1−5

     時間は少しさかのぼり、フィンとレイモンドが交霊会に参加していた、ちょうどそのころ。

     帝都カーマインの中心にある皇宮において、エクレーシア帝国でもっとも多忙とされる人物が、バルコニーに進み出ていた。

     皇太子エドガー・アーヴィングである。エクレーシア皇族に共通する、黒髪と紫瞳という特徴を持つ美丈夫で、今年、二十四歳になる。皇室の伝統に則って陸軍に所属しながら、ラディウス公として母クリスティーナを補佐する毎日を送っている。

     この日は、内々に催された舞踏会があった。どんな名目で催された舞踏会だったか、さほど関心を払わなかった皇太子は覚えていない。とはいっても、女帝が集めた招待客が年頃の令嬢たちだった事実から、さすがに母親の思惑を悟っていた。心配性の母親を困ったものだと考えながら、完璧に礼儀正しい、だがつけ入る隙のない、公平な態度で令嬢たちをもてなした。

     そうして一人の令嬢を連れ、バルコニーに出た皇太子は、ひんやりとした夜気に素顔をさらして、短く息を吐き出した。

    「お疲れのようですね、エドガー殿下」

     くすくすと笑いながら、皇太子の従妹でもあるヴィクトリア公爵令嬢が話しかけると、皇太子は恨めしげに見返した。

    「まるで他人事だな。あなたがさっさと婚約を決めてしまったからこそ、わたしが苦労しているとは考えないのか」
    「申し訳なく思っております。ですから、あの場から逃げ出す口実になってさしあげたでしょう?」

     困ったように微笑み、まるで弟に対するようにヴィクトリア嬢がたしなめると、皇太子はふてくされた様子で横を向いた。

     この場に二人きりだからこそ、あらわにできる身内への反応を見て、ヴィクトリア嬢ははんなりと苦笑したようである。そっぽをむいていても、従妹の変化を気配で感じ取った皇太子は、諦めたようにため息をついた。バルコニーに背中を預け、

    「わたしなりに、皇太子妃にふさわしい令嬢を選んでいるのだがな……」

     ぼやくようにつぶやけば、皇太子の隣に歩み寄ったヴィクトリア嬢が扇で口元をおおいながら、言葉を返してくる。

    「エイドリアン伯父さまの件がありますもの。陛下も不安なのではないでしょうか」
    「誠実で優しかった伯父上の醜聞は、いまなお、母上を縛りつけているわけか。やれやれ、はた迷惑なものだな、『魂を分かつ運命の恋愛』とやらは。当人同士で盛り上がるのは結構だが、せめて善良な子孫を巻き込まないでほしいものだ」
    「殿下。おそれながら、善良な子孫という言い回しは、たいへん図々しい物言いでございます」

     帝都劇場のポスターに書かれていた宣伝文句を用いて盛大に嘆いた皇太子を、ヴィクトリア嬢はいたずらっぽくたしなめた。

     にやりと皇太子は笑い返し、そうして、二人の気配はたちまち様子を変えた。

     くるりと身体の向きを変え、庭園に視線を向けながら、皇太子は短く「報告を」と告げた。さきほどまで漂わせていた、呑気そうな気配はもう跡形もない。対するヴィクトリア嬢もしとやかにまなざしを伏せながら、神妙な声音で応える。

    「皇太子殿下のご懸念通り、植民地を直轄統治するという案は、次の議会で否決される運びとなっております」
    「覆すことは?」
    「残念ながら、不可能ではないかと。それと申しますのも、時期が悪すぎました。今年初めに起きたガンナの反乱、および移民たちによるテロ活動に関する記憶がまだ、議員たちを尻込みさせているらしく、いまは内政に力を割くべし、との意見が多数を占めているのです。搾取ではなく懐柔を。そのような主張が増え、お言い付けに従って広めようとした、勅許会社ではなく本国政府による直轄統治に切り替えて徹底的に搾取をはかろうという声は、だんだんと少なくなってきておりますわ」
    「植民地無用論はもう、完全に鳴りを潜めたと思っていたんだがな。なかなかどうして、日和見主義はけっこう根強い」

     皮肉に笑った皇太子は、しかし、内心のいらだちを示すかのように、とんとんと人差し指でバルコニーを叩いた。

     ただいま入手した情報を、脳内にある情報と織り交ぜ、今後の対応を検証していく。

     皇太子はエクレーシア帝国の統合をより強化する必要を感じている。なぜなら時代はすでに、エクレーシア帝国に追いついているからだ。軍事力を背景に、他の民族や国家を積極的に侵略しようとする帝国主義は、列強諸国にも広がっている。

