7・むちゃぶりという言葉を教えてあげよう。

どういう現象ですかこれ。

わたしはいま、無性に問いつめたい衝動にかられている。もちろん対象は、あの、黒髪の貴公子さまだ。いつもいつも無茶振りしてくれてからに、と胸元をひっつかんでガシガシ揺さぶりたい。でもできない。

「お嬢ちゃーん、こちらの注文はまだかいの」
「はいはい、ただいま!」

皿に料理を盛り付ける。ちらっと全体を確認して、悪くないと盆にのせた。カウンター内を出て、「お待たせしました!」と注文を受けたテーブルに運ぶ。ああ、本当に猫の手も借りたい。そう思いながら、先ほど呼びかけてきたテーブルに向かう。アヴァロンを探って見つけ出してきた、注文用紙をエプロンのポケットから引っ張り出して、お客さまが告げる注文を書きとめる。大学入学して、バイトを飲食店にしたのは正解だったなあと思う瞬間だ。なんとか一人でも対応できる。

でもやっぱり無茶だと思うのだ。

あれから目覚めてみると、母さんの姿はすでに消えていた。メモ書きが残っていて、「ご飯はしっかり食べるのよ」と書いてある。だからといって食事を用意していかないのが、うちの母親だ。洗面を済ませて、冷蔵庫の補充をして、適当にお腹を満たして、再びレシピの翻訳を始めた。そうしているうちに、異世界だ。

ただ、いつもとちがうところは、異世界に移り変わると同時に、すぐ見知らぬ人々が入ってきたことだ。

相手は人間じゃない。でもわたしたちの世界と似たルールで生きる人々だ。だから内心びくびくしながらも、あくまでも外面は堂々と「ただいま休業しているのですが」と申し出てみた。すると、だ。

「だけどもシャルマンの旦那が大丈夫だと云っただ」
「んだんだ」

そうして止める間もなく、テーブルに着席する。わたしは憤慨したけど、またもや京都弁の契約農家さんがシャルマンの伝言と共にやってきたのだ。

いわく、

「味に厳しい八大諸侯を満足させたのだ。ただ、アヴァロンの料理を懐かしんでいる輩を満足させるなど造作もないだろう? おまえの料理をふるまってやれ」

挑発ですか、そうですねっ? でもそんな挑発に乗るほどわたしは子供ではありませんよーだ、と云い返してやりたくても、シャルマンはこの場には現れず、お客さまは料理を待ち続ける。わたしは負けた。料理を作ることにしたのだ。昨日は二人だったけど、今日は一人。だから不安はある。

でも、ね。
料理を期待して待っていただいて、応えられないなんて、料理人志望失格じゃないか。

だからわたしは腕を振るうことにした。契約農家さんが届けてくれたのは、昨日と同じ食材だ。
メニューは昨日の品に限定して、料理することにした。

「おお、この味。懐かしいねえ、アヴァロンの味だ」
「お嬢ちゃーん、もう一皿頼むよ」
「かしこまりました!」

さいわいにも、わたし一人で調理した料理は好評をいただいている。安心しながら、でも、抵抗がないとは云えない。おばあちゃんのレシピだし、味見もしている。でもわたし自身はゆっくりと味わっていない料理なのだ。昨日は食事会としては成功していた、でも向上の余地がないなんて思わない。

もっともっと研究したかった。どうしたらおばあちゃんの味になるのか、工夫を凝らしたかったのだ。

もっともそんなこだわり、お客さまには関係ない。次から次へと注文がやってくる。羽が生えていようが、体の一部が獣であろうが、旺盛な食欲は変わらない。中には浮かれて歌いだす人もいる。お酒は出していないはずなのになあ、と思ったけれど、お客さまが喜んでいるさまはやっぱり眺めていて嬉しい。

からんと扉が開いた。いらっしゃいませ、と云いかけたわたしは目を見開く。腰に手を当てた。
ようやく待ち人がやってきたのだ。

「おお、シャルマンの旦那。楽しんでいますぜ」
「酒が飲めないのが残念でさあ」

椅子に腰かけている人が、カウンターに向かうシャルマンに次々と声をかける。シャルマンは余裕ある表情でそれらに答える。ずいぶん、気さくな様子だ。それに慕われているんだな、という感覚も抱いた。

(まあ、わかる気もするけど)

これまでにシャルマンがわたしに対して導いてくれたあれこれを思い出していれば、カウンターにたどり着いたシャルマンが微笑んでいつもの言葉を云う。

「エマの血統。精進しているか」
「おかげさまでね!」

そう云って、ミネラルウォーターを注いだグラスを出した。ふ、と美麗な微笑みを浮かべて、スツールに腰かける。隣に座っている男の人が、かつんとグラスをぶつけてくると、微笑んでぶつけ返した。

心から楽しそうだ。そんな様子を眺めてしまえば、ぶつけてやろうと思っていた文句も口の中で消えた。

「なにか云いたいことがあったのではないか」

悪戯っぽく瞳をきらめかせたシャルマンが問いかけてくる。まあ、悪くない感触なのだ。これで文句を云うなんて、ぜいたくすぎる。いいや、罰が当たっても不思議はない。
だから。

「最高の心遣いに、感謝の言葉も見つかりません」

そんなことを云ってやった。くすり、シャルマンは愉快そうに笑声を響かせた。グラスに唇をつける動作を見ながら、手は素早く動かしている。昨日と同じ料理なのが申し訳ない。でも彼に気にした様子はない。優美なしぐさでフォークとナイフを扱う。表情は穏やかで満足そうなものだから安心した。

「お嬢ちゃん、勘定を頼むよ」

気が付けば、カウンターの橋、レジのところに並んでいる人がいる。慌ててわたしはそちらに向かった。さっきまで見かねた契約農家さんが対応してくれていたのだけど、彼はもう帰ったのだ。だからわたしが頑張らなければならない。さいわい異世界のお金事情は教えてもらっている。

「いやあ、おいしい料理だった。名高いフィンコリーの料理にも負けていないぞ、お嬢ちゃん」

フィンコリー? 初めて聞く名前に首をかしげると、なんだい知らないのかい、と言葉が返ってくる。
ええ、なにしろ異世界の存在を知って一か月もたちませんから、と眉を下げれば、おかしかったのか、お客さまは笑い出しながら教えてくれた。

「東のご領主が経営するレストランさ。東のエクレールさまは食道楽でね、まだ歴史は浅いが、別世界の食事を食べさせてくれるという評判がある」

ははあ。異世界三ツ星レストランということかな。

さとったわたしはあわてて首を振った。いくらなんでも自分の料理が三ツ星レストラン級だとは思えない。なによりわたしは料理人志望だ。素人に草が生えたようなものなのだ。

「謙遜は必要ねえよ。……愉快だった、ありがとな」

そう云ってお客さまは立ち去っていく。そういう高級レストランに行くお客さまも来てくれたのか、と思えば、やはりたじろいでしまう。アヴァロンの名前は、それほど大きいのだ。おばあちゃんは偉大です。その想いを新たにしながら、わたしは並んでいるお客さまの対応に戻った。

「そういえばおまえに渡したいものがあるのだ」

シャルマンがそんなことを云いだしたのは、お客さまの大半がお帰りになったころだ。
カウンターでお皿を拭いているわたしに、懐から取り出したものを渡す。

(?)

