6・正論からトンズラ
忘れてました。そろそろ母さんがこちらに来るって。
たらりと冷や汗がこめかみを流れ落ちる。ぎらりと腰に手を当てて睨んできた母さんは、ところどころ金の筋が混じる茶色の髪と、黒い瞳をしている。祖父から受け継いだものだ。幼い頃は祖母の髪に憧れたこともあったのよ、とわたしの髪を撫でながら寂しげにつぶやいたこともある。
だが、いまの母さんからは、そのような殊勝な態度は想像できまい。きりりと眉を逆立たせている形相は、学校の規則を守れない生徒をさぞや怯えさせているんだろうなあと想像させるほどだ。つまり、こわい。
「忘れていた、と、云いたそうね?」
ひたすら言葉を失っていると、腕を組み替えた母親は鋭く突っ込んでくる。とんでもないと云いたいところなんだけど、こういう状態の母さんに云い逃れはできないのだ。大人しく頷くと、まったく、と忌々しげな言葉がこぼれる。
「東條さんがいなくなったと聞いて、こちらがどれほど心配していたと思っているの。警察への連絡や常連の方々への対応を、あなたにできるのかしらとやきもきしたからこそ、はやばやとあらゆる予定を逸郎に押し付けてこっちにやってきたと云うのに!」
ああ、やっぱり。
わたしはちょっと斜めにうつむいて、遠い日本で仕事に追われているだろう父親を想った。
ごめんなさい父さん、もう少し気遣えばよかった。
「聞いているの、橙子!」
「か、母さん。とりあえずアヴァロンの中に入ろうよ。ご近所さまにご迷惑だよ」
ぐいと耳を引っ張られて、あいたたと呻きながらそんなことを呟いてみた。そうね、と母さんはけろりと云ってのけ、わたしの耳を掴んだままアヴァロンに入って行く。いや、痛いから。放してほしいんだけど。
「で? このお皿はなに。まさかと思うけど、<あちら>の世界の住人を呼んだんじゃないでしょうね?」
時間的状況からすでに真実は悟っているだろうに、こういう時、母さんはSだよなあと思う。
「あー、話しの流れ的にそういうことに」
「あなたって子は!」
きぃんとその大声が響いた。からんと扉が開く。
「トウコ? 何を騒いでいるんだい?」
洗面に行っていたオリヴァーが戻ってきたのだ。
朝日が差し込む中、きらきらと輝かしい彼だったけど、本人いわく、父親一筋の母親は動じた様子はない。
「あなた、どなた?」
もしかして<あちら>の世界の住人だと思っているのだろうか、じっとりとオリヴァーを眺める母さんのまなざしはいかにも疑わしげなものだ。ちらりとオリヴァーの視線がこちらに向いた。わたしを見て、――正確には母さんに掴まれたままの耳を見てだろうけど――、表情を整えてかしこまる。
「失礼しました。オリヴァー・ルイス・エルバート・スタンフォードと申します。こちらにトウコさんがいらしてからですが、親しくさせていただいております」
するとようやくわたしの耳から母さんの指が離れて、こちらも丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ失礼いたしました。わたしは橙子の母、ダイアナ・タカツキと申します。この子に代わって、警察への対応をしてくださった方ですね?」
こういうとき、2人とも大人だなあと感じる。
それまでに繰り広げられた状況をまるきり無視して、先に挨拶することが出来るんだもの。わたしだったらこうはいかないよ。ともあれ少しばかり母さんから離れて、オリヴァーの方に身を寄せた。特に意味がある行為だったつもりはないけど、それを見咎めた母さんの瞳がきらりと光った。……こわいんですってば。
「それで朝早くからなにごとでしょう? もしや東條氏のことで新しくなにかが判明したのでしょうか」