     だからこそ、エクレーシア帝国の支配力を強め、軍事力を強化したい皇太子にとって、植民地の直轄統治案が明日の議会によって否決されるという情報は、いまいましいものだった。

     どいつもこいつも自国の状況をわかっていない。こみあげる苛立ちのまま、そう言い捨てたくなったが、そんなことをしても自分の気が済むだけである。八つ当たりはまったく生産的ではないと理解している皇太子は、強く頭を振って苛立ちを振り払った。ずっと沈黙したまま傍に控えている従妹に、不屈の意志を感じさせる笑みを、ちらりと閃かせた。

    「また、一から根回しするか。……まったく、骨が折れる」

     皇太子の理解者であり、また、側近でもある公爵令嬢は、労るような微笑みを浮かべていたが、ふと紅い唇を引き締めた。

     なにごとかと眉をひそめた皇太子に、「ひとつだけ、気になる情報がございます」と、なぜかためらいがちに告げた。

    「今回の否決は、貴族院の議員たちが意見を翻したからなのですが、」
    「ああ。ダリル叔父からの接触は確認できなかったという報告を受けていたな。それが?」
    「調べてみたところ、奇妙な共通点がございました。近親者が心霊主義に傾倒しています」
    「……心霊主義?」

     なんだそれは、と言わんばかりに、皇太子はぽかんと間抜けな表情をさらしてしまった。

     いや、意味は理解している。この世界に存在する、形をもたない、だが愛と光に満ちた霊を呼び出して、迷える自分たちを救ってもらおうという考えのはずだ。念のために確認すると、従妹は苦笑を浮かべながらも首肯し、さらに皇太子の知らない情報を補足しにかかる。

     つまり、皇太子にしてみたら砂糖菓子のように甘ったるいだけと感じる心霊主義を、いまのエクレーシア帝国では、老若男女を問わず信じる者は多いと教えたのだ。

     現実主義者である皇太子は、呆れてぽかんと口を開ける。

    「ちょっと待て。愛と光に満ちた霊と言っても、……しょせんは幻だろう?」
    「その通りですわ、殿下。霊媒と呼ばれる、その、霊との仲介者が、そう語っているだけに過ぎません。愛と光とやらに満ちているためか、霊はまったく、常人の目に映りませんものね」

     皇太子の身も蓋もない確認に、同じくらいざっくりとした表現で、公爵令嬢は応えた。

     まだ困惑して首を傾げている皇太子に、聡明をもって知られるヴィクトリア嬢は、ゆっくりと説いてきかせるように教えた。

    「ですから心霊主義者と言っても、実際は、霊媒や心霊博士を騙る詐欺師たちのカモということですわ。多くが詐欺師たちの言うがまま、愛と光に満ちた霊の加護を受けるため、寄付をはずむとか。どうやら善良な紳士淑女がこの世には多いようです」
    「善良と書いてまぬけと読むか。やれやれ、詐欺師たちがほくそ笑む姿が目に浮かぶぞ」
    「ーー問題は、心霊主義者たちの行動が、霊媒師たちに支配されている、という事実なのですわ」

     心霊主義者たちへの呆れを隠そうともしない皇太子だったが、ヴィクトリア嬢のことばを聞いて、鋭く表情を引き締めた。

     そういうことか。唇だけでそうつぶやいた皇太子は、いまいましい気持ちを噛み締める。

     ようするに、こういう図式だ。なにものかの指示を受けた霊媒師が、議員を近親者にもつ心霊主義者たちに近づく。そうして霊の導きという名目で、議員たちの仕事に口を挟むように導く。もちろん、詐欺師たちは警戒や疑惑を招かないよう、幾重にも耳障りのよいことばをささやいたに違いない。たとえば、植民地支配を受ける人々も、我々と同じ人間なのだ、とか。非道な支配は憎しみの循環を招く、とか。まちがいなく、善良なカモたちを、ころりと参らせることばだろう。

     唇を引き結んで考えに沈んでいた皇太子は、唐突に微笑み、傍に控え続けている従妹を見返した。

    「しかし、つくづくと惜しい。あなたが皇太子妃になってくれたのなら、わたしも善良なまぬけでいられたのだが」

     今年の春に、伯爵家の嫡男との婚約を整えた令嬢は、皇太子の軽口に対して、艶然たる微笑を返した。

    「お許しくださいませ、殿下。わたくしとて、しょせんは愛に生きる女に過ぎませんの」

     幼いころからかわいがってきた従妹に、ぬけぬけとのろけられた皇太子は、ただ、軽く肩をすくめた。

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