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 面白い本を探しているんですけど、と相談されたフィン・ターナーは濃藍色の瞳をぱちぱちとまたたかせた。

「そうですねえ」と応えながら、同時に、質問してきた相手を観察する。

 年のころは十四、五。林檎のように赤い頬とくりっとした焦げ茶色の瞳が印象的な、なかなか可愛らしい少女である。ただ、このようなところ、すなわち貸本屋を訪れた経験は少ないようにみえる。それどころか、読書の経験も少ないにちがいない。

 なぜなら視線があちらこちらにさまよっているくせに、書棚に並べた数々の名著に留まる様子がない。なにより少女の服装が決定的だ。紺色のワンピースに糊のきいたエプロンは、彼女がどこかの使用人であると物語っている。すべての使用人に、読書の習慣がないとは言わないが、この年齢ならば、ハードな仕事に追われてばかりの毎日だと想像がつく。

 だとしたら。椅子から立ち上がりながら、フィンは「失礼ですが」と少女に向けて質問を返した。

「本をお探しになっているのは、お客さまでいらっしゃいますか。それとも」
「あ、マーガレットさんです。じゃなくて、ええと、お嬢さまの乳母(ナニー)でいらっしゃるかたが、お嬢さまにと……」
「ああ、なるほど」

 少女の答えを聞きながら、フィンはカウンターを回って、少女の近くに歩み寄った。

 途中、「あ」ということばが聞こえたが、それは気にしない。それより、紹介すべき本だ。少女のことばから、求められている本はおそらく児童文学あたりだと想像がつく。ただ、お嬢さまということばが選択肢を狭めた。乳母が探しているというなら、まだ文字は覚えていないころではないか。ならば、と書棚から取り出した本は、近頃、話題になってきた絵本である。

「こちらなんて、いかがでしょう?」
「あ、かわいい」

 思わず、といった様子で、少女は素朴な感想を口にした。

 たちまち赤面して口元を押さえる少女に、にっこり微笑みかけて、フィンは取り出した本を手渡す。

 以前は黒一色刷りの本が多かったものだが、このようにカラー挿絵の本も増えてきた。内容に違いがあるはずがないが、やはりあざやかな色彩で描かれたほうが、より楽しい。事実、絵本を受け取った少女はくるくると瞳をきらめかせ、一ページずつ、興味深げに眺めている。添えられた文章も難しくないから、内容もスムーズに理解できるのだ。

 他にも何冊か紹介したものの、少女は最初に紹介した本がすっかりお気に召したらしく、ひし、と、絵本を抱きしめている。

 そんな様子を微笑ましく感じながら、フィンはカウンターに戻って貸本手続きを始める。予測通り、少女はある中流家庭の家主の名前を告げた。フィンはその名前を会員名簿から確認したあと、貸し出し帳簿に本の名前と今日の日付を書いた。こまごまとした注意事項を説明し終えたとき、からんからん、と、扉につけられたベルが鳴り響いた。新たな客が来店したのだ。

「いらっしゃいませ」と反射的に告げながら、扉に目を向けたフィンは、ぴくりと眉を反応させてしまった。

 堂々とした態度で入ってきた人物は、まだ若い男性だった。艶やかな黒髪に、深い紫水晶の瞳。細面の顔立ちは優美に整っており、身体にぴったりフィットしたフロックコートを身につけていた。さらにロイヤルブルーのネクタイを結び、手にはステッキを持っている。まるで物語に出てくる貴公子のような佇まいに、カウンター前の少女が顔を赤くした。

 しかしフィンは、平坦なまなざしで男を見返した。また、来やがった。正直な本音はさすがにことばにしないまま、袋に入れた絵本をポンと少女に手渡す。

「あ、ありがとうございます」……返ってきた少女の声はどこか夢心地だ。

 男はそのまま、新着書籍が並んでいる書棚の前に立ち、いかにも興味深げに検分し始めた。なにげない、そんな立ち姿すら、妙に目を惹く男だ。少女は名残惜しげに、何度も振り返りながら、店を出て行った。

 そのころにはフィンはすでに、カウンターから出て、貴公子然とした男に近寄っている。ごく近くに立って睨め付ける。

「今日はどのようなご用事で?」

 少女に対したときとはまるでちがう、ぶっきらぼうな声音で男に話しかけた。ふっと男は苦笑する。

「ご挨拶だな、フィオナ。せっかく訪れた客に対してその態度はないだろう」
「フィン・ターナーです、お客さま。もっとも、たかが貸本屋の店員の名など、覚える必要などないと思いますが」
「失礼した、フィオナ・アシュバートン。あいにく、わたしは酔狂で知られているのでな。覚えたいものを覚える主義だ」