「いいえ。電話でお話しした以上の事実は、まるきりわかっておりません。残念なことですが、警察関係者も彼の失踪に関しては首を傾げている始末です。まるで煙のように消えたようだ、と云う者もいるくらいで」
「そうですか。では朝食にでもいらしたのですか? ですが、ご覧の通り、アヴァロンは営業できる状態ではありませんの。それに現在、取り込んでおりまして」
母さんの視線がわたしに向かう。
愛想のいい表情をしているけれど、瞳が、瞳が笑っていません。たらたらと問い詰められているような感触に、やばいと心の中で慌てる。
実は、オリヴァーが<あちら>の世界を知っていると云う事実は、母さんに秘密にしているのだ。
理由はわかるだろう。母さんはアヴァロンの閉鎖を求めている。それなのに新たにアヴァロンの秘密を知る人間を増やしたことは、間違いなく怒りボタンを踏むことになる。わたしだって人間だ。怒られるとわかっていて、むざむざと事情を話したりはしない。
ところが、オリヴァーはそんな事情など知りはしないのだ。にっこりと笑顔を浮かべて云ってくれた。
「それは、トウコさんが<あちら>の世界の住人に料理をふるまったことを仰っているのですか?」
*
(ひええええ)
その言葉を聞いた途端、母さんはすーっと息を呑んだ。大音量で吐き出すかと思われた罵声は聞こえない。でもふーっと深々と息を吐き出して、云った。
「橙子。どういうことか、説明なさい」
静かな、静かすぎる声音で呼びかけられてびくりと震える。
だめだ、本当に母さん、怒った。
母さんは感情的な人間で、怒ったときにはぎゃんぎゃん叫ぶ。それはうるさく叫ぶのだけど(ちなみに父さんは、そういうところが可愛いところなんだ、と云っていた。バカップルめ)、本当に怒ったときにはむしろ冷静になる。淡々と冷静に、相手の言葉の矛盾をついてくる。そしてこんこんと筋を通して説教するのだ。
ものすごく、厄介な人なのである。
わたしは諦めて、しおしおと母さんの前に出た。
黒い瞳は静かにわたしを見ている。オリヴァーも察することがあったのか、言葉をはさんできたりしない。ただ扉の付近に歩み寄って、開いたままの扉を閉じて、その前に立ちふさがった。お客さまが入って来ないように、という配慮だろう。母さんの瞳がわずかに動いたけど、わたしからずらすことはない。こくりと喉を動かして、わたしは母さんの瞳を受け止めた。
「昨日、向こうの世界の知人に、パーティーの依頼をされたの。オリヴァーはそれを手伝ってくれた」
ちらりと母さんの瞳がオリヴァーに向かう。
「つまり、あなたはおばあちゃんの秘密を、わたしたち一家に伝わる秘密を、この人に話してしまったのね? どうしてそんなことをしたのかしら」
「レシピの解読の手伝いをお願いしたから」
ぴくりと整えられた眉が動く。あのレシピ、と唇が動く。やがて忌々しそうに溜息をついて、云った。
「あのレシピ集を渡しなさい」
手のひらを差し出して、静かに催促してくる。
ピンときた。母さんは、レシピ集を処分する気だ。
根拠なんてない。でも母さんの雰囲気が語っている。
秘密を守っておけないなら。その云い訳の材料に使われるくらいなら、そうさせないようにレシピなんて処分してしまった方がいい。たとえ、それが先祖代々受け継いできた、母エマが遺してくれた品物を処分させる行為でも。
――母さんの張り詰めた空気が、そう語っている。
わたしはとっさに動いて、カウンター内に放置していたレシピ集を取り上げ、抱きしめた。母さんが眉を上げる。
「なんのつもりなの?」
「レシピ集を処分なんて、だめだよ母さん」
「そんなことを云えた筋なの?」
呆れきったように、母さんは言葉を紡ぐ。
