにぴりとした味ときゅうり、それからローストビーフが口の中に転がり込んできた。マスタードソースはちょうどいい辛さで、肉との相性は抜群だった。お昼用に残しておこうかな、そんなことを考えたけれど、意外に空いていたお腹に促されるように、全部平らげてしまった。

    少し指にくっついたソースをなめとって、今度は切り出したデリシャの実にかぶりつく。しゅわわ、とはじけるような果汁が口の中に広がった。飲み物の代わりとしても、最高の果物だ。しゃくしゃくとかぶりつきながら、ぼんやりとおばあちゃんのことを考える。

    どうして異世界の食材で調理していたんだろう。
    そんなこともちらりと思っていたのだ。でもこの美味しさがすべての答えになっているような気がした。

    (母さんは自由になることを選んだみたいだけど)

    この味のためならば、そしてこの味を広めることができるのなら、この家に縛り付けられることも悪くない。ちらりと考えて、笑った。

    もう、わたしには出来ない話だ。

    イギリスの天気は本当にめぐるましい。先ほどまで雨が降っていたかと思えば、もうこんなにも晴れている。白い雲の合間からのぞく太陽を見て、わたしはこのイギリスの天気に正直、呆れてしまった。これじゃ折り畳み傘が手放せないじゃない、と思ったけれど、こうして食堂の中から眺めていると、傘をさしている人は意外にも少ないのだ。そこまでの雨じゃない、という判断かもしれないけど、大変だなあと思う。

    (遅い)

    テムズ川から死体が発見されたとか、そんなことが書いてある新聞をほうり出して、落ち着かない気持ちで窓の外を見た。人が少ないと云うことで、昨日と同じ席、道路が見える席に座らせてもらっているのだけど、あのきらきらしたひと、オリヴァーはまだ来ない。腕時計を見下ろす。時刻はもう、午後3時近く。つまり、昨日この店に訪れた頃と同じ時刻だ。テーブルの上にレシピ集を置いているけど、まだ開いていない。

    「お友達をお待ちですか?」

    カウンター内から声がかかる。今日の後片付けを終えたらしい東條さんが、エプロンを取りながら問いかけてくる。一瞬、まずいかな、と思った。でもごまかしようがないから、そのまま頷いた。すると彼は朗らかに笑う。「だと思いました」、そう告げて、紅茶を持ってきて、ティーカップに注いでくれる。

    いい人だな、と思う。

    昨日、オリヴァーの態度はとても失礼なものだったと思うのだ。それなのに、まったく気にした様子がない。それどころか、昨日と変わりなくこちらを気遣ってくれて、さすがは大人だなあと感じた。

    「わたしはこれで帰りますが、なにか、必要なものがありましたら、遠慮なく使用してください」

    それはこれからオリヴァーとの会話が長引くことを見透かしたような言葉だった。ありがとうございます、と云えば、もともと、ここはあなたの家ですから、という答えが返ってくる。その言葉で思い出した。

    「あの、ですね」
    「はい?」
    「近いうちに、母がイギリスに来ると思います」

    すると彼はびっくりしたように目を瞬いた。少しだけ申し訳ない気持ちに襲われながら、言葉を続ける。

    「携帯に電話して、会話の流れからそういうことになりました。代理人を通さず、直接この家のことについて話し合いと云っていました。……すみません」

    この家の特徴のことは、出来るだけ触れないようにして、わたしは簡単に説明した。この建物が夜になると異世界との入口になる、と云うことは話した方がいいと思うのだけど、母と祖母、2人が話していなかったことを勝手に話すのはどうかと思ったのだ。未成年のわたしが、そこまでしゃしゃり出てはいけない。

    驚いた様子の東條さんは、少し難しい顔をしてわたしの言葉を聞いていたけれど、最後の謝罪を聞くにあたって、軽く首を振った。

    「気にしないでください。わたしも直接お話しできないことにもどかしさを覚えていましたし、きっとその方がいいんです。――それより、そちらのノートは高槻さまのものですか?」
    「あ、いいえ」

    おそらく話題を変えるためだろう、東條さんは傍らにあるレシピ集を気にかける。わたしは軽く笑って否定する。帳面を持ち上げて、表紙を見せる。

    「これ、おばあちゃんのレシピ集なんです」

    ああ、と納得したように東條さんは微笑んだ。

    「どおりで見たことがあるノートだと思いましたよ。エマがそれはそれは大事にしていたノートです。あいにくとわたしには見せてくれませんでしたが」

    へえ、と首を傾げながら、わたしは帳面をぱらぱらとめくる。まあ仕方ないことかもしれない。何せこれは暗号で書いてあるんだもんなあと心の中で呟いて、ふと東條さんのまなざしに気づいた。やけに強い、――ううん、的確に表現するなら執着を感じさせるまなざしがレシピ集に注がれている。

    ――あの、日本人に気をつけろ。

    突然、オリヴァーの言葉が脳裏によみがえってきてしまって、ぞくぞくと刺激されるものがあった。けれどもその慄きを押し殺して、気のせいと云い聞かせた。東條さんは、おばあちゃんのお弟子さんだもの。云い聞かせることで気を取り直したわたしは、あえて明るい調子で言葉を紡いだ。

