(た、食べ過ぎたわ……)
口元を抑えながら、キーラはぐったり、寝台に横たわっていた。さすさすと逆の手でお腹を撫でているが、そんな行為で満腹感が変わるわけがない。ひたすら待ちの態勢で、圧迫感が消えるよう、深呼吸を繰り返す。しょせん気休めだとわかっていた。
与えられた部屋は、思ったより明るい印象の部屋である。家具は少なく、二段になっている寝台と、衣装を収める箱がふたつ、あるだけだ。本来は二人用なのだろうが、キーラが唯一の女性だということで気を遣ってくれたのだろう。おかげでずいぶんのびのびできる。上衣をとりさったラフな格好で寝転がっていられるのは素直にありがたい。
時間はすでに深夜を回っている。いつもなら眠りに就いている時間だが、この満腹感のおかげで、眠りはなかなか訪れない。いっそ、少し運動したらよいのではないか、と、閃いたのは、結構な時間が過ぎたころだ。部屋の外がしんと静まったころである。むくりと起き上がって、キーラは少し考えた。はたして勝手に出歩いてよいものか。
(大丈夫、よね?)
船の中を少し歩くだけだ、どこにも後ろめたい理由はない。
それでも初めての場所だから、ためらいがあった。だがこれまでに団員たちが見せた、温かな反応が背中を押す。大丈夫だろう、と、振り切って、寝台から立ち上がった。
必ず鍵をかけること。しつこく念を押された扉を開けて、そっと廊下に忍び出る。ほとんど真っ暗な空間で、ゆらゆらと揺れるろうそくの光が頼りだ。もう皆は眠っているのだろうから、できるだけ足音を立てないように気を付ける。甲板を目指して歩き始めた。
ちなみに、護衛のキリルは夕食の席で酔いつぶれていた。新人であり、酒にも弱い彼は団員たちのからかいの種であるらしい。ほんのり赤い顔をしてしあわせそうに眠るキリルをヴォルフが軽々と担ぎ上げて、部屋に運んでいた。アレクセイが苦笑していたが、まあ、あんなに盛り上がったのだ、今日くらいは許容範囲に入れてもいいだろう。
歩くにつれて、少し冷たい風を感じ始めた。外に近いから空気も動いているのだ。思いがけずそれが気持ちよくて、キーラは歩く足を速めた。だんだん、視界が明るくなる。
ついに上甲板に着いた時、満天の星空を見上げて、キーラはしばらく沈黙していた。
衝動に駆られて、ふっとろうそくの明かりを消す。ひたひたと歩いて、船縁に向かう。ぎりぎり海を感じられる場所で空と海を共に眺めた。鼻に届く潮の薫り、髪を撫でる風の気配。しばらくそのままでいたが、ふと閃いて、ごろりと甲板に寝転がる。すると満天の星がまるで降ってくるようだった。圧倒的な感動がある。そよそよと、時折、潮交じりの風が吹く。このまま眠ってしまったら気持ちいいだろうな、と考えていると、かすかに物音が聞こえた。寝転がったまま、頭を動かす。
「――――セルゲイは本当に、心配性だ」
不意にはっきり聞こえた声は、アレクセイのものだった。
視線を動かすと、操舵室からアレクセイとセルゲイが出てくるところだった。二人はまだキーラに気づいていない。起き上がって声をかけたほうがいいだろうか。咎められたりはしないだろうか。迷っているうちに、セルゲイが口を開く。
「おまえが楽観的すぎるんだ。状況が状況なのに、なぜそこまで呑気に構えられる?」
(ふうん)
キーラは驚いた。たしかに、アレクセイと二人きりだとセルゲイの態度は砕けるようだ。今までに見た『忠義の護衛』から、ずいぶん遠い姿である。このまま二人の会話を聞いてみたい気分になったが、このまま盗み聞きしているのはまずいだろう。手を支えに起きあがろうとしたとき、アレクセイの楽しげな声が響いた。
「状況が状況だからね。なすべき目的は明確で、そのための力もそろえた。ただ、やるべきことをしたらいい。おまえのように深刻にならなければならない理由がどこにある?」
(え?)
耳を疑った。驚きは先ほどよりも大きいかもしれない。
アレクセイが丁寧な口調を崩している。云ってみれば、ただそれだけだ。
だが、それだけなのに、アレクセイの印象がずいぶん変わっている。優美で腹黒な印象が強かったのに、いまはまるで違う。手を支えに起き上がろうとして、そのまま動きを止めてしまったのは、やばいという感覚がよぎったからだ。いま、アレクセイは王子としての仮面を脱いでいる。そんな気がした。
「……もし、失敗したら?」
「死ぬだけさ」
セルゲイの慎重な問いかけに、あっさり端的に答え、アレクセイは足を止めた。こちらに気づいたのかと思えば、そのままセルゲイを振り返った。
「わかりきっていることだろ。それともおれに否定してほしかったのかな? だがあいにくと、そういう甘えは許容できない性質(たち)なんでね」
「おまえだけの問題じゃない。コーリャやアーヴィングたち、あの娘も巻き込むんだぞ」
今度こそ、完全にキーラは固まる。ついに自分の名前が出てきた。いよいよ気まずい。いまからでも声をあげようかとも思ったが、自己主張するにはかなり出遅れた感がある。
それにしても、失敗したら死ぬとは物騒だ。なにより自分も巻き込む前提で話さないでほしい。キーラは依頼を終わらせた後は、高額依頼料をぶんどって、さくさくマーネに戻るのだ。猛烈に異議を申し上げたい気持ちでいっぱいになっていると、
「だから、考え続ける」
きっぱりとした響きで、アレクセイが云い放った。
どこまでも力強く、芯の通った声音だった。
「あらゆる危機を考え、回避するための手段を講じておく。……最初から、悲壮な気持ちで巻き込もうとは思っていない。コーリャもアーヴィングもキーラも、おれはそもそもだれも死なせるつもりはない。すべてが終わったら、あるべきところにちゃんと帰してやる。当たり前のことだろう」
いっそ、清々しいといってもいい、決意表明だった。
キーラは、なにも云えない。アレクセイの声にはどこにも気負いもなくて、思っていることをそのまま口に出しているのだと伝わってくる。
かすかな笑い声が響いた。セルゲイが笑ったのだろうか。
「そうしておまえは、王になっていくんだな」
「そうさ」
応えるアレクセイの声は、なぜか、かすれるような声だった。
二人は船室に降りていく。最後まで寝転がっているキーラに気づかないままだ。
完全に二人の気配が消えたころ、むくりと起き上がって呟いた。
「信じられない」
かすかに眉をしかめて、唇をへの字にゆがめる。
「あの二人、戦士のくせに、あたしに最後まで気づかないままだったわ!」
一人でツッコミを入れて、ついに衝動に負けた。息を吐き出す。ほどけるように微笑みを浮かべながら、満天の星を見あげる。声には出さず、ゆっくり唇だけを動かした。
(莫迦なんだから)
キーラは空を見上げたまま、大きく呼吸した。胸に満ちる大気が心地よかった。