「たしかにそれは、わたしがあなたに譲ったものよ。でもね、だからといっておばあちゃんたちの秘密を他人に漏らしていいという理由にはならないわ。それはわたしにとっても大切なレシピ集だった。だからこそそんな言い訳に利用しないでちょうだい」
母さんが歩みを進める。ぎゅ、とわたしはレシピ集を抱きしめた。ふう、とため息が洩れる。
*
「渡しなさい、橙子」
いやだ。わたしは首を振った。
母さんは無理強いをするような人じゃない。黙って手を差し出したまま、わたしがレシピを渡すのを待っている。きんと空気が張り詰めた。そして動いたのはわたしでもなければ母さんでもない、オリヴァーだ。
「わたしはあなた方の秘密を口外するつもりはありませんよ。あちらの世界に興味もない。それでも娘さんからレシピを取り上げようとなさる?」
扉近くに立ったまま。彼のよく通る声が響いた。
母さんはちらりとオリヴァーを見る。冷淡な表情だったけど、先ほどまでの愛想がまだ残っている。
「結果がどうであれ、この子が秘密を漏らした、という事実が問題なのです。このようなことは二度とあってはならないことですから」
「では結果とやらを広げることにしましょう」
母さんは眉をひそめた。わたしも「え?」と惚けた声を漏らして、オリヴァーを振り返る。彼は腕を組んでにっこりと優美な微笑を浮かべている。
「わたしには警察の知人と同様、マスコミにも知人がおります。彼らにこのアヴァロンがミステリーフィールドであると漏らしてみることにしましょう」
「なっ」
何を考えているんだ、オリヴァー!
わたしは慌てて、オリヴァーを見た。彼は微笑みを浮かべたままだったけど、その微笑はいつもと違う種類の微笑みに見えた。どこか、恫喝するような含みを漂わせている。ちょっと目を疑った。なんだか、いままで見たことがない彼の姿のように感じたのだ。
「呆れた」
やがて母さんがそう云うのが聞こえた。
でもその声音はなんだか温かい。今度はこちらを振り返ってみれば、母さんは唇に苦笑を浮かべている。わたしの視線に気づいて、ふ、と息を吐き出した。
「沈黙の代償は、母のレシピ集ですか」
ゆっくりと目を瞬かせている、わたしに事態を教えるように、母さんはさらに言葉を続けた。
「さらにそのレシピ集を娘に預けるおつもり?」
(あ)
遅ればせながら、ようやく2人が、オリヴァーが云わんとすることが理解できた。オリヴァーはただ、優美に微笑んでいる。ちらりとその視線がわたしを見た。
「いいえ、レシピ集の保管はわたしが」
ただ、と悪戯っぽく笑って続ける。
「トウコさんには解読にご協力いただくことになると思いますが、それも沈黙の条件としましょう」
つまりオリヴァーはレシピ集を守ろうとしている。<あちら>の世界のことを沈黙する、それは云われなくてもこれまで守ってくれていた了解だったけれど、わざわざそれを持ち出すことで、おばあちゃんのレシピ集の処分を免れさせようとしてくれているのだ。
そうするだけの理由なんて、彼にはないのに。
わたしは唇を開いて、そして、閉じた。
そろそろと腕を解いて、レシピ集を見下ろす。古い装丁の本を、まじまじと見つめた。おばあちゃんの、いや、おばあちゃんよりずっと昔のおばあちゃんたちから受け継いできたレシピ集だ。シャルマンたちをあんなに喜ばせてきた料理の作り方が書かれている。
だからこれは処分しちゃいけないものである。
でもその存在を危うくしたのは、このわたしなのだ。
沈黙するしかなかった。顔を上げる。こちらを見つめる2人を交互に眺めて、レシピを母さんに渡した。
「勝手なことをして、ごめんなさい」
そしてアヴァロンから、朝のロンドンに飛び出した。
*
なぜアヴァロンを飛び出した?