    「それなら読んでみますか?」
    「よろしいんですか?」

    思いがけないことを聞いた、と云わんばかりに、東條さんは声を上げる。わたしは頷いた。いずれは解読して東條さんに渡そうとしていたレシピ集だもの。いまの段階で見せても、問題はないだろう。 ぽんと手渡すと、東條さんは一瞬息を呑み、そしておそるおそるのように帳面を開いた。けれどまもなく眉をひそめる。

    「読めませんね」

    あ、この人もか。わたしは苦笑して、頷いた。

    「そうなんです。どうやら暗号で書いてあるみたいで、それをオリヴァーと解こうとしてるところなんです」

    オリヴァー、と口の中で呟いた東條さんは、まなざしをゆるめてわたしを見下ろした。

    「昨日の彼ですね。もしかして彼の名前は、オリヴァー・ルイス・エルバート・スタンフォードと云うのではないですか?」

    わたしは驚きながら頷いた。教えてもいないオリヴァーのフルネームをさらさらっと唱えられたのだから当然だ。すると感心したように東條さんは頷く。

    「あのスタンフォードさまとご友人でいらっしゃるなんて、高槻さまはすごいですね」
    「あの、東條さんはオリヴァーのことをご存じだったのですか?」

    すると驚いたように東條さんはわたしを見下ろす。

    「有名な方ですから。もしかしてご存じなかったのですか?」
    「昨日、偶然会ったばかりでしたから……」

    オリヴァーとの馴れ初めは出来れば話したくない。とはいえ、不思議そうな東條さんに話さないわけにはいかなくて、訥々と昨日の出来事を話していった。だんだんと東條さんの表情が複雑なものになる。最後まで聞き終えて、ふう、と溜息をついた。

    「そういう次第で、こちらにいらしたのですね」
    「後悔しています。まさか、あんなに傲慢な態度でお店を出ていくなんて思わなかったものですから」

    オリヴァーはわたしには謝ってくれたけど、それで何もかも帳消しになるわけじゃない。特に東條さんが味わった不快感はまだ消えていないだろう。それを考えて告げた言葉だったけど、東條さんは首を振る。

    「いえ、それがスタンフォードさまですから」

    あっさりと片付けられて、むしろわたしは困惑した。

    「いったい、オリヴァーって何者なんですか?」

    有名人だと云うことはわかった。でもオリヴァーは料理人と云っていたのに、東條さんの態度は、ただの有名な料理人に対する態度じゃない。もっと上級階級の人間に対する態度のように思われたのだ。もっと聞き出そうと思った。けれどそのときに、無造作に食堂のガラス扉が開いたのだ。

    「トウコ」

    オリヴァーだった。わたしは笑顔を引っ込めて、振り返る。そして文句を云おうとして驚いた。

    なぜならオリヴァーは昨日のような寛いだ格好ではなく、夏物ではあるけれど、三つ揃いの仕立てのいスーツを着ていたからだ。そんな恰好をしていると、彼の優美な美貌が引き立って、紳士のように見える。

    「待たせたね」

    まっすぐにわたしに向かってきてそんなことを云う。傍に立つ東條さんのことは顧みない。そんなところにちょっと眉を寄せてしまったけれど、なにかを云う前にオリヴァーは親指で外を示した。

    「車を待たせてある。行こう」
    「……どこへ?」

    するとオリヴァーはちらりと笑って。

    「せっかくロンドンに来たんだ。観光案内でも?」

    そうしてようやく東條さんに視線を向ける。
    驚いていた様子の東條さんだったけど、ここで少し笑顔を取り戻して、わたしに向き直った。

    「お友達の仰る通りですよ。行かれたらいかがですか」
    「でも」

    わたしはうつむいて、レシピ集を見下ろした。

    たしかに観光案内は嬉しい。当初の予定ではロンドン巡りも予定に入れていた。でもいまは、このレシピ集の解読を進めたい、と云う気分が強かったのだ。

    ぴん、とオリヴァーの人差し指が額をはじく。額を抑えて見上げれば、綺麗な顔がわたしを見ている。

    「いいから準備をしておいで。そんなに時間はない」

    むっと唇を結んだけれど、まあ確かにその通りだ。

    わたしはレシピ集をひっつかんで、居住部に向かった。それからオリヴァーの格好を考えて、一着だけ持ってきたワンピースに着替える。細かなレースの襟元が印象的な、なかなかにドレッシーなワンピースだ。それに合うハンドバッグも取り出して、簡単にリップだけ唇に塗る。

    それから迷いはしたけど、レシピ集をハンドバッグに収めることにした。もしかしたら必要ないかもしれないけれど、本筋はあくまでもこちらだもの。持っていかないわけにはいかない。さいわいにもハンドバッグは大きいから、武骨な帳面も綺麗に隠してくれる。そして階下に降りた。