手を拭いて、それを受け取る。それは手紙に見える。表面に書いてあるのは、流れるようにうつくしい文字だ。ただし、達筆すぎて読めない。というか、それ以前によくよく眺めれば、これは英語ではないようだ。

それはそうか。忘れそうになるけれど、シャルマンは異世界の住人だ。彼が差し出す手紙は、当然、異世界の文字で書いてあるに決まっている。

「悪いけど、読んでもらえるシャルマン? こちらの文字は、わたしには読めないの」

お願いすると、眉をあげる。それでも不満を云うことはなく、がさがさと封筒を開いた。中から現れたのは、繊細なレース飾りのあるカードだった。カードから漂う上質感にたじろいでいると、「エクレールからの招待状だ」とそっけなく告げてくる。

「簡単に云えば、先日の食事会の礼に、わたしとおまえを城に招待したいということだな」
「え? でもエクレールさんはひと口も食べていなかったよね?」

だから、と、金と翠の瞳に皮肉な笑みを含む。

「模範的な料理でもてなしてくれるということだろう。わたしだけではなく、おまえまでも招待したのはそういう理由だな。まったく、ありがたいことだな」

そう云いながらも、シャルマンは不満そうだ。

でも、と、わたしは興味を惹かれた。こちらの模範的な料理とやらを食べてみたい。わたしたちと似た味覚の持ち主なのだ、いくら異世界でも突飛なものが出てくるとは思わない。それよりこちらの食材をどのように扱っているのか、今後のためにも知っておきたい。

だから招待を受けたいと思うけれど、ためらいが強い。理由のひとつに、これまでアヴァロンから出たことがないことがある。気軽に招待していただいているけど、その、エクレールさんの城は遠い場所にあるのではないだろうか。一日で戻ってこられるのかなあという不安がある。第一、母さんが許可してくれるか、という疑問もあったし。

そして理由のふたつめに、シャルマンの様子だ。

昨夜の食事会にも思ったことだけど、なんだかシャルマン、エクレールさんに対して思うところがあるようなんだよね。そっけないというか、冷たいというか。いま、目の前で眉を寄せている表情を見れば、気のせいではないとわかる。エクレールさんの招待を受けると云えば、シャルマンも受けるだろうし。となれば、迷惑なんじゃないかな、と考えてしまうのだ。

「それで、エマの血統。おまえはどうしたい?」

ちらりと視線を流して、シャルマンは問いかける。
ためらいを覚えた。新しい料理、こちらの世界の模範的な料理を、わたしは知りたい。でも。

「――シャルマンはどうしたらいいと思う?」
「わたしはおまえの意向を聞いているのだ。わたしの意思を訊いても仕方ないだろう?」

もろもろの感情をこめて問いかければ、シャルマンはそっけなく云う。それもそうか。それにここまで云ってもらえるなら、思った通りにしてもいいのだろう。

「母さんが許可するかどうかわからないけど、――わたし自身は、行ってみたいと思う」
「そうか。ではそのように返事をしておこう」

盛大に渋るか、という予想に反して、あっさりと言い放ったシャルマンは、さらに言葉を続けて、一日の内で行って戻ってこられると付け加えた。わたしのためらいなど見通していたらしい。そして身を乗り出して、訊ねてきた。

「おまえの母、ということは、エマの娘だな? いま、〈あちら〉に来ているのか?」
「あ、うん。東條さんのこととか、アヴァロンのこととか、処理するために来ているんだけどね」
「会えるだろうか」

期待を込めて見つめる眼差しに、母さんを思い出した。シャルマンに対し、何か思うところがあった様子の母親だ。さらにいまを顧みれば、異世界に巻き込まれたくないばかりに、他の場所に滞在している。それを思えば、会えない、と云うべきかもしれないけれど――。

「たぶん」

わたしはそう答えていた。シャルマンは嬉しそうに笑う。
イエスと応えるべきだ、という直感に従ったのだけど、さてどうなるだろう。

「ただいまっ」

威勢のいい声が、扉を開けるなり弾けた。母さんだ。もうこの時間にはお皿を洗って証拠隠滅していたから、わたしには動揺すべき理由はない。また、知られたら知られたで、という状況も考えていた。

「おかえりー。お早いお帰りで」
「なによ。厭味のつもり? あいにくですけどね、通じないわよ。一晩中話して、すっきりしてますからね」

云いながらカウンターに入り、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターをグラスに注いで、グイッと飲む。そうしてひと息ついたから気付いたのか、ようやく母さんはスツールの上を見て眉をしかめた。

「ちょっと橙子。どうして猫がここにいるのよ?」
「猫ではない」

わたしが口を開くより先に、そう主張したのはその、猫だ。こちらの世界に留まると決めたシャルマンは、夜明け前にこの姿になったのである。……いまさらだと思うんだけどね、わたしなんかは。ちらりと母さんをうかがう。見事に硬直していた。やっぱりなあと思って眺めて、一秒、二秒、三秒、あ、動いた。

「……橙子。こちらの方は?」

硬直した表情のまま、問いかけてくる母さんの声音にひやりとしながら、わたしは口を開こうとする。と、シャルマンが前脚をあげて、言葉をさえぎった。

「名乗りならば、自分で行おう。わたしはシャルマン。<あちら>の世界において、西の領地を預かっている。伯爵と呼ぶ者もいるが、それはあくまでも便宜上だ」
「……あなたが、シャルマン?」

ああ、母さんはシャルマンを知らなかったんだな。

言葉を絞り出した母さんは、なんというか、珍妙な顔をしていた。怒りだしたい表情じゃない。なんというか、予想が外れてしまった、という表情だ。眉を寄せて、唇がわずかにとがっていて、――うわ、面白い。母さんのこんな表情を初めて見る。子供じみた表情。

「そうだ。あなたの母君の料理のファンだった」

シャルマンはいつもの調子で言葉を続ける。

母さんの顔がゆがむ。母さんの表情の変化に気づいてないとは思わないんだけど、それでシャルマンの様子が変わることはない。だからなのか、母さんも深い呼吸を繰り返して、平静を取り戻したようだ。ちょっと眉を持ち上げて、わずかに震える声で皮肉を云う。

「そのわりにはずいぶん、足が遠かったようですわね? 生前の母は、あなたの訪れを待っていたようですけれども」

ぴんと立っていた耳が、しゅん、と垂れる。

「……そうか」

いまのシャルマンは、人間の姿よりも、ずっと感情の起伏がわかりやすくなっている。だから落胆もあらわな彼に手を伸ばして頭を撫でたい衝動を抑えた。でもとりあえず母さんの分も紅茶を淹れることにした。立ち話も微妙だろう。そっと身動きしたら、母さんの視線がこちらに向いた。

「また、<あちら>の方々と接触したの?」

予想したよりもそのまなざしには怒りの気配はない。

それでも静かな気配に身構えながら、わたしは頷いた。溜息がひとつ。沈黙したまま、母さんはカウンターを出る。シャルマンの隣に腰掛けた。

「申し上げにくいのですけど、わたくしは、このアヴァロンの閉鎖を考えております」

ほとんど初めて聞くほど、おごそかな声音だった。
わたしの肩が揺れる。シャルマンの耳がぴんと立った。母さんは淡々と言葉を続ける。

「血統に伝わる義務を放棄する、その意味を理解しておりますが、わたくし自身は、こちらの<門>はもはや不要だと考えております。ですから、いかなる代償を支払おうとも、アヴァロンを閉鎖したいのです」

代償?

