2−1

 まだ薄暗い石畳の道を、フィンは懸命に走っていた。

 前夜の疲れが出たのか、少しばかり寝坊したのだ。ちいさな寝坊だったはずが、朝ごはんを一日の基本と考える兄に引き止められたために、結構な遅れになっている。それでも貸本屋の開店には間に合うが、開店前の準備をおろそかにしたくないため、忙しなく手足を動かしていると、同じく出勤途中らしい顔なじみや常連として付き合いのある店主たちが声をかけてきた。

「おーや、フィン。いまごろご出勤かね」
「おはよう! 林檎もっていく? おまけしてあげるわよ!」

 朝の挨拶は大切である。焦る気持ちをきれいに隠して、「おはよう!」「またねー」などと返しながら、フィンはようやくマッシュ地区セント・クレア・ストリートにある仕事先に着いた。赤い煉瓦の、三階建ての建物だ。遠くからでも目立つこの建物は、一階部分が店舗になっている。看板はふたつ並んでおり、大きな看板には「アクトン薬局」と書いてある。そして隣の小さな、でも新しい看板には「ジョン・ナッシュ貸本屋」と書いてある。こちらが、フィンの仕事先だ。

 すうはあ、と、深呼吸して呼吸を整え終えると、そろそろとフィンは扉を開いた。扉の上部分についているベルが鳴らないように、そっとそっと開けたのだが、小賢しい努力ははっきり言って無駄だった。

「よお。ようやくきたか、ちびすけ」

 いつも隣の薬局で働いている店主、ジョン・ナッシュがカウンターのなかから、めざとく声をかけてきたからだ。

 ぼさぼさ髪に無精髭が目立つ風体だが、野性的に整った容貌のおかげなのか、見苦しい印象はない。事実、隣の薬局には彼目当ての女性客も多いと聞く。フィンにしてみれば、年ごろの娘をちびすけと呼ぶ、デリカシーに欠ける人物なのだが。

 いつものように、ちびすけじゃありません、と言い返したくなったが、なにしろ遅刻した気まずさがある。ぐっとこらえて、まずはキャスケット帽を外しながら、ぺこりと頭を下げ「遅くなって申し訳ありません!」と詫びた。どんな理由があろうとも、遅刻は遅刻。きちんと筋を通しておかなければならない。

「ああ、ああ。いい、気にするな」

 当然の謝罪を、適当に手を振ってやり過ごした若い店主は、にやりと笑って身体を乗り出してくる。

「で、どうだった。昨日の交霊会は。霊媒師は美人だったか?」

 好奇心にあふれた問いかけに、頭を上げたフィンは苦笑した。

 これだからなあ、と呆れとも感心ともつかぬことばを思考のなかでつぶやきながら、カウンターのなかに入ったフィンは、ジョン・ナッシュが進めている開店前の準備を引き継いだ。朝いちばんに届いた新着書籍の包装はもう外されていたから、カウンターに書籍を並べて、書籍の目録に書名や著者名などの情報を書き写すという作業だ。

 そうしながら、昨夜に見た霊媒師を思い出す。そうですねえ、と、もったいぶった間を置いて、わくわくと期待に満ちたまなざしで答えを待っているジョン・ナッシュに告げる。

「顔が見えたのは一瞬でしたけど、なかなかエキゾチックな人でしたよ。たぶん、南大陸のひとだろうと兄は言ってました」
「ほほう。南から訪れた神秘的な美女か。か弱い女に過ぎない身で、遥か遠き、このエクレーシア帝国を訪れるまで、どのような物語があったのか……なかなかにそそられるな」

 ジョン・ナッシュはあごに手を当て、にやにやと笑いながらつぶやく。

 エキゾチックな人としか言っていないのに、なぜか神秘的な美女となっている。おまけになにやら妄想もしている。思わず呆れたフィンは、冷淡に目を細めて突っ込んだ。

「店長。顔がスケベになっています。引き締めて、引き締めて」
「む、いかん。おれめあてに店にやってくる、ご婦人がたの夢を壊してはまずいな」

 なにやら自意識過剰なことばを吐いているが、いつものことだし、とフィンは聞き流しながら、指を動かした。

 もっとも重要な開店準備をフィンが引き継いだため、どうやら手持ち無沙汰になったらしいジョン・ナッシュはカウンターから出て客用の椅子に腰掛けたようだ。がさがさと新聞を広げる音が響いたから、薬局での日課を貸本屋でするつもりらしい。

