彼は穏やかに笑って喪失を受け入れた。いつものように。
建物の外に出れば、ひんやりと心地よい風が髪を揺らした。空を見上げれば、満ちた月と星が煌めく。
(よい夜だ)
唇がたわいなくほころび、充足した吐息がこぼれた。
腹は心地よく満ちている。ならば一杯、飲むことにするか、と、わたしはゆっくりと歩き出した。いままで滞在していた店では、酒は出さない。
それは当然だろう。なにせオーナーは、かよわい女性なのだ。万が一、酔漢が暴れ出したとしても、対処する術はない。夜に経営する料理店としては珍しい部類だろうが、少なくともあの店に通う人間は、そのルールを理解している。理解したうえで、それでも通っているのだ。いまさら文句など云うはずもない。
(エマの血統か)
ひさびさにわたしを満足させる料理を作った娘を思い出す。異世界の娘。エマと同じ、<完璧たる種族>だ。そして紅茶色の髪、瞳、小作りに整った顔は、初めて会った頃のエマにそっくりだった。
もっともエマは慎み深く長く伸ばした髪を結いあげていたが、あの娘は肩ほどの長さに切りそろえている。この世界ならば、はしたないと眉をひそめられる長さだ。だが、不思議と似合っている。わたしは小さく笑い、そして再び夜の空を見上げた。変わらず輝いている月、そして星。
(だがおまえはもうこの世にはいないんだな。エマ)
あの娘を見た瞬間に、気づいた。
無理もないことだ。最後にエマに会って、再びあの料理を味わおうと考えるまでに、数十年という歳月が流れている。それはわたしには長いとは云えない歳月だが、<完璧たる種族>であるエマには長すぎる歳月だ。失念していた。おそらく彼女は、わたしが見ないうちに伴侶を迎え、子供を産んで、年老いたのだろう。
ふと左胸がきしむような感触を覚えた。唇は自然に弧を描いている。この瞬間に涙を流すことができたら、わたしもエマと同じ<完璧たる種族>になることができるだろうか。たわいもない思考に惑わされそうになり、弧を描いた唇を、今度こそ本物の笑みに変えた。
不可能なことを考えた。ばかばかしい。
泣くことも出来ない身ではあるけれど、それでも知人を悼む気持ちはある。
エマ、今宵はおまえのために杯を傾けよう。