 わざわざ訂正したというのに、男はさらっとした態度を崩さずに、フィンの昔の名前を繰り返してきた。

 まったく憎たらしい。いまはフィン・ターナーと名乗る元男爵令嬢は、ため息だけでこみ上げる感情を押さえ込んだ。自慢だった真珠色の髪を切り、バッスルではなくスマートをまとってまで、新しい自分になりきろうとしているのに、学院の先輩にすぎなかった男は、こうしてことあるごとに、フィンを過去に連れ戻そうとする。

(いっそつけ髭をつけてきてやろうかしら)

 何気なく考えて、無意識にあごをなぞる。するとたちまち、「それ以上、滑稽な仮装は慎むことだな」と見透かしたような男のことばが飛んできた。今度こそ感情のままに男を睨めば、むしろ案じるようなまなざしを見つけてしまった。フィンは悪くない。悪くないはずなのだが、妙に居たたまれない気持ちになり、まなざしを伏せた。

「……わたくしは帳簿の整理をいたしますので、ご用がけのときには、お声をかけてくださいませ」

 それだけを言いおいて、カウンターのなかに戻る。嘘ではないが、言い逃れた自覚が、敗北感を連れてくる。きゅっと唇を噛み締めて、帳簿を開いて先ほど書き留めきれなかった事項を帳簿に、丁寧に書き記していく。今度は男もなにも言わない。

 しんと静まった空間で、さらさらとフィンがペンを走らせる音が響く。奥の書棚に向かったらしく、男の姿はフィンの視界から消えた。そうすると、まるで一人きりになったような心地になり、次第にフィンの気分は落ち着いていく。

 たしかに、いまの自分が不格好だという自覚はあるのだ。

 たかが髪を切ったくらいで、少女が少年になれるはずもない。たかが男物の衣服をまとったくらいで、少女が少年になれるはずがない。いまは「兄」となってくれている従僕だって、いまのフィンを見るたびに苦笑する。滑稽なのだ、わかっている。

 だが、だからといって、フィオナ・アシュバートンに戻れるはずがない。
 帝都カーマインはさすがに世界最先端をゆく都市だけあって、日々、くるくると話題が移り変わる。先日の舞踏会で皇太子が手をとって踊った令嬢の名前から、動物学協会付属の動物園に新しく仲間入りしたカバまで、本当に幅広い分野の噂話がカーマインっ子の口にのぼる。

 それでもだ。
 アシュバートン男爵夫妻の罪状を忘れ去るほど、カーマインっ子はのんきではない。

 それなのに、フィオナ・アシュバートンに戻れというのか。犯罪者の娘に対する、世間の目の厳しさを知っているだろうに、と恨みがましい気持ちがよぎったとたん、ぼた、と、ペン先からインクが滴り落ちた。

 しまった、と、反射的に硬直したフィンは、やがてゆるゆるとため息をついてペンを置いた。書き直しだ。まあ、フィンの雇い主はおおざっぱな性格であるし、ここ、「ジョン・ナッシュ貸本屋」とて、それほど大きな店舗ではない。このくらいのミスは見逃してもらえるが、当のフィンがいやなのである。せっかく与えられた仕事をいい加減に終わらせるなんて行為は。

 失敗した用紙は、メモ書きにすると決めて、新しい用紙を引っ張り出す。
 今度こそ間違えずに、集中して必要事項を書き終えたころ、手元に人影が落ちた。なかば無意識に息をついて、フィンは顔を上げた。右手に数冊の本を抱えた男が、フィンを見下ろしている。あいまいな微笑を口端に浮かべ、フィンは立ち上がった。

「今日の貸し出しは、そちらの四点でよろしいでしょうか」

「ああ」と応えた男は、慣れた様子でカウンターに本を並べた。記録を取りやすいように、表紙を並べているところに男の心遣いを感じる。だがなにも言わないまま、フィンは書名を帳簿に記録し、淡々と必要事項を説明した。

「ありがとうございました」

 またのお越しをお待ちしております、と告げる間もなく、男は身を翻す。本当はそう言いたくないフィンの気持ちをまるで察しているかのように、フィンに空々しい愛想を言わせる間も与えず、男はフィンの職場から出て行った。ふーっと息を吐き出して、フィンは椅子の背もたれに身体を預けた。だが、すぐに頭を振って、帳簿にさらさらと男の名前を書いた。

 すなわち、アンドレアス・スペンサー、という、エクレーシア帝国でもっとも著名な探偵の名前を。

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