1−3

     エクレーシア帝国において、夏は駆け足で過ぎていく。

     だからフィンが仕事を終え、「ジョン・ナッシュ貸本屋」を出たときには、外はすっかり夜になっていた。街頭に立つ白熱ガス灯が、黄色っぽくあたりを照らしている。こほ、と、ちいさく咳をしたあと、フィンは早足で歩き始めた。

     現在、フィンが住んでいる場所は、「ジョン・ナッシュ貸本屋」からさほど離れていない距離にあるタウンハウスである。「兄」のおかげで一応、中流階級にひっかかっているから、通いの使用人がいて、いつも温かい夕食を用意してくれている。

     ただ、この日のフィンは、仕事のあとに用事があったため、自宅に向かう道ではなく駅に向かう道を歩いていた。くるる、と音を立てる腹具合が切ないが、駅で待ち合わせている兄と適当なパブで腹を満たす予定になってるから、それまでの我慢だ。

     ややうつむき加減にセント・クレア・ストリートを十分ほど歩けば、駅前広場にたどり着く。まだコーヒー売りの屋台やハムサンド売りの屋台がいる。彼ら熱心な呼びかけを聞き流しながら、右左と首を動かしたところで、ぽんと肩を叩かれた。

    「お疲れさまです、……フィンくん」

     振り返れば、便宜上の兄となってくれている、元従僕レイモンド・ターナーが立っていた。

     かつてはお仕着せとして古めかしい燕尾服に身を包んでいた青年は、いまでは既製服とはいえ立派なスーツを着ている。きらめく金髪はきれいに整えられ、あざやかな紺碧の瞳は深い知性をたたえていた。

     だからちょっと見たところ、立派な紳士に見えるレイモンドを見上げ、フィンは唇をほころばせた。

    「お疲れさま、兄さん。時間は大丈夫?」

     心からの労りを込めてそう返すと、レイモンドはふわりと微笑み返してきた。

    「ええ、大丈夫ですよ。ただ、食事が出来るほどの余裕はありませんからね、さっさと乗合馬車に乗ってしまいましょう」

     そう言いながら、レイモンドはフィンの肩を軽く抱き寄せた。素直に身を寄せたフィンは、誘導されるまま、歩き始める。
     するとまもなく、ささやきのような声がフィンの耳に届いた。

    「今回、招待を受けた交霊会の主役である霊媒師は、ヴェールで常に顔を隠している若い女性だそうです」

     きらりと瞳をきらめかせたフィンは、レイモンドと同じように前を向いたまま、唇を動かす。

    「ヴェールの下の素顔を見た人物はいない?」
    「ええ。使用人らしき人物をいつも連れ歩いていて、すべての雑事はその使用人にさせているようです」

     ふうん、と気のない答えを返しながらも、フィンは衝動をこらえるようにぎゅっと拳を握った。めざとく気づいたレイモンドがなだめるように、とんとんと肩を叩く。

     まもなくやってきた乗合馬車に乗り込んで、ほんの十五分ほど、がたごとと走った先は、ボッシュ地区にある郵便局だ。代金を支払って馬車から降りたレイモンドは、しっかりフィンの手をつかんだまま、細い路地のひとつに足を踏み入れた。街灯の光も届かない路地を、落ち着いた足取りで進み、倉庫のような建物の前に立つ。

     窓から黄色い光がこぼれ落ち、歓談している人々の姿が見えた。

     思わずフィンはレイモンドの手を握った。ちいさく微笑んだレイモンドは力づけるように握り返し、ポーチへと進む。
     扉を開けば、玄関ホールの中央に、いかめしい顔つきの使用人が立っていた。

    「いらっしゃいませ」

     慇懃な態度で頭を下げる男に、レイモンドは懐から取り出した二枚の招待状ーーおそらくアレックス・アビントン、レティシア・アビントンと書かれているーーを手渡した。使用人は招待状を確認し、フィンを見たときに珍妙な表情を浮かべたが、そのままおとなしく場所を譲った。堂々と奥の部屋に進みながら、レイモンドがフィンにささやきかける。

