(11)

 ところでわたしは、夕食を食べるために八区に向かったのだった。
 おまけに夢中になって走り抜けたから、いま、お腹の音がすごい状態になっている。

 ぐーぐるるるーぎゅっぎゅっぎゅーう。

(どんな時でもお腹は空くのね……)

 人類としてはしかたないんだけど、なんとなく、がっかりだ。

 哀しい気持ちは変わらないのだけど、それはラウロに嫌われたからではなくお腹が空いたからと云う理由に移行しつつある。おまけにまだ八区にいるから、空腹を刺激するいい匂いがあちらこちらから漂うのだ。ますますひもじく感じて、膝を抱えていたわたしは余計に小さく縮こまった。

 どうしよう、と、考えている。妹たちは心配しているだろう。だから元の公園に戻らなくちゃ、と感じているのだけど、ラウロと顔を合わせてしまったら、と考えると憂鬱だ。

 また、顔を背けられてしまったら? そうしたらわたし、今度こそ、泣き出してしまうかもしれない。公共の場で泣き出すなど、迷惑極まりない行為だ。でも戻らないわけにはいかないし、と考えながらうずくまっていると、ふ、と目先に影が落ちた。

「おやおや。妙に気になる娘さんがいると思えば、ラウロの彼女さんじゃないかね」

 なんだか気取った声音が聞こえる。顔をあげると、今日も今日とて、きらきらしい恰好をしたあの男が立っていた。ええと、たしか名前は、カットゥロ。カットゥロ・アッバティーニと名乗っていた人物だ。少し前までなら大歓迎な出会いだったのだけど、いまとなっては面倒としか感じられない。ふう、と、息を吐いてわたしは再びうつむいた。

「待て待て待てぃっ。娘さん、なぜにそう、投げやりな態度なのかねっ」
「お腹が空いているの。放っておいて」
「なにそれはいけないっ。だったら我がコンモツィオーネにやってきたまえ」

 さあさあさあっ、といちいち体をくねらせながらカットゥロはわたしに対して手を差し出した。大きな手だけど、わたしが取りたい手はこれじゃない。そう考えてしまって、いっそう切なくなってしまった。

 ゆらゆらだ。お腹が空いて悲しい気持ちと、ラウロに嫌われて哀しい気持ちがゆらゆら、わたしのなかで揺れている。ふ、と息をついて、カットゥロはわたしの隣に座り込んだ。きれいな服を着ているのに、と、ちょっと驚いて隣を見つめると、意外なほどやわらかな微笑を浮かべてカットゥロはわたしを眺めていた。

「どうしたのかね? ラウロと喧嘩でもしたのかな」
(ああ、この人、年上の男の人なんだなあ)

 ぼんやりと見つめ返したわたしが考えたところと云えば、そんなところだった。

 わたしはカットゥロに対して、乱雑な対応をしていたと思う。失礼だったと思う。それなのにカットゥロは気にしたそぶりもなく、わたしに向かってくれている。なんだか申し訳なくなった。謝ってもいいのだけど、あいにくと、そういう雰囲気じゃない。だから問われた内容に、正直になって応えることにした。

「……ラウロに、嫌われたの」
「ほほう?」

 するとカットゥロは苦笑したように、瞳を細めた。

 穏やかに続きを促されて、ぽつぽつ、と感じたところを口にする。仕事の関係で二週間近く店に行けなかったこと、ようやく行ったら店が閉まっていたこと、あきらめて帰ろうとしたら公園で屋台をしているラウロを見つけたこと、駆けつけようとしたらラウロに目を背けられたこと。

 だんだんとカットゥロの苦笑が深まっていく。わたしはといえば、少し恥ずかしい気持ちになっていた。なんだか過敏反応していたように感じている。そもそも二週間、店を訪れないからと云って客を嫌う店主なんて、聞いたこともない。ありえない。ラウロはたしかにわたしから目をそらしたけど、他にも理由があるんじゃないかって、ようやく冷静になった頭がささやいてきた。