    東條さんとオリヴァーは、それぞれ会話をするでもなく、ただ、それぞれの立ち位置でわたしを待っていたみたいだ。まず東條さんがわたしに気づき、にっこりと笑って「似合っていますよ」と云ってくれた。そしてオリヴァーは、ドレスアップをしたわたしを見て、軽く目を見開いた。けれどもなにかを云うわけでもなく、ただふっと笑うだけだった。物足りない反応だと感じたけれど、さりげなくオリヴァーはわたしから東條さんに視線を流して、薄い唇を開く。

    「ではトウコは借りていくよ。午後8時ごろには送り届けるから」

    東條さんは苦笑して、首を振った。

    「わたしに予定を告げる必要はありませんよ、スタンフォードさま。わたしはここに住んでおりませんし、なによりスタンフォードさまは信頼できるお人ですから大丈夫です」
    「……それから」
    「? なにか?」
    「昨日は大変失礼なことをした。許してほしい」

    その言葉にわたしは目を見開いたけど、それ以上に驚いた様子を見せたのは東條さんだった。ちらり、と何気なくわたしに視線が向かい、そして改めてオリヴァーに向き直る。

    「謝っていただく必要はありません。スタンフォードさまがおっしゃったのは、ただの事実です。むしろ仰っていただけたことに、より精進を積まなければと考えられたのですから、ありがたい言葉だったのです」

    それはすごくまっすぐな言葉だった。

    わたしはまじまじと東條さんを見つめた。彼の料理は決してまずくはない。まずいと云うことなら、日本はおろか、このロンドンにだって他にもそういう店はあるだろう。でもそれでも、こうして理不尽な言葉に対しても向きあえることは、すごいことだと感じた。

    オリヴァーはしばらく黙って東條さんを見つめ返した。表情を消し去った彼が、なにを考えているのか、わたしにはさっぱり分からない。だからといって2人の間に入り込むことも出来ず、ただ立ち尽くしていると、オリヴァーが振り返ってわたしを見た。

    「行こう。時間が惜しい」

    オリヴァーが待たせている、と云った車は、なんと黒塗りの車だった。優美な曲線が高級感を醸し出していて、オリヴァーの姿を見るなり、かっちりとした運転手さんが降りてきて扉を開いてくれた。あきらかに、タクシーの運転手じゃない。

    戸惑ったわたしは思わずオリヴァーを振り仰いでしまったけれど、彼は黙って着席を促すばかりだ。おそるおそる頭を下げながら後部座席に座れば、オリヴァーが入り込んできて隣に腰掛ける。堂々とした態度だ。

    (何者なんだろう)

    ここにきて、オリヴァーに対する疑問は決定的なものになった。彼は料理人と云った。レストランで働いているのかと云う疑問にも頷いた。

    でもこれは、一般人の車じゃない。

    少なくとも日本の、これまでの生活ではここまでの車に乗ったことがない。ふわふわとした本皮のシートは最高の手触りでわたしを迎える。この感触が許されているのは、上級階級の人間ではないだろうか。

    「あの男は、相変わらず油断ならないね」

    車が発進してしばらく、ゆったりとした様子で肘を窓際に預けているオリヴァーがそう云った。話しかけたくて、でもどう話しかければいいのか、それまでずっと判断できなかったわたしは、両手をそろえた膝に置いたまま、彼に問いかけた。

    「それって、東條さんのこと?」

    ちらりと蒼い瞳がわたしを見る。
    いかにも偉そうな態度だったけど、それはひとまず横に置くことにして、疑問に感じたことを口にした。

    「どうして? 立派な人じゃない」
    「立派すぎて、胡散臭い」

    さらりと云ってのけた言葉はひねくれているもので、わたしは正直、呆れてしまった。するとオリヴァーは溜息をついて、「まあいい」と告げる。少しなげやりな態度だったけど、続けた言葉は意欲にあふれていた。

    「とりあえずレシピ集を貸してくれないかな」
    (あ)

    わたしはハンドバッグからレシピ集を取り出して、いそいそとオリヴァーに渡した。オリヴァーは受け取って、ぱらぱらとめくる。考え深げに見下ろしている横顔を眺めて、わたしは唐突な迷いに捕らわれた。

    つまり、アヴァロンの秘密を話すか、話さざるべきか、という迷いである。

    祖母は異世界の食材を料理に用いていた。ならば、このレシピ集を解読した際には、その異世界の食材の名前が出てくると思うのだ。ただ、それはこの世界にはない名前だからこそ、せっかく正しい答えに解き明かせたとしても、オリヴァーが過ちと誤解するかもしれない。それを考えたら、暗号解読に協力する、と云ってくれたオリヴァーにはせめて、事情を打ち明けておいた方がいいんじゃないかと閃いたのだ。

    ――正直、筋が違う気がする。

    れっきとしたアヴァロンのオーナーである東條さんには知らせないで、まったく関わりのないオリヴァーにこの秘密を話すと云うのは、なにかが間違っている気がする。けれどもなんといえばいいんだろう。