 床を掃くときに邪魔になるけど、そのときは移動してもらえばいいか。そう考えながらさくさくと目録を作っていると、しばらくして「ほほう」という意味深なつぶやきが聞こえた。わざとらしい声だ。そう思いながらも、口を開いて訊ねる。

「なにか面白い記事がありましたか」
「昨日、犬が猫を産んだ」
「そうですか、はいはい」
「というのは冗談で、またもやクリスティーナ陛下が、皇太子妃を選ぶための舞踏会を開かれたそうだ。ふふん、相変わらずゴシップにはめざといな、『ゾイロス』は。……『皇太子エドガー殿下は、今年の春に婚約を整えたカウェン公爵令嬢と踊り、バルコニーで長い時間、二人きりで過ごした』……まーだ、自分を振った女を追いかけてるのか、皇太子殿下は。やれやれ、やんごとない身分のかたの想い人も大変だな」

 たしかに、追いかけられる公爵令嬢も大変だろうが、顔も名前も知らない一帝民に好き勝手に批判される皇太子も大変だ。

 率直にそう考えたフィンだったが、同時に、ずしんと胸底が重くなった感触には気づかない振りをした。カウェン公爵令嬢、皇太子エドガー。どちらもフィンにしてみたら、無関心ではいられない人物である。姉の恋に、そして両親の罪に関わる人物だからだ。

 だから、あくまでも自然な態度を装いながら、さりげなく話をそらしにかかった。

「いちばん大変、というか、この場合、面目の立たない人がいますよ。カウェン公爵令嬢の婚約者は?」
「あー。そうだな。いや、書いてない。たぶんスルーされたんじゃないか。そもそも舞踏会に招待されていない可能性もあるだろ。……って、陛下はなんで、皇太子妃を選ぶための舞踏会に、婚約を済ませた公爵令嬢を招いたんだろーなー?」

 そのあと、アンドレアスに訊いてみるか、と、ジョン・ナッシュが続けたものだから、ぐ、とフィンは眉間にしわを寄せた。

 そう。エクレーシア帝国でもっとも有名な探偵であり、同時に、フィンの両親を処刑台へと送った人物は、ジョン・ナッシュの知己でもあるのだ。先日、アンドレアスが貸本屋を訪れたから、明らかになった事実は、フィンを妙に不安定にさせる。

 もっとも、不安定になるフィンの態度を、恋愛至上主義傾向のあるジョン・ナッシュは多いに誤解していた。わざとらしい声音でアンドレアスの名前を出したあと、にやりといじめっ子の表情を浮かべてフィンを眺めているから、先手を打ってみる。

「スペンサーさんですか。店長は本当に、あのかたがお好きでいらっしゃいますよねえ」

 意味深な含みをもたせながら、とびっきりの笑顔で言い返したのである。

 はたして、ジョン・ナッシュはおおきく眉をしかめ、楽しそうだった表情をとてつもなくいやそうな表情に浮かべ直したものだから、フィンの溜飲は清々しいほど下がった。

「好きじゃねえよ。ただ、もっているコネは有効活用しようと考えているだけであってだな、」
「さーって、目録作りも終わったことだし、掃き掃除をするかなーっ。あ、店長、邪魔ですから適度に移動してくださいね」
「聞けよ!」

 聞こえているが、聞いてやるものか。
 にこやかな微笑みの裏で、フィンはほくそ笑む形でつぶやいている。

 いつもいつも、アンドレアスと自分の関係を妙に勘ぐってからに。たまには痛くもない腹を探られる居心地の悪さを思い知るがいい。レイモンドが聞けば盛大に嘆きそうな、悪態を思考のなかでつぶやいたときだ。からんからんと扉のベルが鳴った。

 え、と、あわてて時計を確認したところ、まだ、開店時間にはなっていない。しかし視界の隅っこに、たちまち楽しそうな表情を浮かべたジョン・ナッシュが映った。いやな予感が過ぎる。それでも愛想笑いを浮かべて振り返れば。

「ジョン・ナッシュ。彼女を、借りてもいいか」

 そこには、いつものように完璧な貴公子のような佇まいの、うるわしのアンドレアス・スペンサーが立っていた。

タイトルとURLをコピーしました