訊ねられても、答えることができない。なぜならわたし自身だってよくわかっていないからだ。ただ、足が走り出したのだ。
朝のロンドン、まだ人が少ない時間帯だと思っていたけれど、スーツ姿の人が結構行き交っている。真向いから真後ろへ、流れていく人の流れにあえて逆らう方向で走った。途中、人にぶつかることがあったけど、英語で詫びを云うゆとりもなく、わたしは進み続けた。
足を止めたのは、もうぐちゃぐちゃに歩いた後だ。
ここがどこなのかもわからない。でも小さな公園があった。やっと落ち着く場所を見つけた、そんな気持ちでふらふらとその公園に入り込んだ。ロンドンの公園はどこもきれいに手入れされている。翠色がとてもあざやかで、惹きつけられた。水辺にあるベンチに座り込んで、ようやく我に返る。
なにやっているんだろ、わたし。
本当になにをやっているんだ。筋が通っていないよ、と自分自身に語りかけて、ぶるりと震える唇に気付いた。まるで腫れているかのように熱い感触だ。あれ、と思ったとたん、まぶたが分厚くなった。涙を含んでいるのだ。そうと気付いた途端、ため息をついた。
仕方ない、泣こう。
めちゃくちゃな自分を自覚していたけれど、感情的に混乱していることくらいは察した。この場合は泣いてすっきりした方がいい。頭の中はそれでも冷静に呟いていた、でも体の方はそんな意見を聞き入れるまでもなく、怒涛の勢いで涙を流していた。声を抑える。
なんで泣いているのかなあ、わたし。
涙を流しながら考えていた。レシピ集の処分を求められたことが悲しかった? オリヴァーの手を煩わせてしまったことが申し訳なかった? それとも一方的に怒られていることに、考えて行動した自分の言い分を全く聞き入れてもらえなかったことが悔しかった?
そのいずれでもあるような気がしている。でもそう云い切ってしまうことに、同時に抵抗を感じた。
だってそれ、子供の論理じゃないか。
要は感情を満足させることができないから、飛び出してきたということになるじゃないか。情けない。もう来年には20歳にもなるというのに、それでいいのか、と追及したころに、ようやく涙が止まった。
ふう、と息を吐いて、ぐい、と涙をぬぐう。
すっきりした感覚がある。でも困った。ぐうっとお腹が鳴ったのだ。朝、ご飯も食べずに走り出して、さらには泣き出したのだ。泣くことには体力がいる。だからだ、と心の中でつぶやいた。そして立ち上がる。
「大丈夫ですか、エマの血統」
そのときだ。目の前の水面がさざめいて、すうっと透明な女性が浮き上がった。若い女性だ。目を疑った。だってまだ、朝なのに! 明らかに異世界にいるべき存在が、こんなに堂々と現れていいものなの、と、あわててまわりを見回した。くすりと笑声が響く。
「大丈夫です、わたくしを知覚できる者はこの場にはおりません。あなたは特別のようですけど」
ということはいまのわたし、はたから見たらひとり芝居しているように見える、ということか。
そろそろ公園には人の姿が見える。こちらに近づいてくる人も見えて、わたしはベンチに座り直した。不審者の目で見られてはたまらない。笑声が再び響く。
「似ていても、やはりエマとは違うのですね。エマはまわりのことなんて気にするような人ではありませんでした。むしろこちらが青ざめるくらい、いつでも堂々とわたしたちを気にかけていました」
「あなたは、いわゆる、その、水の精霊という存在?」
まるで水で作られたような、透明感のある生き物なのだ。ファンタジーものに出てくるような精霊と言われたら、納得するような存在感だったから声をひそめて訊いたのだけど、彼女はいいえ、と笑う。
「わたくしはただの幽霊ですよ」
あっけらかんと云われてしまって、朝から出没する幽霊ですか、という突っ込みをしそびれた。おまけに朗らかに笑う幽霊だぞ、おい。それに幽霊ってもっと陰鬱なものじゃなかったか。うらめしや~って感じで。