    オリヴァーには話すべきだ、と感じたのだ。

    いま、こうしてレシピ集を眺めているオリヴァーは、まったく真摯に向き合っていてくれていることが伝わってくる。それだけ真剣なのだ、こちらも相応に応えるべきだと感じてしまう。わたしたちの目的をちゃんと遂げるためにも。

    「あの、ね。オリヴァー」

    けれどもやはり秘密を打ちあけることには、勇気が必要だった。膝にのせた両手をぎゅっとこぶしに握る。なにげなくこちらをみた彼は、わたしの様子を訝しく思ったのだろうか、ぱたんと帳面を閉じてくれた。

    「なんだい」
    「アヴァロンが、――未知の食材を使用していたと云ったら、信じる?」
    「未知の食材?」

    その部分を繰り返して、少し困惑したようだ。
    ちらりと横目でうかがう。訝しそうではあるけれど、怒りだした気配はない。息を呑んで、云った。

    「そう。――異世界の、食材」
    「……異世界」

    わずかに後部シートがよじれる感触がした。

    オリヴァーが背もたれに身体を預けたのだ。腕を組んで、難しい顔をしている。わたしを横目で見た、そしてわずかに唇を曲げる。ややして、大きく溜息をついた。右手を伸ばして、ぴんとわたしの額を弾く。

    「悲壮な顔にならないように。怒ったりしないから」
    「でも信じられない?」

    そう訊き返すと、オリヴァーはようやく苦笑した。

    「僕がここで、『信じよう』と云ったところで、きみはそれを信じることができるのかな」

    鋭い切り返しに、わたしは言葉を失った。

    確かに。その異世界にまつわるものを見たわけでもない、あの不思議な体験を経験したわけでもないオリヴァーがあっさりと「おまえの云うことなら信じよう」とでも云い出したら、わたしは「胡散臭いなあ」と感じるだろう。なにも知らなくせに、と思うに違いない。

    「でもなぜそんなことを、――ああ」

    膝の上に置いたレシピ集を見つめて、納得したようにオリヴァーは頷いた。

    「暗号解読の妨げにならないようにと考えたんだね」

    あっさりとわたしの考えを見抜いたオリヴァーはそんな言葉を告げて、温かく笑った。そうしてぱらぱらと帳面をめくって何事かを考えていたようだけど、ぴたりと動きを止める。

    「――きみの家には代々、食材に対して独自の名前を呼び掛ける習慣があった。とりあえずそう云う形でいまの言葉を解釈することにするよ」
    「なんだか、まわりくどい」

    率直に感じたことを云ってしまいながら、思わず声を立てて笑ってしまう。自分でもそう感じているのか、オリヴァーは苦笑しながら、再び肘を窓際に預けた。

    「しかたないじゃないか。実際に見たこともない食材が目の前にあるのならともかく、ただ話だけで異世界と云われても、冗談として受け流すしかない。それが普通の反応と云うものだよ」

    どこか冷静に自分自身を眺めている発言に、わたしは少しだけ不思議な心地だった。改めてオリヴァーを見つめる。彼は頭から否定しなかった。そんな事実が不思議なほど、心に響いている。なんとなく間がもてなくて、窓の外、ロンドン市内に目を向けた。

    「いま、どこに向かっているの?」
    「僕の家」

    意外な言葉に吃驚して振り返ると、あの、意地悪そうでやさしそうな、オリヴァー独特の笑顔があった。

    「本音を云えば、ロンドン市内観光より、暗号解読に興味があるんだよね?」

    見抜かれている。

    知り合って間もない、正直に云えばまだ、友達と呼べるかどうかも微妙な彼に、そこまで見抜かれているとなんだか恥ずかしい。そんなに分かりやすいだろうか、となにげなく頬に手をやってしまうと、オリヴァーは声をあげて笑う。どうやらバレバレらしい。

    「とはいえ、夕食はレストランに行ってもいいけど」
    「オリヴァーが働いているところ?」

    半信半疑ながらに問いかけると、「そんなところ」と云う答えだけが返ってくる。秘密主義め。少しだけ唇を尖らせて、あ、と気づいてしまった。

    そういえば、夜、アヴァロンは異世界との入口になるのだった。

    わたしは思わず考え込んでしまう。夜、と云っても具体的には何時ごろから変化するんだろう。昨日は午後9時ごろだった、と思う。シャルマンが訪れた頃はまだ明るくて、2度目に外に出たときにはもう異世界の街並みに変わっていたのだ。その違いを思い出して、気がついた。もしかしたら、太陽の浮き沈みが関係しているのかもしれない、と閃いた。ううん、きっとそうだ。

    ちらりとオリヴァーを見る。すると彼は、興味深そうにわたしを眺めていたから、思い切ることにした。

    「異世界の食材、食べてみたい?」

    唐突な言葉だったのだろう、オリヴァーは目を見開いた。だがすぐに余裕を取り戻し、ゆったりと応える。

    「食べてみたいね」
    「なら、食べさせてあげる」

    そう云えば、意表をつかれた表情になる。

    今度の凝視はずいぶんと長く、そして妙に緊張させるものだった。けれどじっとわたしはオリヴァーを見つめ続ける。アヴァロンにはいま、実際にデリシャと云う異世界の食材がある。それを目にして、オリヴァーがどういう反応するのか、それを今度こそ、わたしは見極めたいと云う気持ちが強かったからだ。