言葉に出てきた、思いがけない言葉に眉をひそめる。<門>という言葉も聞いたことはないけれど、でもそちらは大体想像できる。だからそれより違和感を覚えるのは、代償、という言葉だ。なんだか、――このアヴァロン自体が、与えられた恩恵のような響きがある。

そう、わたしたちに。わたしに続く、家系に。

「必要か否かを論ずるのは、そなたの役目ではない」

シャルマンの声が、きっぱりと響いた。
カウンターに前脚を置いて、しゃんと上半身をのばして母さんに向き合う姿は、なんだかおとぎ話のようだ。
でもおとぎ話に似合わぬ調子で言葉を紡ぐ。

「義務を放棄する、その意味を理解している。ならば」

くい、とその前脚をわたしに向ける。

「その代償として、娘を差し出す覚悟もあるか?」

ぴくりと母さんの眉が動いた。思わずわたしは自分を指差す。わたしが代償になる。その言葉の意味が脳に沁みて、思わず呟いてしまった。

「わたし、イケニエになるわけ?」

何とも云い難い、沈黙が落ちた。

云ってしまってから、しまった、と思ったのだけど、じろりと母さんが睨んできたのだけど、曖昧に笑ってごまかすしかない。くすりとシャルマンが笑った。

「そうだな。そう考えてもらっても構わない」

シャルマンは軽い調子で云って、気色ばんだ母さんに視線を戻す。今度、皮肉を云うのは彼の方だ。

「いかなる代償を支払うと云った。それなのに、娘を差し出す覚悟が出来ていないとはどういう理由だ?」

ぷるん、と尻尾が揺れる。

「そもそもアヴァロンを閉鎖すると云うことだが、それはあくまでもおまえ個人の理由だ。おまえに連なる血統は、誰ひとりとして納得するまい。<死>を迎えたおまえの母親、祖母、曾祖母、そしておまえの娘もな」

はっとしたように、母さんはわたしを見た。
口を開いて、でも結局、噛みしめるように唇を閉じる。

たぶん、このアヴァロンを受け継ぎたがっていた、過去のわたしを思い出しているんだろう。だから黙ることにした。確かにわたしは、このお店を自分のものにしたいんだもの。この食堂の、料理人になりたい。自覚したばかりだけど、その欲望に揺らぎはないのだ。

「理解しているの?」

囁くように、やがて、母さんは云った。
最初は誰に向かって云っているのか分からなかったけれど、その視線はわたしを向いていた。

「この、アヴァロンを受け継ぐ、という意味を」

ぱちぱちと目を瞬いて、わたしはさらりと笑った。

「理解していないよ、もちろん」

するとシャルマンが面白がるようにわたしを見る。
だってねえ、嘘はつけないじゃないか。

いまのやり取りで、アヴァロンを受け継ぐ、ということは思っていたよりも、大きな意味があるのだなあと気づいた。さすがに、気づかされた。

でも気づいたからと云って、わたしの欲望に陰りはない。だからこそ理解していない、そう責められたとしても仕方ない。

ただし云わせてもらうなら、理解できていないのは、母さんの説明不足が原因だと思う。

イギリスに向かう前に説明しておけばよかった? いいや、おばあちゃんが亡くなったとき、わたしがアヴァロンを継ぎたいと云ったときに、母さんは説明するべきだったのだ。誤魔化すように東條さんを、おばあちゃんのお弟子さんを後釜に据えるのではなく。

娘なのに、生意気なことを想っている、自覚はある。
だからわたしは黙っていた。口に出したら、間違いなく口論になることはわかりきっている。
理解していない。そうとしか、いまのわたしに云える言葉はない。

「アヴァロンの閉鎖は認められない」

代わりに、――というわけでもないけど、シャルマンが言葉をはさんだ。母さんは沈黙したままだ。

「陛下がお休みになられているいま、物事の決定権は我ら八大諸侯にある。ことがことだ。八大諸侯全員の同意が必要だが、それは得られないだろう。なぜなら」

にやり、と、猫の顔が笑いを含む。

「西南を預かる領主が、その地位を埋めていない」

そういえばこの間の食事会に集まったのは、七人だった。八大諸侯、というには、一人、足りない。

(つまり)

母さんの要望を叶えるには、ただ、アヴァロンを閉鎖するだけではなくて、八大諸侯「全員」の了承が必要になる。でもその八大諸侯の一人は、どういうわけか、存在しない。だから「全員」の了承は得られないことになるから、アヴァロンの閉鎖は認められない、ということか。

頭の中でその事実を噛み砕いて、わたしは安堵していた。これでアヴァロンの閉鎖は遠ざけることが出来る。そうしたら、わたしの望みがかなえられる確率がグーンと高まる。母さんに悪いけれど、安心した。それが正直な気持ちだった。

「……詐欺みたいな話だわ」

ぽつり。母さんはそう云って、頭を振りながら立ちあがった。シャルマンを見下ろす。呟くように告げた。

「わたしがアヴァロンを閉鎖したいのは、あなたが理由なのよ。シャルマン伯爵」
(え?)

思わず耳を疑ったけれど、母さんはそれきり何も云わない。からんと扉を開けて、どうやら居住部に向かったようだ。

シャルマンは沈黙している。わたしは混乱しながら、母さんのために淹れた紅茶を見下ろした。
ゆらゆらと揺れる紅茶色の水面に、ぼんやり頼りない表情を浮かべた、わたしが映っている気がした。

ロンドンを歩けば、公園に当たると云う。つまりそれくらい、この街には一般公開されている公園が多いのだ。ロンドンっ子は、犬の散歩やデートを公園で行うらしい。

だからわたしも、今日はお弁当を作って出かけることにした。もちろん一人じゃない。猫姿のシャルマンを強引に連れ出している。彼はわたしに抱えられることに抵抗したが、その方がはぐれないし合理的だと告げたら、しぶしぶ妥協して大人しくなった。

まあ、ね。
人間化しているシャルマンを思い出せば、その抵抗にも納得できる。本性は成人男子なのだから、わたしのような小娘に抱えられたくないのだろう。

――イギリスの夏は、とても気持ちいい。

少なくとも日本のようにじめじめした感触がない。気候の違いだろう。陽射しは確かに暑いのだけど、カラッとしているおかげか、通り過ぎる風が本当に肌に心地いいのだ。かごを持って猫を抱いて、うっすらと汗をかいているのだけど、時折、爽快な風が通り過ぎていくから、たいした労働とも思えない。

「エマの血統」

わたしの右腕に抱えられたシャルマンは、肩に前脚を置いている。そのまま耳元に囁いてきた。

「どこの公園に向かっているのだ?」

そう訊いてきたのは、わたしがきょろきょろと道路標識を見ながら、足を止めたりしているからだろう。観光ガイドは置いてきた。だって行きたい公園は、適当に走って行った先にある公園だからだ。