それにしてもわたし、イギリスに来てから体質でも変わったのかしら。日本にいるころには幽霊なんて見たことがないんだけどなあ、と考え込んでいると、彼女は軽やかに「何を考えています?」と話しかける。
まさかあなたが見える理由を考えています、なんて云えやしない。日本人らしくあいまいに笑った。
「おかしな人ですね」
でも、と、すうっと指先をわたしの背後に向ける。
「もっと、おかしな人がいます」
*
ぴしゃん。水音がひときわ強く響いた。
そうして姿を消してしまった彼女が指し示すまま、背後を振り返ったわたしは、そこに肩を上下させたオリヴァーを見つけた。ぽかんと口をあけて眺める。右手にレシピ集を持ったオリヴァーはすうっと息を呑み込んだ。そして、怒鳴った。
「この、ばか!」
(う)
思わずたじろいだ。ばさばさっと鳥がはばたく音が聞こえた。注目を集めているかもしれない。そんなことも思ったけど、確認できなかった。目をそらしたらまずい。そのくらいの判断はできていたからだ。
「ばかだばかだと薄々感じていたけど、きみは真正のばかだね、大ばかものだ。人がせっかく手助けをしているというのに、台無しにするようなことをよくもしてくれたものだ。おかげできみの母親相手にさらなる気苦労を味わった。徹夜明けで、疲れている、この僕がだよ? 感情的に混乱したのはいい、でもレシピ集は僕に預けてから立ち去ればいいだろう。まったく、」
そこでひときわ大きなため息をついて、乱れた金髪をかきあげた。しばらくそのままでいたけれど、やがて思いなおしたように、右手で抱えていたレシピ集をわたしに押し付ける。
「ほら。受け取って」
古びた装丁の、わたしのせいで危うく失いかけたレシピ集をみつめる。
「……受け取っても、いいのかな」
ぽつりと呟けば、オリヴァーは呆れた様子だ。
「きみ以外の、誰が? このレシピ集を受け取る資格を所有していると思うんだい。きみのお母さんは受け取らないよ。僕に委譲するとはっきりおっしゃったからね。さあ、」
そこでやさしくも意地悪げな、あの笑顔を閃かせる。
「エマの味を復活させるんだろ」
おばあちゃんの味を復活させる。
ゆるぎなく信じてくれている彼の言葉に、どうしようもなく泣き出したいような気持になって、驚いた。
もしかして、わたしが泣いたのは、おばあちゃんの味を復活できないかも、と思ったからだろうか。
ようやくその事実に思い当たって、わたしは壮絶に舌打ちしたくなった。うわ、想像以上に子供だわたし。
――エマの料理は、誰にも真似ができない。
ふと、唐突にその言葉が脳裏によみがえった。シャルマンの言葉だ。
昨夜、というのも変な云い方だけど、きっぱりとした響きで、彼はそう云い切ったのだ。
云われてしまったなあ、という感覚がある。
悔しいとか哀しいとか、そういう気持ちは不思議なほど生まれてこない。おばあちゃんの味を復活させたいと決めたのだから、そういう感情に捕らわれてもよかったはず。けれどむしろ、誇らしい気持ちになった。
(真似できない? そうでしょうとも)
だっておばあちゃんはわたしの憧れなのだ。
そう簡単に真似できるようでは困る。ごく自然な心の動きで思ったのだけど、それはもしかしたら、オリヴァー以上に傲慢な思考かもしれない。このわたしが目標とする人なのだ、そう簡単に追いつけるような目標では困る――つまり、そういうことだもの。
だからシャルマンの言葉は、確かにうれしかった。
けれど、同時に途方に暮れる。
復活させたレシピに従って調理した料理に対する評価がそれなのだ。
エマの料理は誰にも真似が出来ない。
つまり祖母の味を復活させることはできない。
今現在、閉店したままであるアヴァロンを想って、わたしはうつむく。東條さんはいない。そして食堂を閉鎖するつもりで母さんは日本から来た。おばあちゃんが遺した食堂は、もうおしまいなのだろうか。
(いやだなあ)
だって憧れていたおばあちゃんの食堂だもの。思考が呟きかけて、でもその言葉はどこか外れた響きになっていることに気づく。おばあちゃんの食堂だから?