    やがてふう、とオリヴァーは息を吐いた。そっけなく横顔を見せて、窓の外に視線を向ける。

    それで緊張がほぐれるかと思えば、そんなことはなかった。まだ、長い沈黙は続いている。でもわたしはいつまでもその沈黙に付き合うつもりだった。だからオリヴァーの横顔を眺め続けていたのだけど、少しばかりしつこかったのかもしれない。

    手入れのされた指が、つんと伸びてわたしの額をはじく。まただ。額を抑えると、あの微笑が見えた。

    「では夕食を楽しみにしておくよ」

    オリヴァーの家は、リージェンツ・パークに近い場所にあるフラットだった。6階建ての、モダンな建物で、その最上階すべてがオリヴァーの家であるらしい。それを聞いたわたしは、やっぱり、と不審感を新たにした。

    オリヴァーはただの料理人じゃない。

    おそらくは雇われているんじゃなくて、経営に携わっている人間だ。でないとここまで豪華な暮らしは不可能だ、と内装を見まわしながら考えていた。

    おばあちゃんの家よりもずっと豪華な印象の部屋を進んで、オリヴァーはある一室にわたしを案内した。

    そこは天井まで本が並んでいる部屋で、中央には大きな樫材の机がある。書類や書籍が山積みだ。そして部屋の隅っこには応接セットがあって、オリヴァーはそこにわたしを導いた。まず呼び鈴で使用人を呼んでお茶の用意をさせた後、低いテーブルにレシピ集を置いて、白い紙とペンを机から持ってくる。

    「僕の考えでは、このレシピ集はシーザー暗号で書かれていると思う」

    シーザー暗号?

    わたしが不思議そうな顔をすると、書棚から本を取り出そうとするので、慌ててその服の端っこを引っ張った。会話は何とか理解できているけど、読解の方はもっと時間がかるのだ。それを理解したらしいオリヴァーは、向かい側のソファに座りなおした。

    「あの、ジュリアス・シーザーが使っていた暗号のことだよ。文章の文字をアルファベット順にいくつかずらして、それを文章として残すんだ」

    それでもよく呑みこめていないわたしのために、オリヴァーは具体的に紙に書いてくれた。

    たとえば猫と云う単語を、暗号にしたいとする。猫はcatというつづりだ。それをシーザー暗号のルールに従えば、fdwとなる。つまりアルファベットの順番を、この場合はみっつ、ずらしたのだ。要するに、「A」ならば「D」、「B」ならば「E」、「C]ならば「F」といった具合だ。

    そうしてくわしく解説されたら、さすがのわたしも理解できた。でもこのひとはどういう理由でシーザー暗号だと気づいたのだろう。素朴な疑問でいっぱいなわたしに構わず、オリヴァーはさらに説明を続ける。ただ問題は、このレシピ集では、いくつ文字をずらしているのか、さっぱりわからない、とのこと。

    「しらみつぶしに、26パターン、試してみたら?」

    ちらりと冷やかな軽蔑のまなざしが返ってきた。

    思わずたじろいで沈黙していると、「一番高い可能性は、」と言葉を続ける。なんだよ、仮説があるなら早くに云ってくれてもいいじゃないか。ぶつぶつぼやいたわたしを華麗に無視して、オリヴァーは言葉を続ける。

    「6つ。なぜなら、店の名前がAvalonだから。この単語に含まれるアルファベットの数は6個。これならいくつ文字をずらしたのか、すぐに思い出せる」

    なるほど、たしかに。

    ところが実際に書かれている単語の文字を6つ、ずらしても理解しやすい単語になることはなかったのだ。
    わたしたちは顔を見合わせ、揃って首を傾げた。なんといっても、店の名前を参考にしたのだ。この上なく、当てはめやすい数字だと思ったのだけど、だとするとどんな数字があるだろう。

    「建物の階の数」
    「それなら4だね。……ちがう」
    「居住部の部屋の数、は、3だよ」
    「はずれ」
    「アヴァロンのテーブルの数、は」
    「覚えている?」
    「……ねえ、やっぱりしらみつぶしにやった方がよくない?」

    顎に指を当てて、オリヴァーは考え込んでいる。例によって、わたしの発言はあざやかに無視だ。くそう、と悔しくなったわたしは、余計に悔しくなってしまって、レシピ集の単語を適当に紙の隅っこに移した。

    gombs。

    試しに電子辞書に入力してきても意味は出てこない。かろうじて、ということなら近い単語に、gumbo、つまりオクラがあったけれど、全然違うだろう。念のため、6つ、ずらした単語を書いてみる。

    aigvm。

    電子辞書に入力する。やっぱり該当する単語はない。あるいは異世界の単語かもしれない。そんなことを閃いて、ぞっとした。それじゃ本当に正解がわたしたちにはわからない。だから慌てて首を振る。