「おばあちゃんの知り合いがいる公園」
「エマの知り合い?」

ぴんとひげが動いてくすぐったい。やっぱりシャルマンはおばあちゃんのことが絡むと、いちばんわかりやすく反応するなあ。そんなことを思いながら、青になった横断歩道を渡る。たしかこの角を右に曲がったところに、あの公園はあったはず、……よし。

あの日、感情的になって飛び込んだ公園は、比較的小さい方になるのではないだろうか。有名なロンドンの公園、たとえばハイドパークやリージェントパークのように、イベントが催されている様子はない。

それでも整えられた人工池があり、豊かな緑がある。わたしは舗装されていない道を通り、あの日の泉に向かった。さいわいにも、ほとりのベンチは空いている。シート代わりにハンカチを広げて腰掛ける。

かごを開いて、お弁当ボックスを取り出した。中身はサンドウィッチだ。きゅうりとハムのサンドウィッチ、ふわふわ卵のサンドウィッチ、それから果物をはさんだサンドウィッチをつめ、さらにポテトサラダやアイスティーを持ってきている。居住部のリビングにも同じものを作って置いてきたけど、母さんはちゃんと食べるだろうか。ノックをしても返事がないから、メモを残してやってきたのだけど。

――わたしがアヴァロンを閉鎖したいのは、……。

母さんを思い浮かべたからだろう。連鎖的に、朝に聞いた言葉を思い出した。その言葉を聞いたときには、ただ否定的なニュアンスを感じ取っていたのだけど、いまとなっては少しばかりおかしいと感じてる。

なぜなら母さんはシャルマン自身を知らない様子だった。

それなのにアヴァロンを閉鎖したいのはシャルマンが原因だと云う。
それは矛盾じゃないだろうか?

シャルマン自身は沈黙している。問いかけても無駄だと云うことは、ひしひしと伝わる空気で感じ取れた。というより、彼自身も心当たりはないんじゃないかな。そういうニュアンスがあった。

ともあれこういうときは、事情を知っているかもしれない人に話を聞くしかないじゃないか。
そう考えたわたしがやがて閃いたのが、ここ、この公園にいる、あの幽霊さんだったと云う次第だ。

でも、どうしたらいいのかな。

わたしはお弁当ボックスを広げて、ぽつん、とベンチに座っている。隣に移動したシャルマンは、不思議そうにわたしを眺めている。他人が通り過ぎるかもしれないからね、うかつに声を出せないんだ。でも状況が許せば、間違いなく問いかけてきたに違いない。

とりあえず。

「幽霊さーん」

泉に向かって呼びかけてみた。昼の太陽光にきらめいて、綺麗な泉だと思う。遠くにボート乗り場が見える。後で乗ってみようか。そんなことを考えながら、もう一度呼びかけてみる。

「幽霊さーん、いらっしゃいますかー」

みゃあ、と、隣から鳴き声が聞こえた。視線を向ければ、シャルマンが前脚をわたしに伸ばしている。抱きあげろ、ということだろうか。腕を伸ばして抱き上げたら、たちまち、叱りつけるような言葉が聞こえた。

「エマの血統。おまえ、なにをしたいのだ」
「だからおばあちゃんの知り合いである幽霊を呼び出そうとしているんだけど」
「幽霊?」

シャルマンは呆れたようだった。

それでも泉を振り返り、じっと水面を見つめた。珍しい金と翠の瞳が、神秘的にきらめく。「なるほど」、しばらく見つめていた彼は、そう呟くとわたしの腕から飛び降りた。右、左を素早く見回して。

「っ、シャルマン!」

わたしは思わず声をあげていた。
しゅるん、と。
ほんのわずかな時間で、彼は猫の姿から人間の姿に変身したのである。ああ、それで右左確認していたのか、と頭の隅で納得しながら、わたしもまわりを見まわした。こちらを注目している人はいない。でも人の姿がないと云うことではないのだ。もし見られていたら? そう考えると、心臓がどきどきと音を立てる。

「心配はいらない、エマの血統」
「そうはいうけどねえっ」
「それより、わたしの気配に惹かれたようだぞ?」

すっとシャルマンは水面を指差す。はっと振り返れば、ふうっと空気が揺れ、女性の姿を浮き彫りにした。
水の精霊のような、透き通った存在感のひとだ。

「思い切ったことをしますね、異界のお方。あのエマだとて、ここまで大胆なことはしませんでしたよ」

涼やかな声が、波紋のように耳に伝わる。
再びわたしはあたりを見回した。だってこんな非日常、見咎められたら困る。すると軽やかな笑声が耳に届いたものだから、彼女を振り返った。

「忘れたのですか? わたしの姿を見ることが出来るのは、あなたのような人だけ。この公園ではあなたとそちらの方にしか、わたしは見えておりませんよ」

そういえば、そうでした。

指摘されて、ようやく思い出したわたしは、ゆっくりと彼女に向かい合った。
しかし非常識な人だ。朝から出没するような幽霊だと知っているけれど、まさか真っ昼間から、それも異世界の住人に反応して出没するなんて、幽霊の常識に反してるんじゃないだろうか。

「それで、わたしになにかご用ですか?」

彼女はまっすぐにわたしを見た。不思議な感覚だ。空気に透き通りそうな人なのに、空気を伝って、見られている、ということがはっきりわかる。呆れているらしい、彼女の感情までもだ。たはは、と誤魔化し笑いを浮かべたけれど、状況は変わらず、だからこほんと咳ばらいをして、わたしは彼女に問いかけた。

「あなた、わたしのお母さんを知っている?」
「いいえ?」
「……そう」

さあ。あっさり計画は挫折したぞ。

乾いた笑いをもらして、わたしはうなだれた。傍に立つシャルマンが、ほう、とため息をついている。呆れ果てた、と云わんばかりの様子だ。

やっぱり無謀だったなあ。母さんの友達に訊いた方が早かったかもしれない。でもことはアヴァロンの秘密に関わることだもの。昨日の母さんの剣幕を思い出せば、真相を探りだせるとは思えなかったんだよね。

「エマの血統。エマの知人を呼び出して、おまえは何を訊きたかったのだ?」
「だからね、母さんがシャルマンに対して、態度が変だった理由を知りたかったの。おばあちゃんの知人だし、愚痴とか聞いていないかなあと思ったんだけど」
「……シャルマン?」

ざざ、と水面が揺れた。ざああ、と風がいっそう吹いたような揺れ方に、水面に立つ彼女を振り向いた。
そして、目を見開く。

彼女の様子が一転していたのだ。どこかおっとりとしていたのに、いまや、なんだかおどろおどろしいものになっている。ふわりと髪が揺れる。風だ。急に強い風が吹き始めて、がたがたとベンチが揺れる。カモフラージュ用の弁当がこぼれそうだ。

「あなたが、シャルマンなのですか」

陰々と響く声が、そう告げる。

ちらりと見上げれば、シャルマンはかすかに眉をひそめているだけだった。彼女の変貌に、まったく心当たりがなさそうでもある。だめだこりゃ。心の中だけで呟いて、わたしは立ち上がった。すすす、と直感にしたがって、シャルマンの前に立つ。

「エマの血統っ!?」

危ぶんでいるような、そんな呼びかけが聞こえた。

でももうそれどころじゃない。彼女から攻撃的な空気が伝わってくる。わたしにというより、明らかにシャルマンに向けた意志だ。剣呑な刺々しさが漂う。

(まったく!)

