10・ありがとう、またね。

夢を見ている。その自覚が、あった。

なぜならいま、目の前に立っているひとはすでにこの世にはいないひとだからだ。こちらに背中を向けて、料理に没頭している。色が抜けて白くなってしまった髪を結いあげて、年をとってもぴんと延びた背筋は老いを寄せ付けないような厳しさをたたえている。

でも、老いはちゃんと、このひとを蝕んでいたのだ。

あの冬の日。
凍えてしまうほど寒い夜に受けとった知らせを、わたしたちは忘れられない。

イギリスで暮らしていたおばあちゃんが亡くなっている、と云う電話が、スコットランドヤードからかかってきた。大学受験に向けて勉強中だったわたしは、そっと廊下に出て、狼狽した母とその肩を抱く父の姿を見た。

それはそうだろう。毎週、祖母に電話をかけていた。その直前にかけた電話でだって、いつも通りだと皆で安心していたのだから。唐突な死は、もしかしたら第三者の関与ではないかとも疑わせた。

それはあり得なかった。

その場で警察に知らされた言葉、まもなく届いた死体検案書が、わたしたちの逃避的思考を打ち砕いた。

祖母の死因は、虚血性心疾患。

死因として、病死及び自然死、と明記されていた。祖母が病気を患っていたこと、それがとても深刻であったことを、日本とイギリス、離れて暮らしていたわたしたちは気づかなかったのだ。

どれだけ、わたしたちは自分を責めただろう。
どれだけ、わたしたちは判断を悔いただろう。

祖母は全然大丈夫じゃなかった。
いま、こうしてアヴァロンで料理をしているから、より、その状況が理解できる。

朝、昼、夜。それぞれの営業時間に、お客さまが望む料理を提供する。
それは結構な重労働なのだ。若いわたしでもそう感じる。ならば老いた祖母には、どれほどの負担だったのだろう。

母は泣いた。気づかなかった自分を責め、アヴァロンを続けさせていた自分を責め、泣きながら独り、イギリスに向かった。

だからだ。葬式も何もかも済ませて帰国した後、母がわたしにアヴァロンの継承を許さなかったのは。

(おばあちゃん)

心の中で、そっと呼びかけていた。聞こえるはずがない。
それなのに、目の前にいるひとは料理を止め、ふっと振り返ったのだ。
そして、笑う。
完全にこちらを向いて、かすかに首を傾げた。

(ああ、おばあちゃんだ)

わたしが呼びかければ、そうして振り返ってくれる。わたしの言葉を、最後まできちんと聞いてくれる。英語をうまく聞き取れないわたしに、ちゃんと理解できるように、ゆっくりと話しかけてくれるのだ。

でもこのとき、わたしは口を開くことが出来なかった。云いたいこと、問いかけたいことは山のようにたくさんある。それなのに想いはぐるぐる回るばかり。

(ねえ)

苦しくなかった? 寂しくなかった? 心細くなかった?
わたしたちを、――わたしを、恨んでいない?

けれど、そのいずれも言葉にはならなかった。

こうして向かい合っていると、祖母が穏やかであることが分かる。わたしの想いは伝わっていて、祖母の想いも伝わっていた。

わたしも、笑う。

笑いながら、泣いていた。

穏やかに笑っているひとと、わたしはもう会うことが出来ない。
夢の中で会うことはできた。
でもこれは所詮、夢なのだ。わたしの意識が作り出した、眠りのはざまにある、ただの幻、すぐに消える泡沫だ。

おばあちゃん自身じゃない。

そう否定しながら、でも通じ合っている感触はものすごく胸に迫っていて、だから苦しかった。

(おばあちゃん)
(おばあちゃん)
(おばあちゃん)

わたしはただ、心の中でしか、呟くことが出来ない。
そのひとは忍耐強く、笑顔を浮かべてわたしを見ていた。どこまでも受け入れられる許容に、ついにうずくまって泣き出していた。

その頭のてっぺんに、温かな感触があった。ゆっくり、ゆっくり、丁寧に頭を撫でる感触だ。
顔をあげると、まろやかに微笑むひとが見える。
唇が動く。声は聞こえない。涙でぼやける眼を見開いて、その唇の動きを追いかけた。
云われている言葉を理解して、はっと目を見開く。

そこで、目が覚めた。

とくとくと心臓が音を立てている。
鎮めるために深呼吸をしていると、カウンターの中にいるオリヴァーがくすりと笑った。

わたしはスツールに座っている。
慣れない場所にいることも落ちつかないけど、やっぱり勝負の時間が迫っていることが大きい。

「緊張してる?」

そりゃあね。力いっぱい頷けば、オリヴァーは淹れた紅茶と焼き立てのスコーンを出してくれた。
いつもと違う状況は、これが理由だ。王宮からの迎えが来るまでに、軽食を食べようとしたところ、万が一の怪我を心配したオリヴァーが用意をしようと申し出てくれたのだ。
心配性だよねえ。

でも目の前でほかほかと湯気を立てている黄金の組み合わせは、たまらない魅力となってわたしを誘う。どちらから手をつけようかな。迷っている内に、オリヴァーがカウンターから出て、隣に座った。アヴァロンの外を眺めて、まだ変わらない外の景色を、わたしたちの世界を眺めている。ちなみに外にはちゃんと閉店の札をかけている。鍵も掛けたから万全だ。

迷った挙句、わたしは紅茶から飲むことにした。ふーふーと息を吹きかけて、こくりと飲む。ミルクを添えられていたけれど、まずはストレートを楽しむことにした。ふわりと薫り高い芳香が口内に滑り込む。

(ふわああ)

なんという紅茶だろう。おばあちゃんに鍛えられて自負があったわたしだけど、この瞬間、白旗を掲げてしまった。美味しいのだ。いままでの紅茶よりも圧倒的に馨しくて、苦味をほとんど感じない。砂糖を淹れようとも思わなかった。不思議に甘いのだ。

(同じ、茶葉だよね?)