    「どうしたんだい?」

    考え込んでいたオリヴァーが顔をあげる。黙っていられなくなって、わたしはいま閃いたことを云った。
    するとオリヴァーはくすりと笑って、なんでもないことのように、レシピ集を指差した。

    「それなら心配いらない。異世界の材料を用いているんだろう?」
    「そう」

    するりとオリヴァーの口から異世界と云う単語が出てきたときにドキリとしながら頷くと、細長い指が帳面の一角を示した。

    「だとしたら、異世界の単語は、この辺りに書かれているはずだよ。ほら、隣に重さが書かれている。おそらくこの辺りが、材料をリストにしたスペースだから……」

    そしてはっと閃いたように、オリヴァーはレシピ集を取り上げた。ぱらぱらとめくり、なにかを見出したのだろうか、ペンを取り上げ、紙の空いているスペースにこんな単語を書く。

    chalyxcyhym。

    そしてその下にこんな単語を書いた。ingredients、「材料」、だ。そしてとんとんとん、とペン先でアルファベットの数を数えていく。はっとわたしも目を見開いた。同じ数だ。なめらかな動きで、さらにオリヴァーはこんな文字を書いていく。

    I=C、N=H、G=A、R=L、E=Y、D=X、S=M、とここまで書いて、先に書いたアルファベット表を見つめる。わたしも気づいた。変換する文字は、6つ、前に向かっている。わたしたちはずらしていく文字を逆に考えていたのだ。

    先ほどの単語、gombs、で考えてみよう。

    わたしはこれを後ろに向かって6つずらしたものだと考えた。だからaigvmと云う単語になってしまったのだけど、前に向かってずらされたものだと考えたら、mushyと云う単語になる。電子辞書で調べてみる。初めて単語がヒットした。「かゆ状の、やわらかな」と云う意味だ。料理用語らしい単語になっている!

    つまり、こういうことだ。通常のシーザー暗号ならば、アルファベット文字を右にずらして考える。けれどもおばあちゃんたちが遺した暗号では、アルファベット文字を左にずらして考えるようになっていたのだ。解いてしまえば簡単な仕組み、――でもこのレシピ集はあくまでも「覚え書き」なのだ。あまりにも難し過ぎたら、読めなくなることを危惧したのかもしれない。

    「解けたね」

    嬉しくなって笑いかけると、「まあね」とオリヴァーも頷いた。ぱらぱらとレシピ集をめくり、少しだけうんざりした様子を見せる。膨大な数だからなあ。レシピ集を受け取って、わたしもうんざりした。でも先にアルファベットの対応表を作ればいいのだ。そうしたら映していく過程が楽になる。するとオリヴァーはまっすぐなまなざしでわたしを見つめた。

    「これで問題の第一段階が解けたかな」
    「うん!」

    はずみをつけて頷いて、そして首を傾げた。

    問題の、第一段階?

    奇妙な言い回しだった。まじまじとオリヴァーを見返すと、彼はあごの前で両手を組み合わせる。組んだ両手に唇を押しあてて、何事かを考えているようだった。首を傾げて、そんな彼を見つめると、ためらったように、うつむいた。珍しい。

    「オリヴァー?」

    思わず呼びかけてしまうと、彼は顔をあげて何かを云おうとしたのだ。

    けれど、そのとき、じりり、という音が響いた。チャイムの音だ。思わずびくっとしたけれど、ここはオリヴァーの家だから、と気を取り直した。オリヴァーは訝しげに顔を上げる。まもなく、ノックの音が響いたものだから、「入れ」と短く告げる。姿を見せたメイドさんは、少しためらいがちに告げる。

    「アビゲイルさまがいらっしゃいました」
    (アビゲイル?)

    女性の名前だ。何気なくそう考えて、オリヴァーに視線を移した。そしてびっくりした。
    なぜならオリヴァーの表情が一転してしまっている。鋭く引き締まり、ぴりりとした緊張が白い面をおおっているのだ。そして低く、呟くように告げる。

    「追い返して」
    「それが、御来客中ですから、と申し上げたのですけど、その、」
    「強引に入り込んだと云うわけかい」

    忌々しげに舌打ちして、ぎしりと鳴らしながらソファから立ち上がる。なんだか、剣呑な気配だ。わたしは存在を忘れかかっていたティーカップに手を伸ばして、ひと口、紅茶を呑んだ。残念、冷めてしまっているから苦味が強く出てる。もったいないことをしたなあと考えながら、ちらりと腕時計を見る。

    午後5時を大幅に過ぎて、6時近い。窓の外を見れば、まだまだ明るい。さすがは夏のイギリスだなあと思っていると、「トウコ」と短く呼びかけられた。反射的に「はい?」と応えれば、オリヴァーは深刻な顔でわたしを見下ろした。