なにがどうなっているんだ。わたしは無性に問いかけたい気持ちだった。
正直に云えば、シャルマンに。

彼には心当たりがないようだけど、母さんとこの幽霊のひと、まったく接点がない2人が共通して、似た反応を示している。だとしたら、やはり原因はシャルマンにあると考えるのが自然じゃないか。そんなことを考えながら、真っ向から幽霊のひとを見つめた。ふっとその気配が揺れる。

「その人を庇うのですか、……エマ」
(っ)

思いがけない呼びかけを受けた。わたしをエマと、おばあちゃんと見誤った?

ばたばたと髪が揺れる。その合間から幽霊のひとを見つめると、ぶわっ、と吹きつけてくる風が強くなった。はたはたと服が音を立てる。がたーんとベンチが倒れる音がする。ああ、せっかく作った弁当が台無しだ。そう考える余裕は、次の瞬間、すっと消えた。

「「「二度とわたしの前に現れるな、シャルマン!!」」」

きぃいんと鼓膜に何重にも響き渡るような声で、彼女はそう叫んだのだ。
怒りのような、哀しみのような。

……気が付けば、すっかり元通りに戻っていた。

消えうせたかと感じていた太陽光がさんさんと水面にきらめき、さらさらと心地よい風が頬を撫でる。彼女が現れる前の、心地よい公園の風景だ。ただ、惨状は変わらない。ベンチは倒れ、せっかくのサンドウィッチは草にまみれている。まだ食べてなかったのに。そう思いながらも、わたしは背後に立つ人を振り返った。すらりと立つシャルマンは、わたしを見てほっと息をついた。

「ねえ。シャルマン、なにをしたの?」
「……さあ。心当たりがない」

額にかかる髪をかきあげながら、シャルマンは平然と応える。まったく神経の太いひとだよ。今度はわたしが呆れながら心の中で呟いた。

これだけの怒りを向けられながら、髪一筋ほども動揺していない。それどころか、落ちた弁当ボックスを覗き込んで、眉をひそめているありさまだ。断言してもいい。いま、彼の中では、幽霊さんの怒りより、落ちたサンドウィッチの方が大きな問題なんだ。そうに決まっている。

こぼれそうなため息をおさえつけ、わたしはしゃがみこんで食べられなくなったサンドウィッチを拾い上げた。ああ、もったいない。でも惜しいと云う気持ちはあまりない。むしろ計画以上の収穫だったと感じる。

――シャルマンは、なにか、したのだろう。

それがなにか分からない。でも母さんはアヴァロンを閉鎖したくなるほどの想いを抱き、幽霊さんはこれほどの怒りを抱いている。それでなにもしていないとはいくらわたしでも信じられない。でも、なにを?

うろうろと考えて、ふっと唐突に気付いた。

母さんと幽霊のひと。共通するのは、生前のおばあちゃんを知っている、ということだ。

(あ)

鏡をのぞき込んで、はねている髪に気づいた。

わたしの髪はストレートのボブカットだ。まっすぐで面倒がないようだけど、実は毛先だけがくせ毛なのだ。その毛先がひとすじ、逆方向にはねている。ワックスを使ってもこうなのだ。だから考えて、結んでしまうことにした。肩までの長さだけど、髪飾りを使えばまとめることができる。

それにそちらの方が、いまの格好に似合う気がする。レース模様がついたワンピース、仮にもご領主に招待されているのだから、おしゃれをしないと、と、着替えたのだ。髪をまとめることはあっさりと出来た。寝室を出て、ためらって、母さんが休んでいる部屋の扉をノックする。まもなく異世界になる。それなのに、母さんは部屋から出てこない。

(寝ているのかな)

サンドウィッチは片づけられていた。食べてくれたんだ、とそのことにはほっとした。でもそれ以降、母さんは部屋から出てこない。なにか思いつめているんじゃないだろうか。そう考えたけれど、わたしには何も云えることはない。

「母さん?」

ノックの合間に呼びかける。もしかして眠っているんだろうか。そう閃いてしまえば、これ以上ノックすることもためらわれる。半端な気持ちで手を下ろして、踵を返した。すると背後で扉が開く音がする。

「橙子」

ようやく姿を現した母さんに、ほっと息を吐いてわたしは駆け寄った。眠っていたのだろうか、スウェット姿で、化粧気もない。でも表情はいつも通りで、それが安心させてくれた。

「どこかに行くの?」
「……異世界の、ご領主の城にね」

ためらってしまったけど、嘘をつくつもりはない。

そう、と呟いて、母さんはわずかに苦笑した。あ、いつも通りだ。改めてそんなことを想う。怒りのあまりにハイテンションになることもなく、落胆のあまり憔悴した様子もない。すっかり落ち着いている様子にわたしは唇をほどいた。母さんは指を伸ばして、わたしの髪に揺れる。

「髪、まとめたのね。お嬢さまに見えるわよ」
「いつもはどういう風に見えていたんですかー」
「云わぬが花というところね。いってらっしゃい」

無駄なことは云わない。そんな母さんに、そんな母さんの許容の態度にこそ、わたしは拒絶されている心地になった。これ以上踏み入れてくれるな、訊いてくれるな、という無言の要求を感じ取ってしまって、わたしは何も云えないまま、居住部を出た。とんとんと階段を下りて、アヴァロンの扉をからんと開く。紅茶を飲んでいたシャルマンが振り向く。

そして、目を見開いた。

がちゃんとティーカップを乱暴に置いた。そしてスツールから滑り下り、茫然と立ち尽くす。あとはただ、わたしを見つめるばかりだ。いつも落ちついている彼の、珍しい様子に、戸惑ってしまう。

「シャルマン?」

呼びかけると、はっと我に返ったようだった。
ぎこちなくわたしから視線をそらし、それでもまた、気になったようにちらりとわたしを見つめる。どこかおかしいのかな。思わず頭に手を伸ばして、はっと気付いた。違う。そんなことで彼が動揺するはずない。

「そんなに似ている? わたしとおばあちゃん」

わずかに首を傾げて問いかければ、シャルマンは唇をくっと結んだ。そのまま何も云わない。やがて溜息ひとつもらして、わたしに歩み寄ってきた。かつ、かつ。彼がわたしの前に立ち止まった時、ぽうっ、と外からの光源に変化が訪れた。異世界になったのだ。

すっと彼はわずかに身をかがめて、腕を差し出してきた。問いかけには応えてくれないんだ。そう思いはしたけれど、なにも答えないと云うことが他でもない答えのように感じて、沈黙したまま、その腕をとった。

シャルマンがゆっくりと歩き始める。わたしは彼に従い、歩き出した。なんだか気まずい。それはレィディのように扱われているからかもしれなかった。シャルマンを別人のように感じている。

扉を開けば、そこには馬車が待っている。御者が降りてきて、馬車の扉を開いてくれる。シャルマンに導かれるまま乗り込んで、それでも彼は無言だった。

(……気まずい)