違う。
わたしが、あの食堂を気に入っているからだ。
イギリスに来てから、ほんのわずかな期間しか経っていない。それでもあの食堂で調理をした。半獣半人の契約農家から食材を受け取って、吟味して、料理をした。その料理に、シャルマンを始めとする異世界の人たちが舌鼓を打つさまを見て、喜んでしまった。
このまま、ここで料理したいと思ってしまったのだ。
手を伸ばしてわたしはレシピ集を受け取る。馴染んだ感触に、ほっと息を吐いた。オリヴァーは表情を和らげる。そんな彼を見上げて問いかけた。
「あのアヴァロン、わたしがもらってもいいかな」
行方不明になってしまった東條さんではなく。
オリヴァーはちょっと眉を上げる。そしてにやっと笑って、わたしの額をぴんと弾いた。
「僕に云ってどうするんだい、トウコ?」
*
確かにオリヴァーの云う通りだ。アヴァロンを継ぎたいと云うことは、彼ではなく母さんに云うべきこと。
めちゃくちゃに走ってきて、現在の居場所が分からなくなっていたわたしは、オリヴァーに連れられてアヴァロンに戻ろうとしていた。すらりとした彼の背中に続きながら、わたしは必死で考え込んでいた。
でも、あの母さんが了承するだろうか。
以前、おばあちゃんが亡くなった時に同じことを云えば、反対された。それはそうだ、といまなら納得できる。なぜなら大学受験を放り出してまでアヴァロンを受け継ごうとしたんだもの。当時のわたしはまだ学生で、経験が圧倒的に足りなかった。任せられないと判断するのは当然のことだ。
けれどそれは、いまも同じじゃないだろうか。
いまのわたしは、大学一年生だ。栄養学部にいるけれど、まだ基礎を教わっている段階でもある。つまり経験不足という点では、以前と条件は変わっていない。
そういう状況で、たとえば大学を中退してでもアヴァロンを継ぎたい、と云い出したら、どうするだろう。たぶん、反応は同じだと思うのだ。
母さんは反対する。いや、今度は状況が悪い。任せられる東條さんがいないのだから、食堂を完全に閉鎖しようと考えるのではないだろうか。
(それはまずい)
母さんが何を考えているのか、正確なところがわからない現状で、もし考えなしに云いだしたりしたら、そういう状況に追い込むことになるのだ。慎重にならなくちゃ、と頭をぶるんと振った。とりあえずストレートに要望を主張することはやめておこう。
「何を考えているんだい?」
思ったより近くで響いた声に顔を上げれば、オリヴァーはわたしを振りむいて立ち止まっている。言葉は問いかけの形だったけれど、すでに答えを確信しているような表情だった。わたしはひょいと隣に並ぶ。
「どうしたら、アヴァロンを継げるか、ということ」
そして頭の中で考えていたことを、そのままオリヴァーに説明した。通行人の邪魔にならないように道路の端に寄って、オリヴァーは話を聞いてくれる。話し終えた後、あっさりと彼は云ったものだ。
「なら、きみが大学卒業するまでアヴァロンは開店できない、ということだね」
あまりにも簡単に云われるものだから、むしろわたしは戸惑った。でも云われた通り、親の希望とわたしの希望を両立させようとしたら、そういうことになる。
「その場合、問題となるのが閉店期間中のメンテナンス及び、店舗維持費だ。きみ、それに関して考えていることはあるの?」
いきなり鋭く突っ込まれて、言葉につまる。
そうか、お店を開く開かないを別にしても、現実的に考えていくには、経済的な対処が必要になるんだ。
たしかアヴァロンはおばあちゃんの持ち家だったと聞いたことがある。なら家賃はかからないと考えても、最低限税金を払っていく必要があるだろう。アヴァロンを継ぎたいと云うことなら、その間の税金も自分で払う心づもりでいないと説得力無いよね。