    「少しの間だけ、待っていてくれないか。厄介な客が来たから、追い返してくる」
    「え、でも」

    剣呑と云えば剣呑な言葉に驚きながら、わたしは口をはさむことにした。

    「もう、暗号は解けたから、わたしはこれで帰るよ。そろそろ帰らなくちゃ、と思っていたから」

    すると彼は、どこか気落ちした様子を見せる。
    ちらりと使用人を見た後に屈みこんで、わたしの耳に直接囁きかけた。

    「異世界の食材、とやらを食べさせてくれるんじゃなかったのか?」
    (うわ、近いっ)

    すぐ間近に迫った、金色のまつげが思いがけないほどの動揺を招くものだから、わたしは思わず身体をずらせた。驚いたようにわずかに身体を引いて、そしてオリヴァーは、にやり、とたちの悪い微笑を浮かべる。ずい、と先ほどよりも近づいて囁いてきた。

    「トウコ?」

    完全に楽しんでいる。わたしはうろうろと視線をさまよわせた。メイドさんとばちりと目が合ってしまって、さらにはうつむくように眼をそらされてしまって、思いっきり動揺してしまった。かっと頬に熱が上がる。小さな笑い声が身近で響いた。オリヴァーだ。睨んでやれば、愉快そうな表情で身体を起こしている。

    「とにかく少しだけ待っていて、すぐに」

    そのときだ。こんこん、と扉が叩かれた。
    はっと皆で扉を見つめれば、かちゃり、とまもなく扉が開く。傍にいる気配が鋭く引き締まった。

    「ごきげんよう、オリヴァー?」
    (うわあ)

    やや掠れた声でそう云いながら現れたのは、なんというか、すごくゴージャスな美女だった。
    年齢は、イギリス人の年齢はわかりにくいのだけど、それでも30代後半くらいじゃないだろうか。オリヴァーよりも色の濃い、巻き毛かかった金髪が豊かに肩の上で散らばっていて、くっきりしたアイシャドウに彩られた瞳は、あざやかな蒼だ。そしてなんというか、格好がすごい。深い紅のスーツを着ているのだけど、V字ラインの襟もとから豊かな胸が、スリットの入ったスカートから悩ましい太ももがのぞいている。

    はっきり云って、色気過剰な美女だった。あ、こういう場合は、妖艶な美女、と云うべきだろうか。
    きんとはりつめた声が、隣から響く。

    「約束はしていなかったと思いますが、何の御用です」

    すると彼女は、ふっと余裕ある微笑を浮かべる。

    「あら。ずいぶん冷たいのね。母親が息子のところにやってくることに、なんの約束が必要だと云うの?」

    ええええっ。
    わたしは思わずぱかんと口を開けてしまった。

    お、お母さんって云った、いま。この美女、オリヴァーのお母さんだって云ったよ、たったいま。

    思わずオリヴァーと彼女を見比べる。似ている、と云えば、同じ色の髪と瞳、と云うところが似ていることになるんだろうか。でもそれを云い出したら、金髪と蒼い瞳のイギリス人は皆、オリヴァーの近親者と云うことになる。それはいくらなんでも、大雑把過ぎるだろう。

    そんなことを考えていると、ちらりと彼女の視線が、わたしに向かった。きゅっと唇の端が持ち上がる。そのまなざしの強さにたじろいでいると、さりげなくオリヴァーがわたしの前に立った。

    「お友達?」

    平然とした響きの言葉が、彼の身体越しに聞こえた。

    なんとなく、そのまま座っていてはまずい雰囲気のように思えて、わたしは立ち上がった。壁のように立ちふさがっている背中を、とんとん、と叩く。ちらりとサファイアブルーの瞳がわたしを振り返る。にっこりと笑って、わたしはオリヴァーの隣に立った。すっと美女の目が細まる。爬虫類みたいな人だな、そんな外れた感想を抱きながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

    「はじめまして、高槻橙子と申します」
    「はじめまして、アビゲイル・スタンフォードよ」

    そう名乗りながら、じろじろとわたしを見つめる。

    まるで物色するようなまなざしだ、と思いながら、さりげなくオリヴァーの腕に手をかけた。ぴくり、と美女のまつげが揺れる。やっぱり。オリヴァーに話しかける声の調子から感じ取っていたことを確信しながら、どうしたものかな、と考えていた。すると彼女は、じっとコワいまなざしでわたしを見据えたまま、云う。

    「ずいぶん、オリヴァーと親しいようだけど、どちらの娘さん? 生粋のイギリス人じゃないわよね、ご両親は何をしてらっしゃるの?」
    「アヴァロンから参りました。両親は学校の教師をしています」

    ずいぶん不躾なことを訊いてくる。呆れた気持ちを隠して、わたしは胸を張って堂々と応えていた。アヴァロン、――日本と応えるでもなくそう応えたのは、この美女を煙に巻いてやろうと云う気持ちが満々だったからだ。おそらく彼女は、アヴァロンが食堂であることを知らない。