ぴしっという音がして、ゆっくりと馬車が動き始める。向かい側に座るシャルマンは、肘を馬車の窓にかけて外を眺めている。何か云ってくれよう。そう願っているけれど、何を考えているのか、彼は何もしゃべらない。本当に参った。膝の上にのせたこぶしでスカートをぎゅっと握る。思い切って口を開いた。

「あのさ」
「なんだ?」

問いかければ、ちゃんと返事が戻ってくる。それだけなんだけど、なんだかいたたまれない空気が破られた気がして、ほっと安心した。顔を上げれば、シャルマンは外を見たままだ。違和感を覚えるけれど、構うことはない。というより、気にしたら負けだ。

「エクレールさんの城まで、どのくらいかかるの?」

ちらりとシャルマンが笑う。

「すぐだ。途中で馬車を乗り変えることになるが」
「だからどのくらい、すぐ」
「おまえたちの基準で語るなら、30分くらいだな」

わかりやすい答えだ。

助かるけれど、わたしは不思議に思う。なんというか、シャルマンはわたしたちの世界のことに通じ過ぎていないだろうか。伯爵と呼ばれる地位にあり、八大諸侯でもある。それだけの身分にありながら、彼は何と云うか、とても気安い。ようやく戻ってきたか、放蕩者め。そう云ったサピエンティアを思い出した。

「シャルマン」
「なんだ?」
「もしかしてシャルマンは、<こちら>にいるより、<あちら>にいる方が長いの?」

外の景色からようやくわたしをかえりみた彼は、面白がるような様子で口を開く。

「なぜ」
「わたしの世界のことに詳しいから」
「それならもっと、アヴァロンに姿を見せていたと思わないか」

そう云われてみれば、そうだ。
それでも納得できない想いで首を傾げていると、シャルマンはゆっくりと手袋を脱いだ。すらりと綺麗な手が現れて、思わずドキリとする。けれど手のひらを見せつけられて、わたしは目を見開いた。

そこには焼き印があった。初めて見る、複雑な紋様だ。お星さまに似ているけれど、でも一部分、大きく傷が入っている。それが複雑な紋様を台無しにしていると云うことは、初めて見るわたしにも明らかだった。

「わたしは、この魔法陣の影響下にある」

魔法陣?

「これはこの時空にわたしを留める魔法陣だ。ところが魔法陣がこのように傷を負っているために、わたしは時空的には不安定な存在でもある。わかるか?」
「わからない」

あっさり云ってのけると、シャルマンは苦笑する。

「おまえは本当に、容赦なく事実を告げるな」
「わからないことは、わからないって云うしかないじゃない。わかってないのにわかったふりをする方が問題でしょう?」
「まあ、いい。――つまり、だ。この魔法陣がてのひらにあるからこそ、わたしは唐突にこの世界から他の世界に移動することがあるということだ。それはおまえたちの世界やこちらの世界に留まらない。過去や未来、さまざまな世界に、変則的に移動する」

ぱちぱちと目をまたたいて、わたしはその言葉を理解しようと努めた。なんとなく、わかった気もする。けれどうまく消化できない。頭の中で繰り返す。

シャルマンはこの損傷している魔法陣の影響下にある。だから唐突に、さまざまな世界に移動してしまう。……。ええ、それって!

理解した瞬間、ざっと血の気が引く想いがした。

「じゃあ、シャルマン。もしかしたら明日、いなくなる可能性が高いってこと?」
「いまのところは、その可能性は低い。だが」

いったん言葉を切って、元通りに手袋をつけたシャルマンは苦く笑う。

「エマに出会った頃はそうだった。だからエマと、また来る、と約束した翌日に、移動してしまった」
「そして、戻ってきたのが、ついこの間だったんだね」

おばあちゃんが、亡くなった後だったんだ。

シャルマンは無言のまま頷く。明かされた事実に、わたしは言葉を失っていた。正直に云えば、痛ましい。さらりとシャルマンは話してくれたけれど、それはものすごく寂しいことじゃないだろうか。また来よう。何気なく交わした約束が、この魔法陣のために破られ、戻ってみたらその約束の相手は亡くなっていたなんて。

わたしなら、いやだ。そんな状況、絶対にいやだ。

重いものを背負っていたんだなあ、と、シャルマンを見つめると、彼は微笑を浮かべてわたしを見ていた。

「だが、エマの血統が続いていたことは望外の喜びだ。約束を果たすことはできなかったが、あいつが作る料理に似た味を、楽しむことが出来る」

こう云われたときの、わたしの気持ちがわかるだろうか。

シャルマンは微笑んでいる。それがなんとも云い難い、表情なのだ。大雑把に分類するなら、喜びの表情と云ってもいいだろう。けれどにじみ出るものが、分類を複雑なものにする。僥倖。わたしたちが当たり前に受け止めている何気ないことすら、そのように感じて喜んでいる、ささやかでいじらしい微笑なのだ。

(おばあちゃん)

心の中で思わずわたしは呼びかけていた。答えなんかない。あるはずがない。でも呼びかけずにいられなかったのだ。

憧れてやまない、わたしのおばあちゃん。

(シャルマンのこと、どう思ってた?)

おばあちゃんにとって、シャルマンはどんな存在だったのだろう。ただ、料理を食べに来てくれる人? それとも、もっと近い人だった? あるいはずっと親しく、友人のように、大切に想っていたのだろうか。

――そうだったら、いいのに、と感じた。

そんな寂しい状況に生きる人が、楽しみにしているものがおばあちゃんの料理だと知って、やはり誇らしくもなる。でも同時に、シャルマンに感情移入しているわたしがいて、おばあちゃんもシャルマンの訪れを楽しみにしていたらいいのに、と考えたのだ。

ただ、料理人とそのお客さまという関係ではなく。

もっと心に響く関係だったら、もっともっとお互いに想い合える関係だったら――でもそれは、現状を思い出せば、とても切ない仮定だろうか。

「ああ。じきに乗り換えるころだな」

外に視線を戻したシャルマンがそう云って、わたしの物想いは中断された。事実、馬車はゆるやかに止まる。従者が扉を開くと、ぷんと潮の香りが漂った。

海だ。

馬車から下りて、胸いっぱいに空気を吸い込む。夜だからか、目の前に広がる海は、まるで鏡のようだ。深い闇色の鏡に、月と星の輝きが反射している。でもよくよく見れば、ぽうっと見慣れた、街で見かけるのと同じ明かりがある。人がいる証拠だ。

「ではシャルマンの旦那。5ロゴー経ちましたら、迎えに参りますんで」
「ああ、頼む。エマの血統。こちらだ」

そうしてわたしはシャルマンに導かれるまま、砂浜を歩きだした。シャルマンはすっかりいつも通りで、丁重にわたしを扱うこともない。ほっと安心した。シャルマンのような、美麗な貴公子に淑女扱いされたら、戸惑うものがあるのだ。それにしてもあの態度の激変ぶりは、なにが理由だったのだろう。

(おばあちゃん、かな)

ぽうっとした灯りにたどり着くまで、まだ間がある。浜辺を歩きながら、考える暇はあった。

わたしがおばあちゃんに似ているから、シャルマンはあそこまで動揺し、態度も変わったのではないだろうか。

そう思った瞬間、唇がゆるりとほどける。それはシャルマンの中のおばあちゃんの位置を表すものであり、また、彼の微笑ましさを示すものだ。

(かわいいところがあるじゃないか)