「参考までに訊きたいんだけど、その、家を所有し続けることによってかかる税金ってどのくらい?」
おそるおそる問いかけて、ぺろりと返ってきた答えに沈黙した。脳裏によみがえるは、毎月のバイト代金。それまでにためていたお年玉と合わせて、今年の夏休みにイギリスに来ることはできたけど、できたけどー。
思わず沈黙していると、くすりとオリヴァーが笑う。
「云ったはずだよ、資金が足りなければ資金援助を乞うと云う手もあるってね。その手は考えてみた?」
「銀行とか? でも実績のない学生にお金なんて、いくらなんでも貸してくれないでしょ?」
「だったら、個人的に援助してくれる人を探せばいい」
たとえば。そこで言葉を切って、意味深に笑う。そこまでされたら、さすがにわかった。
オリヴァー、助けてあげると云ってくれているんだ。考えるより先に口が動いた。
「だめだよ!」
「うん?」
「だめ。とにかくだめ。ここまでお世話になっているのに、これ以上、オリヴァーに迷惑をかけるようなこと、しちゃダメなの」
だってそうでしょう。
レシピを守ってもらった。東條さん探索を警察に依頼してもらった。レシピ翻訳に知恵を貸してもらった。
そんなにたくさん助けてもらっているのに、それ以上、資金援助を頼む? 冗談じゃない、そこまでしてもらったら、友達ではいられなくなるじゃないか。
オリヴァーは口角を持ち上げる。どこかひんやりとしたものを漂わせて、さらに言葉を続ける。
「誤解しないでほしいな。提供とは云ってない、援助と云っている。お金は利子をつけて返してもらうし」
「それはあたりまえのことでしょ。そうじゃなくて」
オリヴァーにお金を借りることに抵抗を覚えているのだ、と云いかけて、ためらいを覚えた。彼からお金を借りたくない。でもそれはあまりにも感情的だ。合理的な考えとは云えないし、第一、彼の申し出を断って、アヴァロンを継げないという事態になったら、目も当てられない。それでも迷っていると、オリヴァーの溜息交じりの呟きが聞こえてきた。
「シャルマンはすでにきみのために動いている。なら僕だって動かないわけにはいかないじゃないか」
(え……)
まったく意味がわからない言葉に、オリヴァーを見直す。わたしの視線に気づいているだろうけど、オリヴァーは同じことを呟いたりしない。ただ、指を弾く形に丸めたので、慌てておでこを防いだ。しばらく視線が交互して、クスッと笑ったオリヴァーはくしゃりとわたしの髪をかき混ぜた。
「生意気」
それだけを云って、今度こそ先に立って歩き出す。ああ、そういえばアヴァロンに戻る途中だったのだ。いましがた交わした会話で頭をいっぱいにしながら、わたしはオリヴァーを追いかけた。
とにかく、アヴァロンを継ぎたいと云っても、認識がとんでもなく甘いことがよくわかった。
納税したことがないから無理はないと思うけど、それでも現実的じゃない。だから反対されるのだと思えば、思考が引き締まる。さいわいにも、具体的な税金金額を教わったことだし、考え直した方がいい。母さんへの説得方法にひとつのバリエーションを加えていると、オリヴァーがひょいと振り返る。
「資金援助を求めるなら、僕のことを思い出すように。きみが他の人間に求めても、相手にされないか、悪質な人間に騙されるのがオチだからね」
ああ、つまりは心配してくれていたのか。
ようやく悟ったわたしは、へにゃりと笑った。オリヴァーは肩をすくめて歩き出す。
そんなこともわからないなんて、やっぱりわたしは子供だったのだ。
*
「おかえりなさい」
旅行用の服装から、普段着に着替えた母さんはばさばさと新聞を閉じながらわたしたちを迎えた。もう怒っている様子はない。それが不思議に思えて、わたしが首を傾げると、母さんはオリヴァーに視線を向けた。