    実際に彼女は、うっすらと頬に血を上らせる。別に失礼だとは思わない。初対面の人間に侮蔑の含みを持たせて親の職業を訊く方が、よっぽど失礼だとも思うもの。

    「アヴァロンですって。なかなか面白い答えだけれど、わたしは冗談を聞きたいわけではないのよ」

    すると剣呑な気配を薄めてわたしを見ていたオリヴァーが面白がるように唇をゆがめて言葉をはさんだ。

    「いいえ、お母さん」

    彼は、お母さん、と云う言葉を強く発音した。

    「アヴァロンは実在する場所ですよ。知るものぞ知る、と云う場所ではあるけれど、確かに実在する。彼女はそこからのお客人なんですよ。そしてこれから彼女の家で、夕食をごちそうになる約束をしているんです」

    そう云いながら、オリヴァーはわたしの肩に手をかける。そうきたか。仕方がないなあと思いながら、やや遠目で意識を逃亡させる。なぜならアビゲイル夫人のまなざしがいっそうきついものになったからだ。

    誤解されているんだろう。

    想定内のこととはいえ、実際にこういう瞳で睨まれるのは遠慮したい。心ひそかに身構えていると、ふっと彼女は視線をそらした。わたしは目を瞬かせた。その動作だけが、ゴージャスな彼女に不思議と似合わない。

    「そう。お友達との約束があるなら仕方ないわね。ひさしぶりに、夕食を一緒に、と思ったのだけど。――アルフォンスもあなたに逢いたがっていたから」

    オリヴァーの瞳がやわらかく和む。

    アルフォンスと云う名前がそうさせたことはすぐに分かった。あるいは彼女はそれを知っていたから、その名前を出したのかもしれない。

    でも、おそらくは彼女の期待通りになることはなかった。さらりとした態度のまま、オリヴァーは言葉を継いだのだ。

    「そうですね。僕もアルフォンスには逢いたいと思っています。近いうちに逢いに行く、と伝えてください」
    「きっとよ?」

    そう云った彼女のまなざしは、同性のわたしから見てもとても艶やかで、思わず息を呑んだ。

    彼女はわたしを一瞥して、身をひるがえして部屋を出ていく。オリヴァーの合図を受けて、メイドさんが見送りに行く。ふう、と漏らしたわたしの溜息が、オリヴァーのそれと重なった。

    思わず彼を見上げると、サファイアブルーの瞳と瞳が合う。なんだか、疲れている。そんなことを思ったわたしは、手を伸ばしてその金色の前髪を撫でていた。さらりとやわらかい前髪が指に絡む。すると驚いたように蒼い瞳が瞬く。ややして仕方なさそうに、オリヴァーは苦笑した。

    「まるで子供扱いだね」
    「安心して。わたしは両親にも同じことをするから」
    「家族扱い? それは光栄と云うべきかな」

    そう云って、ようやくわたしの肩から手を離した。

    適当な距離が保たれて、もういちどほっと息を吐く。そしてオリヴァーを見た。落ちついた動作でソファに腰掛け、冷めているだろう紅茶を口に運んでいる。わたしは口を開いて、そして閉じてしまった。

    なにかを云おうと思った。なにかを訊こうと思った。

    でもどちらも口にすることはためらわれた。なぜならオリヴァーはまだ、わたしの友達と云うわけじゃない。ただ、どういう気まぐれか、わたしの目的に協力してくれているだけ、というひとだ。そういうひとが、おそらくは隠しておきたいだろうことに、やすやすとわたしは触れてはいけない。そんな気がしたのだ。

    わたしは窓辺に近寄って、見下ろした。ちょうどあざやかな金髪が、フラットの入口から遠ざかるさまが見える。通りに停めている車に乗り込もうとして、その寸前、彼女はこちらを見上げた。身体を引っ込める。

    気が付けば、オリヴァーがじっとこちらを見ていた。

    何を考えているのかわからない、不透明なまなざしだ。それでも咎められているような気分になる。わたしは出来るだけ表情を押し殺しながらソファに戻り、オリヴァーと同じように紅茶を呑みこんだ。冷たく苦味を帯びた液体は、それでも乾いた唇にやさしかった。さらに呑み込んで、口を開く。

    「じゃあ、我が家の秘密をお見せしましょうか」
    「異世界?」

    彼は抵抗もなく、するりとそんな単語を告げる。やっぱりそのことに不思議な感覚を抱きながら、わたしはオリヴァーを見つめる。

    さきほどまでの不透明な気配はすでにない。少しばかり意地悪で、それなのに優しそうな気配が漂っている。すっかりいつも通りだ。

    その事実に安心した。なんだか知らなくていいことを知ってしまった気がするけれど、オリヴァーがこうして自分を取り戻せているのなら、わたしも気にしなくていいのだろう。

    さっさと忘れよう。そう思いながら、言葉を続けている自分の方にほんの少し、違和感を覚えた。

    「きっと驚くよ。なにせ猫がしゃべりだしてブランデー入りの紅茶を要求したり、半獣半人が食材を売りに来たりするんだから」
    「それは楽しみだね」

    オリヴァーは澄ました様子で告げる。
    きっと驚くよ、と云ったものの、彼は驚かないような気がして、わたしは微笑んでいた。

    なぜだかその想像が、とても嬉しかったのだ。

     

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