同じように紅茶に口をつけたオリヴァーをうかがう。どうやって入れたのか、それを訊きたい。すると視線を感じたのか、オリヴァーがわたしを振り返った。驚いたように目を丸くして、ふっと笑う。

「どうしたんだい? なにか訊きたそうだけど」
「紅茶が美味しいからびっくりしているの」

というより、淹れ方を教わりたいんだけど。

そう云ったら、オリヴァーはただ微笑んで、紅茶を飲む。むう、教えないつもりか。そちらがそのつもりなら。わたしは紅茶を早めに飲み干すことにした。その後はお代わりを要求しよう。再び淹れてくれるだろうから、やり方をしっかりがっつり盗んでやる。

だがまあ、いまはほかほかのスコーンだ。ちょっとごつごつしているスコーンを取り上げた。ぱかりと半分に割れば、黄金色の生地からふわりといい匂いがたつ。クリームとジャムをたっぷりつけてかぶりつく。

さくり、という感触をまず捉えた。次いで、クリームのこってりした味とイチゴのさわやかな風味が口の中で混ざり合う。おいしい。クリームが特に、濃厚なんだけど厭味がない。こくんと呑みこんで、たちまち物足りない気持ちになったから、またかぶりついた。

(こちらも、おいしい)

スコーンの作り方はとても簡単だ。混ぜて、切って、焼くだけだもの。だからわたしも家で作る。
でもこれほど美味しく作れなかったように思えてきた。

「イギリス料理の要は、良い素材」

再び紅茶に口をつけていると、オリヴァーは唐突に口を開いた。視線を向けると、わたしを見ていない。

「フランス料理と比べたら、たしかに、劣っているように見えるだろう。イギリス人はもともと食にそれほど関心を傾ける国がらでもないしね。でも僕はイギリスの、とびきり新鮮な素材を使った料理は、どの国にも引けを取らないくらい、美味しいと感じているんだ」

わたしは目を瞬いて、オリヴァーの横顔を見た。

何を突然、語りだしたのだろう。その戸惑いがある。でもこのタイミングでオリヴァーが意味のないことを語り始めるとは思えない。だから黙っていると、オリヴァーはようやくわたしを見た。温かく笑っている。

「でも僕は忘れていた。フレンチやエスニックの技巧を取り入れることばかり考えていて、行き詰まっていたんだ。最近になって、そんな基本をようやく思い出せた。思い出したのは、トウコ、きみの料理を食べたからだよ」
「わたしの?」
「そう。だからきみの料理には力がある。自信を持って、勝負に挑めばいい」

ちらっと笑ってしまった。物語性にあふれた、オリヴァーらしい励ましだ。
でもその気持ちは素直に嬉しかった。わたしは再び、ぱくりとスコーンを食べる。やっぱり、とてもおいしい。

「力があると云うなら、オリヴァーの料理にもだよ」

わたしはそんな言葉を告げていた。胸に満ちる想いは感謝だろう。でもお世辞をいうつもりはなく、いま、わたしに与えられた状態を伝えたくて口を開いていた。

「いま、このスコーンと紅茶をいただいて、すごくすごく、元気が出たもの。オリヴァーの料理だって力がある。きっとたくさんの人がオリヴァーの店で元気をもらっているんだろうね」

面映ゆそうにオリヴァーは笑った。何の気取りも感じられない、ごく自然な口調で云ってくれる。

「じゃあ、勝負に勝ったら招待してあげるよ。僕の店に」

わたしは思わず硬直した。少し沈黙して、頷いた。

「ご褒美だね?」
「そう、ご褒美。泣きっ面かいて戻ってきたら、金輪際、アヴァロンには関わらないことにする」

どうしてオリヴァーの脅しは、こうも過激なんだか。
わたしは笑って、頷いた。なんだか、すっと気が楽になった。
肩から力が抜けた、そんなときにわたしは変化に気づいた。

「時間だね」

同じように気づいたオリヴァーが、流れるように立ち上がる。こんこんこん、と扉が叩かれた。
わたしもスツールから降りて、扉に歩み寄る。

「トウコ・タカツキさまでいらっしゃいますか」

扉を開けると、高らかに響く声が聞こえた。でも姿はない。右、左を見まわして、次に響いた声を聞く。

「大変お待たせしました。八大諸侯の皆々さまのお言いつけにより、本日、わたくしウエイトリースがご案内いたします」

ようやくどこから響く声か、理解したわたしは視線を下ろした。鼠だ。物語に出てくるような騎士服を着て、小さな剣を腰にさした鼠が、その場に立っている。唖然と言葉を失ってしまったけど、とんとんとオリヴァーに肩を叩かれた感触に膝を折った。

「それはそれは、お疲れさまです」

鼠、いいや、ウエイトリースは喜んだように円らな目を細め、優雅に腰を折って外を示した。
つられて顔を上げると、今まで意識してなかった馬車に気づく。

それは白と金に彩られた、かわいらしい馬車だった。
くるんと丸くて、見事に少女趣味で、つながれている二頭の動物は、純白の天馬だ。中からドレス姿のお姫様が出てきても、わたしは驚かないぞ。ウエイトリースはとび跳ねるように前に進んで、扉を開ける。中にどうぞ、と云うことだけど、ためらってしまった。

だってね、いまのわたし、Tシャツとジーンズなの。料理をするのだから、と、動きやすい格好を選んだのだ。
だからこういう馬車には乗りにくい。

「トウコ?」

訝しそうに、オリヴァーが声をかける。ウエイトリースも不思議そうだ。その眼差しに、息を吐き出した。
乗らないわけにはいかない。女は度胸だ。
えいやっ、と、立ち上がる。大きく息を吸って、吐いて、そして背後に立つオリヴァーを振り返った。