先を歩くシャルマンを、こそっと含み笑いしながら見上げる。なにか気配を感じたのか、シャルマンが振り返った。慌てて唇を引き締めた。彼は手を差し出す。

「問題ないか? 砂に足を取られるな」

いまさらじゃないだろうか。

わたしは微笑みながら、その手を取る。エスコートしようというところは同じだけど、丁重すぎない。それが「わたし」に向けられた態度だと納得した。

さたさたと砂浜を歩く。夜だから確認できていないけれど、この砂浜には石か何かが敷き詰められているんじゃないだろうか。歩きやすい。

「シャルマン伯爵」

灯りの近くまで歩いたときだ。そう呼びかけられて、彼は顔を上げた。オレンジ色の明かりが、その人を照らしている。ほうっとわたしは感嘆のため息をついた。

きれいなひとだった。

姿かたちは異形と云えるのかもしれない。猫の頭に、人間の身体。でもちっとも恐ろしくなかった。黄金色の毛並みに、トパーズの瞳が輝いている。身体はしなやかな印象で、燕尾服に似た服をまとっていた。

「ガノス。ひさしぶりだな」
「伯爵もご健勝のようで、なによりでございます」

丁寧に一礼した後、彼はわたしに視線を向けた。

(うわっ)

温かなまなざしに据えられて、思い切り動揺した。ひげが震えて、口が開く。なめらかな低音の声だ。

「こちらがエマさまの血統の方ですね。ようこそいらっしゃいました。主人に代わりまして、お迎えに上がりました、ガノスと申します」
「あ。いえ、この度はおマネキにあずかりまして、コウエイです……?」

動揺するあまり、変なあいさつになった。疑問形ってどうなのよ。

心の中で自分を罵倒していたけれど、ガノスさんは温かな雰囲気を崩さない。優美な動きで身を引いて、わたしたちを導いてくれる。シャルマンが進む。わたしは戸惑った。だって、このまま進んだら、海だよ?

でもさすがは異世界というところだ。
押し寄せる波に靴が濡れると思ったときだ。ふんにゃりと云うしかない感触が、靴底にあたった。

(え?)

なにか踏んだ? 確かにそう思った。でも足元には押し寄せる波しかない。ふんにゃり。靴下の感触がかすかに揺れる。ああ、と、わたしは察していた。

ふんにゃり、というのは、水の感触なのだ。

わたしはいま、海の上を歩いている。ふんにゃり、わずかに沈みこむような感触だけど、しっかり芯が通っていて、身体が揺らぐようなことはない。

「エマの血統。大丈夫か?」

感触が珍しいわたしはいつもよりゆっくりと歩いていた。手を引いてくれているシャルマンは、だからわたしが怖がっているとでも思ったのだろうか。足を止めて、気遣わしげに振り返った。わたしは笑う。

「ファンタジーだね、シャルマン」

やや意味不明な言葉だっただろうけど、楽しんでいる感情は伝わったのだろう。灯りを持って先を歩くガノスさんとシャルマンが微笑ましそうに唇を持ち上げる。そのまま歩くペースが落ちて、だから思い切り堪能することが出来た。

やがてたどり着いたのは、丸いガラス製の潜水艦だ。

扉から入り、閉じてしまえば、水はすでに液体だ。跳ね返って、ぴしゃんと飛沫となる。どういう仕組みなんだろう。不思議に思ったけれど、ゆっくりと潜水艦は動き出した。傾いているという意識も持たせずに、ゆっくりと海の中に潜り込む。ぷくぷくと泡がガラス越しに伝わってくる。シャルマンはわたしから手を放して、中央にあるソファーセットに腰掛けている。でもわたしは珍しいから、ガラスにくっついたままだ。

(もったいないな)

いまが夜であることが本当に惜しい。それでも期待に胸を躍らせながら、海底にあるというエクレールさんの城に向かったのだ。

まるで海底に沈む宝石箱のようだった。

闇に沈む海底に、ただそこだけが明るく輝いている。遠目から見てもそれは明らかで、近づいていくごとにドキドキし始めた。シンデレラもかぼちゃの馬車に乗って城に近づくときはこんな気持ちだったんだろうか。あるいは浦島太郎は。そんなことを思いついてしまうと、いま、自分自身が非日常の中にいると云うことが実感できてしまった。深く息を吸ってみる。落ちつこうとしたのだけど、だめだ、鼓動はおさまらない。

やがてわたしは、城の正面玄関の前に立っているひとに気づいた。華奢な姿に見覚えがある。

エクレールさんだ。豊かな黒髪を結いあげて、ほっそりとした身体に、さらりと流れる薄桃色のドレスをまとっている。髪をまとめているのは、あれは真珠じゃないだろうか。それがまた清楚なうつくしさを引き立てていて、彼女はご領主というよりお姫さまのようだった。かわいらしく、うつくしい。

「ほう。ご領主自らお出迎えとはな」

いつの間に近づいていたんだろう。シャルマンが傍に立って、ガラス扉のこちら側から小さく呟く。わたしはそんな彼をちらりと見上げた。その視線に気づいたのか、シャルマンはゆるく笑って手を差し出した。

ゆっくりと扉が開かれる。予想した通り、潜水艦に海水が流れ込むことはない。シャルマンが足を踏み出し、その手に手をのせたわたしも従う。かつ、と白い石畳に降り立って、エクレールさんを見つめた。

するとなぜだか、エクレールさんは目を見開いてわたしたちを眺めていたようだ。眼差しが合っても、その驚きを隠そうともしない。ガノスさんが潜水艦を降りて、エクレールさんに近づいた。囁く。そしてようやく彼女は我に返ったようだった。ぱちぱちと瞬いて、ゆったりと微笑む。ただ、それは少しばかりぎこちない微笑になっていた。シャルマンが口を開く。

「わざわざ出迎えていただき、申し訳ない」
「大事なお客さまですもの。当然のことですわ」

社交的な挨拶が2人の間で交わされる。さすがは地位のある人だなあと思ったけれど、シャルマンはあえて形式的なやり取りを選んでいるのだとやがて気付いた。なぜなら言葉は丁寧でも、表情がどこか空々しい。

そこまで距離を置こうとしなくてもいいのに、と思ったけれど、わたしは2人の間に起きたことを知らない。ましてやこの招待はわたしの希望によって叶えられたものだ。余計なことは云わない方がいいよね。

「そちらの方も、ようこそいらっしゃいました」

ようやくエクレールさんの視線がわたしに向かう。

わたしは口元に微笑を浮かべた。城に招かれたときに振舞う、正しい作法なんてわからない。それでも誠意を尽くそう。

「ありがとうございます。招待いただけて、本当に嬉しいです」

シャルマンから手を放して、日本式ではあるけれど、丁寧に頭を下げた。頭を上げると、エクレールさんは鷹揚に微笑んでいる。

「こちらこそお会いできて嬉しいですわ。あなたの腕にはかなわないでしょうけど、料理人たちに腕をふるわせました。楽しんでくださいませね」

……。これは、皮肉、なんだろうか?