「落ち着いたかな?」

 見通したように、カットゥロが訊ねてきた。うん、と頭を動かせば、ぽんぽん、と頭を叩かれた。アレクセイ王子と云い、ラウロと云い、最近、わたしの知り合いとなる人はなぜか、わたしの頭を叩く人が多い。そんなに子供っぽく見えるのかしら、と考えながら、乱れた髪を整える。ぎゅーっぎゅっぎゅっぎゅー。落ち着いたら、また、お腹が盛大に鳴った。カットゥロは軽く笑って立ち上がり、小首をかしげてわたしを見下ろした。

「お腹がずいぶん減っているようだ。満たしたいのなら、わたしの店に案内するが?」
「ううん、いい。これからラウロの店に行って、お腹いっぱい、マリナーラを食べるの」

 はあっ、とカットゥロはおおげさに首を振って見せた。嘆かわしいよ! と、例の調子で告げた彼に対して、わたしはもはや邪魔だなあと云う気持ちを抱かなかった。

 たぶん、本当のカットゥロは、落ち着きのある大人だと感じていたから。それから押し付けがましい態度を取らずに、話を聞いてくれたいまの対応に、感謝していたから。

 だからにこにこ笑って、カットゥロを見あげた。

 ありがとう、と、告げようとしたときに、「カールーシャ!」と呼びかける声を聞いた。この声は。ぱっと嬉しくなって、声がかかってきた方向を振り向いた。ああ、やっぱり。そこに立っていたのは息を切らせているラウロだった。ぱたぱたと駆け寄ると、ぐい、と、手をつかまれラウロの後ろに引き寄せられた。ちょっと乱暴なしぐさに目を白黒させていると、ラウロはまっすぐにカットゥロを睨んでいる。カットゥロはちょっと目をみはったけど、ふふん、と前髪を揺らした。

「こわい顔だ、ラウロ。いったいどうしたというのかね?」
「……こいつになにをしていやがった」
「ラウロ?」

 ひょい、と顔を出して、ラウロの横顔を見あげた。驚いた。怖いくらいに険しい表情を浮かべて、ラウロはカットゥロを睨んでいる。以前には無かった険しさだ。カットゥロに困らされていたようだったけど、カットゥロにはかすかな親しみを抱いていたようなのに。

 おやおや、と、カットゥロが首を振る。

「わたしがなにをしたというのかね? お腹を空かせてうずくまっていた娘さんの話を聞いていただけじゃあ、ないか。兄弟子に対し、そう突っかかるものではないよ」
「だれが兄弟子だ! 師匠の、師匠の店をつぶしたくせに!」

 飄々とした調子で云われた言葉に、ラウロは叩きつけるように憤りをぶつけた。

 わたしは目を真ん丸にする。ラウロとカットゥロを見比べて、ふ、とカットゥロの眼差しが翳るさまを見た。ラウロは気づいていない。いや、あるいは気づいたのだろうか。けれど気づいたとしても、気にしていられなかっただろう。なぜならカットゥロは、ふふん、と鼻で笑って胸を張って見せたからだ。

「人聞きの悪い言葉を云ってくれる。師匠の店をわたしがなぜ、つぶすのかな」
「知るもんか! 確実にわかっていることはっ、」

 感情的になったラウロは、けれどそこで、はっと我に返ったらしい。

 く、と低くつぶやいて顔を背ける。かと思えば、わたしの腕をつかんだまま、すたすたと歩き出した。「ラウロっ?」、呼びかけたけれど返事はない。妙に気になったから、カットゥロを振り返れば、どことなく哀しみをたたえた眼差しでラウロを見つめていた。

(なにがあったんだろう……)

 不思議に感じながら、わたしはもう一度、ラウロの横顔を見あげた。
 頑なに唇を結んだ横顔は、憤りではなく哀しみに染まっているように見えた。 

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