彼の同行は許されていない。東條さんもわたしも、それぞれ、一人で王宮に乗り込むことになっている。アシスタントは八大諸侯が用意するのだ。オリヴァーはわたしを見下ろしていた。心配しているような、でも、力づけるような微笑みを浮かべている。わたしは微笑み返しながら、ちらりとアヴァロンの上を見た。

居住部の窓のカーテンがわずかに揺れた気がする。母さんだろう。ここに降りてきていないけれど、きっとこのときにもわたしを見守っているに違いない。修行期間、一睡もしないで過ごしたように。

「行ってきます」
「うん。やっておいで」

気楽な言葉が嬉しい。頷いて馬車に乗り込もうとして、わたしは重要なことを思いだした。足を地面に降ろして、オリヴァーの元に戻った。頭を下げる。

「トウコ?」
「スコーンと紅茶を残してしまって、ごめんなさい」

顔を上げると、オリヴァーは呆れているようだった。

「そんなこと、気にしなくていいよ」
「でも悔しいから。棄てないでね、帰ってきたらちゃんと食べる」
「莫迦だね、トウコは。棄てないよ、鳥の餌にする。君の分はまた、新しく作るさ」

そう云いながら、オリヴァーは右手を上げる。あ、でこピンが来るな。さっと額を両手でおおうと、オリヴァーは手を下ろした。もう大丈夫だな。見極めたわたしもそろそろと手を下ろした。

油断した。そう気づいたのは、オリヴァーが代わりに、わずかに屈んできたときだ。

(あ、)

わたしの頬に、温かな感触が触れる。
すぐ間近に、オリヴァーの秀麗な顔があった。サファイヤブルーの瞳に、間抜けな顔のわたしが映っている。
思わず手を頬にあてていた。熱い。

「いっておいで」

かああっ、と我に返ったわたしはそのまま馬車に飛び込んで、力いっぱい扉を閉めた。
外からかすかな笑声が響いていた。思わず文句を云いたくなったけど、まもなく馬車は滑るように動き出した。

ちくしょうめ。

がらがらと走っていた馬車は、いつの間にか、静かな感触で動いていた。音の変化に気づいたわたしは好奇心が促すままに、扉の窓を開けてみる。

(うわあ)

目に飛び込んできた景色に、思わず言葉を失ってしまう。馬車はもう、地面を走っていない。空を走っているのだ。宝石のような夜空を、建物にさえぎられることなく走っている。月も空もずっと近づいたように思えて、その実、まだまだ遠い。灰色の雲も流れていく空を、馬車は進んでいく。

やがて前方に、きらめく光の群れが見えた。

ぐんぐんとその場所に近づいていく。近づくにつれて、わたしは息を呑んだ。それは、お城だったのだ。

予想以上に、新しいお城に見えた。王さまは1600年も昔にこちらに来たと云うから、木で作られたお城を想像していた。でも目の前に見えてきたお城は、立派な石造りの城だった。材質は大理石だろうか。夜に映える、ところどころに明かりがともされた真っ白な宮殿は、イギリス最古の居城を思わせるつくりだ。

馬車はゆっくりと進んで、地面に降り立った。衝撃はなく、極めて静かな着地に続いて、がらがらと云う馬車が走りだす音が低く響く。窓から離れて、わたしは背もたれにもたれた。

さあ、いよいよ勝負の瞬間が近づいてくる。

深く息を吸って、吐いて、落ちつこうとした。手持無沙汰な自分が落ちつかない。せめておばあちゃんのレシピ集を持って来ればよかったか。ちらりと考えて、ゆっくりと頭を振った。持って来ればよかったのかもしれない。けれど今日見た夢が、不思議なほど、わたしをためらわせたのだ。

――おまえの料理を、作りなさい。

それが、夢の中で祖母が告げた言葉だ。
あれは所詮、ただの夢だと思っている。わたしの無意識が描いた夢だと。

でも同時に、まるでおばあちゃんが云っているかのような錯覚が消えないものだから、レシピ集を持ってくることができなかった。まあ、持ってきたところで、レシピ集を見ながら料理することはできないわけだし、この判断は間違っていない。

ただ。

(わたしの、料理)

その言葉について、今日、起きた瞬間から、ずっと考えている。考えなくていいことだろうか。所詮、ただの夢が見せた、つまらない戯言だと切り捨てればよかったのだろうか。

でもわたしには、それができなかった。

その言葉を知らされたのが、祖母が告げる、という形だったからかもしれない。だれよりも憧れている、おばあちゃんが関わる言葉だからこそ、わたしは無視できないのかもしれない。薄情な娘だ、母が同じことを云ったときには、わたし自身の料理ではなく祖母の料理を作りたい、と云う自分の意思を尊重したのに。

わたしは、間違えているのだろうか?

アヴァロンの味を、そのままの形で受け継ぐことが大切なのだと思っていた。アヴァロンの味を愛する、そんな人々の記憶に宿る味を再現すること――、それこそが大切なことだと、わたしは考えていたのだ。

けれどそれはやっぱり間違いで、わたしはわたしの料理を作らなければならないのだろうか。

(でも、そもそも、わたしの料理ってなに)

そんな疑問を自身にぶつけて、わたしは戸惑ってしまう。わたしの、料理。

――きみの料理には力がある。

ふっとオリヴァーに云われた言葉を思い出していた。迷っているわたし、緊張しているわたしを見かねて云ってくれたのだろう。ありがたい言葉だと思うけれど、云われた言葉に戸惑っている自分もいる。わたしの料理がオリヴァーにもたらした変化を知ることができた。でもそれは、もともとオリヴァー自身が秘めていた可能性ではないだろうか。

(わたしは、ただ、――)