いやいや、気のせいだろうから、と頭を切り替えたわたしの前で、ふわりとエクレールさんが動く。ゆっくりと城の中に向かっていく彼女に続いて、シャルマンも歩き始める。わたしも続いて、城の中に入った。

(ほわあ)

城の中は、意外なことだけど、とても落ち着いた内装だった。きらきらと豪華すぎることはなく、暖色系の色でまとめられている。とはいえ、ところどころに飾られた花が、女性領主が住まう城、らしいだろうか。それにしてもこの花、どこから手に入れたんだろう。ここは海の底、花なんて育たないだろうになあ。

やがてわたしたちはリビングらしきところにたどり着いた。扉が開いた途端、思わず歓声をあげていた。

そこは壁がガラスになっている部屋だった。だから外の海底をそのまま見ることが出来る。もっともいまは夜だから、それだけならこれほど感動しない。さきほどこの城を海底の宝石箱だと感じたことを思い出した。

つまりガラスの外には目にまばゆくない程度の明かりが灯されており、サンゴや岩、海草などで飾り付けされていた庭が広がっていたのだ。卑近な例えになるけれど、水族館が近いだろうか。ああ、でもそれだとこの豪奢な印象がうまく伝わらないな。なんといえばいいんだろう、海の王宮のような見事さだったのだ。

「お気に召しまして?」

エクレールさんが訪ねてきて、わたしはぶんぶんと首を上下に振っていた。誇らしそうに微笑んだ彼女に、テーブルの奥に誘われる。シャルマンの向かいだ。隣ではないことに少々頼りなさを覚えた。だってこのテーブル、本当に大きいんだもの。というか、三名しか使わないのにこの大きさってどうなんだろう。

お城のひとが椅子を引いてくれたので、腰掛ける。こちらでの作法がわからなかったから、向かい側に座るシャルマンと同じように動く。三角に折られた布を取り上げて、膝に広げる。すると奥の扉が開いて、メイドさんが入ってきた。ことんとテーブルの上に前菜を置いて、「キャヴァリーヌとウキャラの和えものでございます」と告げる。見た感じ、緑色の野菜と、白い魚が混ざったものに見える。さすが異世界、見知らぬ素材だ、と感心して、聞き逃せない違和感に気づく。

いま、和えものって云った?

思わずわたしは顔をあげてシャルマンを見上げた。ところが彼は何も感じていないようで、ワインを注いでくれたメイドさんにお礼を云っているところだった。視線を流せば、エクレールさんは微笑んでいる。

そんなに微笑み続けて疲れないのかしら、と外れたことを思ったけれど、わたしの疑問には応えてくれなさそうなので、前菜に視線を戻した。和えもの。うん、納得できる料理だ。こぶしほどの果物をくりぬいた器に入っている。フォークですくうように食べればいいのかな。正直に云えば、箸があれば便利だと思うんだけど。

「では、素敵なひとときに乾杯しましょう」

エクレールさんがワインを掲げる。わたしもシャルマンも同じように動いて、そしてワインを飲んだ。

あ、未成年だった、と思い出したのは、飲み終えた後だ。でもジュースみたいな感触だったのだ。フルーティーできりっと引き締まっていて、でもすごく飲みやすい。アルコールなんてほとんど入っていないんじゃないだろうか。空になったグラスにワインを注いでもらって、ようやく「和えもの」にフォークを入れる。小さめに切ってあるから、ナイフを使う必要がないことがありがたい。

まず、口の中に広がったのは、ふわりとした酸味だった。素材のもともとの味を知らないけれど、わたしはこれにいちばん近い味を知っている。酢だ。わずかな辛味も感じてしまって、もぐもぐと口を動かしているうちに、奇妙な気持ちになった。なんというか、日本食を食べている感じがする。ホウレンソウとタコの和えもの、と云ったら、伝わるだろうか。

「お口に合いません?」

気がつくと、エクレールさんがじっとわたしを見ていた。いけない、表情に出てたか。シャルマンもわたしを見ていたものだから、慌てて口を開いた。

「いいえ、とても美味しいです。ただ、どう料理してあるのかなあと気になりまして」
「まあ」

ふふっとエクレールさんは面白そうに笑う。さすが料理人ですのね。そう云う言葉の後に、こう続けた。

「最近、雇った料理人ですけど、少々変わっておりますの。後でお呼びしますわ」

いえ、そこまでしていただかなくても。
とはいえ、せっかくの善意をはねのける度胸はわたしにはない。ただ、大人しく礼を云っておいた。

そうして料理が次々と運ばれてくる。
食べるにつれて、わたしは違和感を強く覚えるようになっていた。
だって、なんというか、馴染みのある味が続くんだもの。
もちろん、飾りつけはレストランに出てくるような飾り付けがされている。でも、なんといえばいいんだろう。覚えがある味付けなのだ。食材は間違いなく異世界のものなんだろう、でも、味はわたしたちの世界、ううん、日本のものと変わらない気がした。海に囲まれた場所だからだろうか? だから同じような味覚があるとか。ううん、と否定する。それならイギリスだって同じ論理が適用されるはずだ。

(どうしてなんだろう)

出来るだけ表情に出ないように気をつけながら、わたしは考えていた。シャルマンとエクレールさんの会話は意外なことに弾んでいる。だからわたしはひたすら料理に集中して考え事を進めていた。

どうしてここで食べる料理が日本の味付けとここまで重なるんだろう。不味いわけじゃない、むしろとても美味しい。でもあまりにも馴染みがあり過ぎる味なのだ。最後に出てきたトラントランの煮込み焼き、なんて、ビーフシチューのパイ包み焼きとほとんど味が変わらない。(ちなみにシャルマンがこれがお気に入りのようで、食べる速度が明らかに遅くなった。本当にグルメ猫だよ)

「興味深い料理人を雇ったようだな、エクレール」

食後のデザートを断ったシャルマンが、お茶を飲みながら語りかける。もしかしたら珍しい瞬間だったのかもしれない。妙に冷ややかだと思っていた表情が、わずかに微笑みを浮かべていたんだもの。エクレールさんが表情を輝かせて、どこか誇らしそうに告げる。

「シャルマンにそう云っていただけるのなら、とんでもない拾い物をした、ということですわね」
「どこで見つけたのだ?」
「シャランティアの街で。飲まず食わずのありさまでふらふらとさまよっていた彼を保護したんですのよ」
「……シャランティア、か」

考え深げにシャルマンは繰り返した。地名がわからないわたしは首を傾げていたけれど、エクレールさんは傍に立つガノスさんに何事かを告げた。ガノスさんが戸惑っていたようだけど、エクレールさんが再度促せば、諦めたように一礼して出ていく。シャルマンが目をあげて、身を乗り出した。

「料理人に会わせてくれるのか?」
「自慢の料理人ですもの。見せびらかしたいのですわ」

ふふっ、とエクレールさんが笑う。わたしは味にまつわる謎を放り出して、そわそわと扉に視線を向けた。
だってこの味を作り出した人なのだ。どんな人なのか、とても興味がある。

やがてノックの音が響き、扉が開く。
わたしは首を伸ばして、そして目を大きく見開く。
そこに立っているのは、行方不明になっていた東條さんだったのだ。

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