    「だから今日くらいは、普通の格好をしてくださいと申し上げたでしょう」

     困ったような声に、フィンはつんとあごをそびやかして応えた。

    「お忍びだったら、どんな夫人でも変装するに違いないよ。だからこれで充分」
    「あのですね、普通のご婦人は、変装するにしても男装は選びませんよ。はしたないと敬遠します」

     つまりは普段から男装しているフィンははしたないと言われたも同然だったが、そのあたりは都合良く聞き流して、フィンは入り込んだ部屋を見回した。まだ予定の時間になっていないため、ろうそくの灯りが明るく室内を照らしている。一見したところ、豪華な内装の部屋だが、よくよく見れば壁紙の一部がはげているし、敷かれた絨毯もわずかに色あせているようだ。

     だが部屋に集まった紳士淑女は、その怪しさまでも楽しんでいる様子で、なごやかに歓談している。ふと、フィンのまなざしは部屋の片隅にあるテーブルに留まった。どうやら飲み物や軽食が用意されているようで、忘れていた空腹を思い出した。

    「言っておきますが、飲食は禁止ですよフィン」

     どうやらフィンのまなざしが向かう先を追いかけたらしい、レイモンドの忠告がすばやく耳に滑り込んできた。

     つい素直に眉をしかめたが、フィンだって飲食を禁止された理由はわかっている。

     これからこの部屋で交霊会が行われる。二人にとって、十中八九、インチキだとわかっている交霊会だからこそ、用意されている食物には気をつけなければならない。幻覚作用のある阿片などを混ぜている可能性があるからだ。

     しかし頭で理解していても、盛大に訴える空腹を抱えていれば、つい、まなざしで追いかけてしまうのはしかたがない。ましてや、他の人物は楽しそうに、飲み食いしているのである。フィンは恨めしげにレイモンドを見上げ、ため息をつかせた。

    「我慢してください。帰りにアレクの店に寄りますから」
    「……遠くの安心より近くの満足ってことば、知ってる?」
    「はいはい。空腹なんだとよーく理解いたしましたから、妙な標語を作らないでください。ほら……主催者がお目見えですよ」

     そのことばの通りに、小太りの男がヴェールをかぶった女性を従えて、部屋に入ってきた。

     さざ波のようなざわめきが静まり、皆、それぞれの席に着席する。フィンもレイモンドと共に、偽名が書かれた席に腰掛けた。円形のテーブルに腰掛けた貴顕紳士がたを見渡した主催者の男は、ちいさくうなずき、もったいぶった様子で口を開く。

    「紳士淑女の皆さまがた、本日はようこそお集まりくださいました」

     ふうん? と男のことばを聞いたフィンは、ちょっとばかり驚いた。
     なぜなら男のエクレーシア語には、まったく訛りがなかったからだ。知らない人間がきけば、上流階級の人間だと言っても通じそうなほど、なめらかにうつくしいエクレーシア語を操りながら、男は隣に座るヴェールで顔を隠した女性を紹介した。

     ただまあ、きれいなエクレーシア語を話したとしても、男の身の上を物語るものではない。見たところ、南方の血が流れているようだし、もしかしたら外国人の可能性もあるのだ。だからフィンは、そうそうに男への関心をなくして、霊媒と紹介された女性を見た。すでに室内の灯りは落とされているから、黒いヴェールに隠された素顔は見えない。

     それでも目をすがめて、フィンは霊媒の女性を見つめ続けた。ほんの少しでもいい、ちらりと素顔を見たい。その一心で、フィンは霊媒師に注目し続けた。こつこつとテーブルを叩く音が響いたり、だれも手を触れていないのにテーブルクロスがふわりと浮き上がる奇跡を目の当たりにして、紳士淑女がそれぞれの反応を示しても、フィンはひたすら霊媒師を見つめ続けた。

     そうしてついに、ほんの一瞬だけ、ヴェールがめくれ上がって霊媒師の素顔が見えたとき、フィンは失望のため息をついた。

     ヴェールの下にあった素顔は、黒い髪黒い瞳と、浅黒い肌をもつ、うら若き乙女だったのである。

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