考え続けて、わたしは言葉を見失う。

わたしは、ただ? その続きの言葉が見つからない。なにを考えて料理を作り始めたのだったか。わたしはなぜ、料理を作り続ける祖母に憧れたのだったか。

覚えていない。そして覚えていないことがこんなにも心細さを連れてくるものだとは思わなかった。

再び、窓の外を眺めた。
夜色の庭園を、馬車は走っている。やがてきらびやかな宮殿の前に停まり、扉が外から開かれた。

「お待たせしました、トウコさま。これより会場へとご案内いたします」

かしこまるウエイトリースを踏まないように、そっと馬車から下りた。息を吸って、吐いて、顔を上げる。
先に訪れていたらしい人が立っていた。

目が合うと、穏やかに微笑んでくれる。

その微笑は一週間前に見たものよりも、芯が通っている印象だ。ううん、もしかしたらこんなにしっかりした微笑は初めてかもしれない。この微笑を見たら、初めて会ったらときから見せてくれた微笑は、はるかに虚ろなものだったと気付く。

「東條さん」

わたしが呼びかける、その傍でウエイトリースが戸惑った様子を見せた。
どうやら東條さんの行動はイレギュラーであるらしい。
珍しいな、と、感じた。わたしが抱いている東條さんの印象は、控えめでやさしい、というものだ。少なくとも、まわりが困惑するような行為を出る人には思えなかった。

「勝負の前に、少しお話をしたくて無理を云いました」

わたしに近づきながら、東條さんは口を開いた。
なんだろう? 不思議に思って首を傾げると、足元からウエイトリースが言葉をはさむ。

「あー、あー、間もなく勝負開始の時刻です。込み入ったお話は、勝負の後でお願いいたします」

東條さんは困ったように微笑み、目線を合わせるように屈んでウエイトリースに話しかける。
ほんのわずかですから。そう続けて、頭を下げる。ウエイトリースはこほんと咳払いをして、するするっと身を引いた。了承した、と云うことだろう。軽く会釈をして、東條さんは背筋を伸ばした。わたしは見上げる形で、彼の言葉を促す。

「まず、お礼を云わせてください。わたしのために、この勝負を持ちかけてくださったこと。――ありがとうございます」

そう云って東條さんは頭を下げる。お礼を云われるようなことはしていない。そう云おうとしたとき、頭を上げた東條さんは、困ったように言葉を続けた。

「ですが正直、困ってもいます。わたしは、あなたとの勝負に勝ちたいわけでもありませんから」

そうだろうな、と、静かに考えた。

わたしの知る限り、東條さんはまっとうなひとだ。それがどういうわけか、殺人なんて罪を犯してしまったけれど、その衝撃から立ち直れば、罪を償おうと考える種類のひとだろう。そんな彼にしてみたら、罰から逃れてアヴァロンを継ぐ、という行為は論外のはずだ。

そこまで考えて、わたしは口を開いた。

「でも、負けるつもりはない?」

ちらりと東條さんは笑う。

「エマの料理を食べたい、と云われてしまいましたから」

シャルマンの言葉だ。彼の言葉は間違いなく東條さんを奮起させる効果があったらしい。
少しだけ、ほんの少しだけ、苦みを感じた。

その言葉が示す事実はふたつ。レシピ集を持っていてもわたしはおばあちゃんの料理を再現できていないと云うこと、そして、だからこそシャルマンは東條さんにも期待している、と云うこと。

でもわたしは唇を叱咤して、微笑みを浮かべた。

シャルマンがそんな人であることを、わたしはすでに知っている。知っていて、受け入れた。いまさらの事実に、改めて失望する余地はない。それにいま、わたしの心を別の方面から眺めれば、シャルマンがそこまでおばあちゃんの味に執着してくれている事実を、最初に感じた通りに嬉しく感じているのだ。

一途な心を、微笑ましいとも感じている。

「ですからわたしは、わたしの料理を作ろうと思います」

だから続けられた言葉に、思わず顔を上げていた。

聞き違いかとまず考えた。
でも眼差しを上げた先、東條さんの表情はゆるぎなく落ち着いていて、そうではないと教えてくれる。

それにしても、ここでも、『わたしの料理』、か。

「東條さんご自身の料理、ですか」

告げる言葉に迷い、そろりと口にする。

正直に云えば、不思議な感触だ。おばあちゃんの料理を食べたい、と云われて、なぜそんな結論になるのか。疑問を察したのだろう、彼はさらに言葉を重ねる。

「わたしにはエマの料理を作れません。きっと、誰にも作れないと思うのです。ですから、自分が最善を尽くせる料理を作るべきだ、と結論付けました」

それはまるっと、わたしの決意を否定している。

ただ、関連してシャルマンの言葉を思い出した。エマの料理は特別だ、誰にも真似など出来ない。云われたときには苦笑を誘った言葉、が、不意に違うニュアンスとなって、いま、わたしの中ではじけた。

シャルマンはすでに悟っているのだろうか。もう、おばあちゃんの料理を食べることができないと。
愛着を覚えた味は、ときの彼方に失われていると。

――おまえの料理を、作りなさい。

(おばあちゃん)

わたしは間違えている? 再び自問して、おぼつかない心地になった。迷い始めた心は唇を開かせる。

「夢を、見たんです」
「夢?」

思いがけないほどすぐに、東條さんからの応えが返ってきた。小さく頷いて、わたしはうつむく。

「料理をしている祖母が、わたしに云うのです。おまえの料理を、作りなさい。だから混乱してしまって」

そこまで云って、はっと我に返った。

なにをいっているんだろうわたし。これから勝負する人に、悩み相談なんて持ちかけてどうするつもりだ。

慌てて顔を上げて撤回しようとする。東條さんは微笑みながら、首を振った。穏やかな調子で、云う。

「どうして混乱するのですか。夢の中のエマが云うように、あなたの料理を作ればいいでしょう」

わたしの料理。繰り返されて感じることだけど、そんなものは存在するのか、とすら思う。
卑屈な言葉だろうか。でもそんなつもりはない。

そもそも、別の料理を食べたがっているお客さまに対して、自分の作りたい料理を提供することを、傲慢だと感じるのだ。

だからといって期待されている、すなわち祖母の料理を作ることができるわけではないから、最終的に、期待外れの料理を出してしまう、と云うところは同じだけど。

(ああ、そうか)

不意に、東條さんの言葉が腑に落ちた。
そうじゃない。傲慢ということでは、決してない。

だから、東條さんは自分なりの美味しさを追求して提供しようとしているのだ。期待に沿う料理を作ることはできないから、自分の料理を極めて提供しようという結論にたどり着いた。傲慢じゃない、それはむしろ誠意のひとつだ。中途半端な紛い物を提供するのではなく、自分なりのベストを追求して提供する。

(なら、わたしは?)

祖母のレシピ集を与えられている。だからエマの、おばあちゃんの味により近い位置にあるといえるだろう。

でも、わたしの料理、と云うキーワードが、結論を求める思考の邪魔をする。そのことに気づいた途端、ゆるりと微笑みが浮かんだ。

考え過ぎていたから、混乱していたのだ。わたしの料理という物云いは、あくまでも象徴なのだ。
大切なのは、なにを考えて料理を作るか、ということである。
その食事を食べたお客さまに、どのような感覚を抱いていただきたいのか、ということだ。

どれだけ、おばあちゃんの味を再現できるか、ということが大切なのではない。
決して。

(わたしは)

食べることは楽しいこと。
食べることは素晴らしいこと。
その認識が伝わるよう、わたしの料理を食べて満足していただきたい。

その方法のひとつとして、おばあちゃんの味の追求があるのだ。
憧れも、わたしが望む料理を構成する、一要素に過ぎない。

これから料理を食べる人、――その人に寄り添う料理を調理する。
たぶん、それこそがわたしの望む、料理の形なのだ。

「残念です」

やがて、真っ向から東條さんを見上げて告げた。

「これは勝負ですから、あなたの料理をゆっくり味わうこともわたしの料理を味わっていただくことも、出来ません」

じっとわたしを見守っていた東條さんは、にっこりと微笑んで、わたしもです、と応えてくれた。

外から眺めるときらきらしいお城は、やはり中に入ってもきらきらしかった。どのくらいのお金をかけた、と云いたくなるような装飾品を眺めながら、ウエイトリースの先導で城内を歩く。

わたしが一番感心したのは、主が眠りっ放しだと云うのに、埃ひとつ落ちていないことだ。王さま慕われている、そんなことを考えながら、勝負料理の対決場所についた。なにかの植物を彫り込まれた扉を開けば、古めかしい厨房が目に入る。本でしか見たことのないタイプだけど、オリヴァーの助言のおかげで、基本的な扱い方は心得ている。

(それにしても)

広々とした厨房を眺めて、思わず感心してしまう。丁寧に磨きこまれているのだ。確認してみたところ、調味料も各種類豊富にそろえられている。痛んでいる様子もない。食材さえ持ち込めば、いつでも調理することができるだろう台所は、頼もしさだけではなくて、管理している人のこまやかさを漂わせていた。

「気持ちの良い厨房ですね」

東條さんの言葉に頷きながら、わたしはエプロンを身につける。ウエイトリースがちょこまかと動き、出入り口とは別にある、厨房の扉を開いた。ぎりぎりとアコーディオンのように開いた扉は、続きの間とつながっていたようだ。テーブルとイスがあり、すでに八大諸侯の面々が腰かけていた。

「ようやくの到着か」

窓際に立っていたシャルマンが、振り返りながら言葉をかけてくる。反射的に笑顔を浮かべかけて、ふと、その手前に座るエクレールさんの姿が目に入った。俯いている、それだけで落ち込んでいるのだとわかる。

また、シャルマンがきつい物云いをしたのだろうか。

答えを求めて視線をさまよわせると、八大諸侯のほかに見知らぬ人がいることに気づいた。黒いローブを羽織っていて、長い杖を持っている。典型的な魔法使いの服装だ。魔道士。連想が働いた途端、エクレールさんの落ち込みの理由がわかったような気がした。

「シャルマン。もうここにはいられないの?」

わたしの問いかけに、エクレールさんの細い肩がびくりと揺れる。隣に座るフィレスが、気遣うように彼女を見る。その光景が目に入っているだろうに、シャルマンはけろりと応えた。

「いよいよな。魔道士が抑えていてくれるが、限界は思ったより早く訪れたようだ」

あまりにもあっけらかんとした答えだったものだから、確認したことを悔やんでしまいそうだった。もはやエクレールさんの様子を目に入れないように気をつけながら、わたしはあえていつも通りを心掛ける。

「じゃ、もっともっと気合入れて料理しないとね」

そう応えると、シャルマンは嬉しそうに笑った。
本当に嬉しそうに笑う。黙っていたら美麗な貴公子だと云うのに、食事がからむとまるで子供だ。
でも、シャルマンはそれでいいんだと思う。

「それではこれより、アヴァロンオーナーを決定する料理勝負を始めさせていただきますっ」

深呼吸をして、その言葉を聞く。ちらりと視線を飛ばせば、東條さんは真剣な横顔を見せている。慌てて視線を戻し、ウエイトリースのルール説明を聞く。

極めて簡単なルールだ。これから2ロゴー(2時間)の内に、用意された食材を用いて、2品を調理すること。総合的にどちらが好ましかったか、食事を終えた後に審査員は選び、多数の票を取得した者がアヴァロンのオーナーになる。

わたしは厨房の中央になる食材を見た。動物系食材はすでに解体され、調理を待つ段階だけに切り取られている。不動物系食材も、アシスタントたちが洗ってくれたのだろう、かすかに濡れた状態でボウルに入っている。それぞれの食材は、さいわいにも調理したことのある素材だ。どくんどくんと鼓動打っていた心臓は少しだけ落ち着きを取り戻す。

さて、それでは何を作ろうか――。

わたしはもう一度、シャルマンに視線を走らせた。

もうすぐ、ここからいなくなるひとだ。

これは料理勝負の場で、そういう感傷めいた想いに捕らわれるのは問題ありかも知れない。けれど、これから長い旅に出るだろうひと、いつ戻るか分からない状態で未知の世界に放り出されるひとに、最後に美味しい料理を食べてもらいたいという想いがあった。

ここに、必ず帰ってこられる、という願いを込めて。

頭の中のレシピを検索する。作りたい料理、作るべき料理はあっという間に決まった。後は落ち着いて、その料理を作ればいいだけ。云い聞かせて深呼吸する。

「それでは、調理開始!」

からんからんと鳴り響くベルの音で、ぴたりと手を止めた。制限時間はあっという間に過ぎた。でもぎりぎりということはない。ほうっと息をついて、用意した料理をアシスタントに運んでもらう。

ちらりと東條さんと目が合った。ゆるく笑いあって、ウエイトリースに先導されるまま、八大諸侯が座るテーブルの傍に立つ。シャルマンを見た。ゆったりと落ち着いている。

テーブルの上に並んでいる料理は四品。わたしの料理の腕は知られているからか、まず東條さんの料理を口にする人ばかりだったけど、シャルマンはいちばんにわたしの料理を口にした。スプーンとフォークを使って、ぱくりと食べる。きちんと咀嚼して、飲みこむ。

「……うむ」

たっぷりと間をおいて、緊張を盛り上げた後。
シャルマンはゆったりと満足げに笑った。

「美味いな」

わたしはほうっと息を吐いて、肩から力を抜いた。

わたしが作ったのは、レプスと呼ばれる動物系食材の煮込み料理と、マールスと呼ばれる不動物系食材のグリル焼きだ。いろいろ考えたのだけど、こってり系でまとめることにしたのだ。夜も遅い。

とはいえ、この勝負のために食事を控えめにしてきた人たちばかりだろう。だからその胃袋を満足させるために、どかんとつまるものを用意することにしたのだ。付け合わせにパンを用意してあったところを見て、いちばん味が引き立つ、という計算もあった。

――なんて、少しだけ、嘘をついてみる。

ちらりとシャルマンを見る。
わたしの料理を食べている彼は、ゆったりと落ち着いた動作で食事を口に運んでいる。

毎日食事を提供してきたから知っている。
動物系食材の煮込み料理も不動物系食材のグリル焼きも、どちらもシャルマンの好物なのだ。

この料理勝負が彼にとって最後の食事になるかもしれない。そう思いついてしまったとき、わたしは迷わず彼の好物を作ることにしたのだ。感傷的な理由であるし、八大諸侯全員の好みを考えたなら不誠実な選択だろう。

でも、わたしはどうしてもそうしたかった。

ちなみに東條さんはレプスをマスタード焼きにして、マールスはアイスクリーム風に調理している。どちらかと云えば、あっさり系と云えるのかな。マールスは果物のような味と食感だからアイスにぴったりだ。

ただ、東條さんのすごいところは器にも手を抜いていないところだ。わたしはせいぜい、器を温めて出すことしかしていないのだけど、東條さんはくりぬいたマールスにアイスクリームをのせ、さらにマスタード焼きは不動物系食材で作った器にのせている。とても華やかなものだから、この勝負はついたも同然だな、と、わたしは壁に寄りかかって息を吐いた。

(でも)

わたしはちらりと八大諸侯を見た。

サピエンティアがお代わりを要求し、ウィレースが酒を要求している。クレーメンスとフィレスは仲良く食べさせ合いこしているし(いい加減にしろよと云う突っ込みは控えることにした)、ナウタはひと口ひと口ごとにじーんと感慨深く目をつむっているし、エクレールさんはようやく白い頬に微笑みを浮かべている。

シャルマンは。
とても。とても楽しそうだった。

もはやわたしの料理だけではなく東條さんの料理も食べている。美味しそうに、嬉しそうに食べている。穏やかに笑い、まわりの人とも語り合っている。どうした心境の変化なのか、エクレールさんとも語り合っている。

その光景を見ていると、わたしは、まあいいか、という気持ちになった。

負けてしまっても、良いか。

シャルマンが最後に、楽しそうにしているんだから、それで何もかもが満たされたような、そんな気がする。

「嬉しそうですね」

黙って八大諸侯の食事風景を眺めていると、こそりと東條さんが囁きかけてきた。
嬉しいです、八大諸侯たちから目をそらさずに告げて、わたしは続けた。

「美味しそうに食べてもらえると、調理した甲斐があります。これぞ料理人の本懐という感じで」

すると東條さんは、くすりと笑った。
笑い含みの声で、誤魔化さなくてもいいんですよ、と云われてしまったけれど、さて、なんのことだろう?

――やがて、食事が終わる時が来た。

自由奔放にふるまっていた八大諸侯たちは、やがて片づけられたテーブルに綺麗に座り直して、ウエイトリースが配る用紙にそれぞれ名前を書いている。

いよいよ、結果がわかる瞬間だ。緊張はしているけれど、思ったよりドキドキしない自分に気づいた。今まで目の前に会った光景を思い出して、ふうっと深く呼吸した。

(大丈夫)

失望なんかしたりしない。後悔もしたりしない。
あの光景を作り出す一端を担うことができたのだから、わたしは笑ったままこの場を立ち去ることができる。

「それでは皆さま、支持する料理人の名前を掲げてくださいっ」

ウエイトリースの言葉に、一斉に紙が掲げられる。
が、わたしと東條さんはこちらの文字だから意味が読み取れない。

臨場感に欠けるなあと思いながら、ウエイトリースが読み上げる名前に耳をすませる。
タカツキ、トウジョウ、タカツキ、タカツキ、トウジョウ、トウジョウ。

意外なことに、東條さんとわたしは現時点では同じ点数だ。
どこがそんなに評価されたんだろうと首を傾げていると、次々と八大諸侯がコメントを口にする。

「なんといっても、煮込み料理が絶品じゃな。バーラエナとの配合がこの上なく最高であった!」
「おう。ピリッとした風味が酒によく合ったし、もっともっといけると思ったぞ」
「……チーズとマールスの組み合わせも、美味かった」

もちろん東條さんの料理に対しても賛美コメントが浴びせられる。

「マールスの冷たいデザートなんて、まさか食べられるとは思いませんでしたわぁ」
「ピリッとした辛みならば、こちらのマスタード焼きもいけると思うんじゃがのう」
「器にまで心をつくすとは、さすがはわたくしの選んだ料理人ですわ」

ところがそうした盛り上がりとは無縁な人がいる。シャルマンと存在も忘れかかっていた魔道士たちだ。
沈黙を不審に思ったわたしは、シャルマンに目を向けた。同様に他の八大諸侯も目を向ける。
わたしたちはぎょっと目を丸くする。

「シャルマンっ」

悲鳴のような声で呼びかけたのは、エクレールさんだ。
がたんと立ちあがろうとするエクレールさんを、左右に座るサピエンティアとフィレスが引き留める。
他の八大諸侯も顔色を変えている。落ちついているのはシャルマン当人だけだ。

シャルマンの姿は、まるで電波が途切れそうなテレビ映像のように乱れていたのだ。

わたしは魔道士たちに目を向けた。半目にして唇を盛んに動かしている。ぶつぶつと聞こえるそれは、なにかの呪文だろうか。沈黙したまま自らの手のひらを見つめていたシャルマンは、その端正な唇にふっと微笑を浮かべる。

「――どちらの料理も、とても美味だ」

紙はまだ伏せたまま、――いや、もしかしたらもう、持つことができないのかもしれない。
シャルマンがカタンと立ちあがり、テーブルを回って、こちらに歩いてくる。魔道士がはっと目を開いて、杖を構え直す。シャルマンは無造作に片手を振った。歩きながら、ちらりとシャルマンは東條さんに微笑みかけた。

「トウジョウの料理はさすがにエクレールが推薦しただけあって彩りを重視し目にあざやかだし、夜に食べるということも考慮してあっさりめでまとめられている。食べる者に対する配慮がとても心地よい」

戸惑った様子を見せていた東條さんは、それでもシャルマンの賛辞を正面から受け止めることにしたのだろう。軽く顎を引いて、感謝を示した。それに頷いて、シャルマンはさらに歩き続ける。わたしの元へだ。

硬直していたわたしは、思わず一歩、足を踏み出していた。シャルマンとの距離が近づく。
あと少しで触れるというところで、シャルマンは足を止めた。ぽんとわたしの頭に右手を置いて、言葉を続ける。

「だがわたしは、この場所に戻ってきたとき、おまえの料理を食べたいと思う。エマではなくて、橙子、おまえの料理を」

エマではなくて、――。

(わたしの、料理)

儚い感触で頭に乗っかっていた手のひらが、いつものように頭をくしゃくしゃと撫でる。その感触はまったく安心できるものだった。

けれどもう遠い。わたしは唇を動かすことも出来なくて、ただ、シャルマンを見つめていた。金と緑の瞳が印象的な、この上なく美麗な貴公子の姿を。

シャルマンは微笑んでいた。

温かな微笑だ。雲の合間から差し込む陽光のように、深い喜びがじわじわと胸の中に広がっていくような、そんな微笑だった。その瞳の中で、わたしは茫然とした表情を浮かべている。そうと思えば、くしゃりと眉を寄せた。

(シャルマン)

滲んできた視界を認識しながら、わたしはようやく指を伸ばした。そろそろとシャルマンに伸ばす。
だが、その指先が触れる、というとき、

「よく、精進を重ねたな。この結果を、わたしは嬉しく思う」

指先が空気の中に突きぬけ、髪をかき乱される感触がふっと止まる。
軽くなる。消える。すうっと視界がクリアになる。

椅子から立ち上がって蒼白になっているエクレールさんと眼差しが合う。サピエンティアが寂しげに微笑んでいるのが見えた。いつのまにか、ウィレースはシャルマンのすぐ傍にまで歩み寄っていて、ナウタはただ椅子から立ち上がったまま、こちらを眺めている。フィレスとクレーメンスはお互いに手を握っている。魔道士は静かにまぶたを伏せて、杖の先を下に降ろした。もう、ぶつぶつ云う声は完全に消えている。

シャルマンは、こうしてこの世界から消えたのだ。

わたしは目の前に掲げた手の甲を見つめた。
シャルマンに触れそうだった指だ。ゆっくり動かして、まじまじと指先を見つめる。
ぎゅっとこぶしを握り締める。そのまま胸元まで引き寄せて、わたしはまぶたを伏せた。

ためらいがちに、右肩に触れる感触があった。のろのろと顔を上げると、東條さんがわたしを見ている。
気遣われている感触に、わたしはぼんやりと微笑んだ。

視界の端で、ちょろちょろとウエイトリースがシャルマンの席だった場所に向かうのが見えた。ぴらっと用紙をめくり、書かれた名前を読み上げる。

橙子。

ウエイトリースの言葉の響きに、シャルマンの呼びかけを思い出して、わたしはまた、……

笑ってしまった。

う、とたじろぐ気持ちで立ち尽くした。

約束を果たすよ。オリヴァーはそう云って自分が働いている店に、わたしを招待してくれた。正確には母さんも招待してくれたのだけど、母さんはなぜか招待を受けることを拒絶した。なぜか。

ううん、とぼけるのは止めておこう。あの埴輪状の眼を見れば、その下心は透いて見える。帰宅した後うるさくなりそうだなあ、そう考えながら、オリヴァーが寄こした車に乗り込んで、このレストランにやってきたのだ。

ロンドンでは一等地に当たるだろう、メイフェアにあるホテルの一階にそのレストランはあったのだ。きらびやかなシャンデリアの下、着飾った紳士淑女が食事をしている。ツンと胸元の布地を引っ張ってみた。一枚だけ持ってきたワンピース、しわなどはないけれど、おかしくないだろうか。戸惑っていると、中からレストランの人が現れた。

「いらっしゃいませ。トウコ・タカツキさまでいらっしゃいますね?」

口元に入るしわまで魅力的なその人は、圧倒され、ただ頷くだけのわたしにやわらかく微笑みかけた。丁重な仕草で導かれる。さまざまな人が食事をしている場所を通り抜けて、個室に辿り着いた。中からの応えを確認して、扉を開ける。鼓動が高まっていたわたしは、おそるおそる室内を覗き込んで、短く息を呑みこんだ。際立って華麗に整えられた部屋、その窓辺に正装姿のオリヴァーが立っていたのだ。オリヴァーは振り返り、ちらりと微笑んだ。窓から離れて歩み寄ってくると、音も立てないで椅子を引いてくれた。

「どうぞ、お姫さま?」

うあ。

なんというか、今のオリヴァーがその動作をすると、見事にはまり過ぎる。まるで執事のようだ。いやいや、より的確なのは王子さま? 執事さんも品格がある存在だけど、ははーっとひれ伏しちゃうようなオーラまでは出せないものね。

いまのオリヴァーは、なんだろう、すごく風格があった。いつもは下ろしている前髪を綺麗に上げているから大人っぽい。だからより強く、そう感じるんだろう。脈打つ鼓動を冷静に認識しつつ、向かいの席に腰掛けるオリヴァーを眺めた。給仕がやってきて、食前酒を注いでいく。

「とりあえず、アヴァロンオーナー着任、おめでとう」

グラスを掲げて、オリヴァーは甘やかに微笑む。

「……ありがとう」

なぜそうもきらきらしい。心の中で突っ込みながら、わたしは曖昧に微笑んだ。食前酒に軽いためらいを覚えたけれど、思い切ってグラスを傾けた。アルコール度数が低いのか、すうっと喉を通っていく。美味しい。グラスを置いて、じっとこちらを眺めているオリヴァーの視線に気づく。

奇妙なあせりを覚えた。慌てて口を開いたけれど、なにを云えばいいのか、思いつかなくてまた口を閉じる。話したいことはたくさんある。訊きたいこともそれなりに。でもオリヴァーが用意してくれたこの場所には、いずれも持ち出すには不似合いな話題に思えて、なんとなく気がそがれたのだ。くす、と笑声が響く。目線を上げると、オリヴァーが口を開いた。

「いささか、改まり過ぎたかな。まわりには聞かせられない話だから個室を選んだんだけど」

それでトウコの口を閉じさせたのなら意味がないね。そう続けたものだから、わたしは苦笑いを浮かべる。どうやら場の空気に呑まれ過ぎたみたいだ。わざわざそう云ってくれたということは、食事の空気に対する配慮は必要ないということなんだろう。感謝しながら、口を開いた。

「東條さんは警察に行ったよ」

料理勝負はもう昨日の話だ。東條さんは異世界からこちらに戻ってきた。その足で警察に出頭し、自らが犯した罪を自首した。いまはまだスコットランドヤードにいるけれど、その内に、日本に強制退去となるだろう。

状況を知ることはなかったけど、犯したのは殺人と云う重い罪だ。軽い刑罰ですまないだろうとわたしたち母娘は話していた。落ち込む気持ちもあったけど、出来ることはないという事実もわかっている。

「で、きみは後悔してる?」

いささか皮肉に響いた言葉に顔を上げれば、声音と反して物思わしげな表情を見つけた。別れ際の東條さんやシャルマンの表情も脳裏に通り過ぎる。わたしは微笑んだ。

「まさか」

まだ新聞には東條さんの一件は掲載されていない。とはいえ、彼の出頭による影響はこれから出てくるだろう。母親とは早くに帰国するか否か、話しあっている段階だ。無駄な好奇心は招きたくない。

母親と話し合う段階で浮上してきたさまざまな可能性に、世間知らずのわたしは思わず落ち込んでしまいそうになる。昨日から今日までの間、やっちゃったかなあ、と思う瞬間もあった。

でも。

――目の前で消えていったひとを、想う。

いつ、この世界に戻ってくるか、わからないひとだ。

だれよりも孤独で、だれよりもつらい運命に生きるひとに、せめて温かいものを差し出したいと思う。
いついつまでも、変わらないものを捧げていたいと思う。

この気持は確かなもので、だからこそ、わたしはあのアヴァロンを引き継ぎたいのだ。

だからこそ、どんな状況になったとしても揺らぐことはない。わたしを見つめているオリヴァーの目線に、しっかりと視線を合わせてはっきりとわたしは告げる。

「結局、わたしの望みは叶っているもの。後悔なんてしない。大学を卒業したら、すぐにここに戻ってくるよ」
「……それはよかった。僕の労力が無駄にならなくてよかったよ」

オリヴァーの表情が、やわらかくほころんだ。そんな彼がすでに、アヴァロンのために動いてくれていることを、母親から聞いて知っている。だけど口先ではそっけないことを云う。

なんというか、素直ではないひとだ。でも初対面の時を思い出せば、ずいぶんやわらかくなったかなあ。うん、と、わたしは頷いて言葉を継いだ。

「それまでたくさん修行してくる。もっともっと美味しい料理をマスターして、」

そこでひとまず言葉を切り、目の前に座る人に、顔全体を使って思い切り笑いかけた。

「オリヴァーとシャルマンに振舞うからね!」

するとたちまちオリヴァーは盛大にため息をついた。
ふいっと視線をそらして、「シャルマン、ね」などと不満そうに呟く。

(あれ?)

わたしは不思議に思って、次いで、ある可能性に気づいた。
まさか、と自分で否定する前に、ばばば、と頬に熱が集まる。

きっと紅くなっているのだろう。でも視線をそらしているオリヴァーには気づかれていないみたいだ。さりげなく頬に手を当てて、わたしは「その可能性」について想像してみる。

うん、それはその……。

悪くない、感触だ。

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