「さきほどから携帯電話が鳴っていましたけど、お仕事ではないのですか」
その言葉に慌てて時計を見たら、オリヴァーがいつも帰宅する時間をとうに過ぎている。わたしを追いかけたせいだ、と思えば、たちまち血の引く想いがする。
ところがオリヴァーはゆったりと落ち着いた様子で、丁重に礼を告げた。そして脱ぎ捨てていたスーツの上着から携帯電話を取り出して、着信を確認する。ひとつ頷いて、わたしを見た。
「仕事があるから、僕は出るけど、なにか訊いておきたいことはある?」
わたしはぶんぶんと首を横に振った。
とんでもない、これ以上、オリヴァーを煩わせるようなことはないに決まっている。
すると彼は笑った。また、髪をかき混ぜる。そして母さんに会釈をして出ていった。
(あ、そういえば朝食は半端になったままだ)
思い出してしまえば、自分をますます情けなく感じる。空腹のまま、仕事に行かせてしまったのだ。せめて朝食はサンドウィッチにしたらよかったんだ、とか、現実逃避めいた言葉が脳裏に過って行く。悔しい。本当にオリヴァーに、迷惑をかけてばかりだ。
「橙子」
突然の呼びかけに振り返れば、にっこりと微笑んでいる母さんの姿がある。威嚇の笑顔じゃない、揶揄の笑顔だ。きょとんとして、瞬いた。心当たりがない。
「ずいぶん、仲良しなのね?」
「そんなことないよ。仲良しというほど、対等じゃないもの。オリヴァーには迷惑かけてばかり」
云いかけて、ようやくその意味に気づいた。
はあと溜息をついて、額を抑える。そういえばめまいもする。徹夜で食事会に従事していたんだものな、と思って、頭を振った。居住部に上がって眠らなくちゃ、と思い、移動する前に釘を刺すことにした。
「云っておくけど、そういう関係はないから」
「あら、そういう関係って何よ」
意味なんてわかっているだろうに、むしろ楽しそうに母さんは問いかけてくる。わたしは云い返すことも面倒になって、肩を落として歩き出した。好きに思わせておこう。「逸郎に電話しなくちゃ~」と意味ありげに云っているけれど、事実無根だもの。火元がないんだから、煙だって立たないに決まっている。
「と、その前に待ちなさい橙子」
「ぐぅえっ」
我ながら変な言葉が漏れた。背後に回った母さんが首筋を引っ張って、引き寄せたのだ。ふわりと馴染みの香水が薫る。身体が斜めになった態勢で見上げれば、母さんの表情は真面目なものに引き締まっている。右手をあげて、とんとんと腕を叩いた。会話が出来ない。
「訊きたいことがあるのだけど」
「なに?」
乱れてしまったシャツの襟元を整えていると、ためらいがちな母さんの声が聞こえる。無造作に応えた。東條さんのことだろうか。ちらりと思う。でもわたしがろくに答えられないことは母さんだって知っているはずだ。そもそもそれならオリヴァーに訊ねたり、あるいはいっそ警察に訊ねたりするだろう。
「――<あちら>の世界の知人って、どなた?」
慎重な声音だった。
わたしは母さんをまじまじと見た。曖昧な表情を浮かべている。よく読み取れないのだけど、おそれているような、ためらっているような、そんな表情だ。
「シャルマン。伯爵だって呼ばれていたけど」
そう云えば、震えるようなため息が響く。
呟くように「そう」と告げて、よろよろと椅子に座りこむ。一気に力を失ったように見える、その様子に違和感を覚えた。奇妙だ、と感じたのだ。母さんはシャルマンを知っていたのだろう、そういう反応だ。でも知人の名前を聞いたくらいで、ここまで脱力するだろうか。半端に振り返っていた態勢を整える。
「母さん。――シャルマンを知っていた?」
知っているんだね、と断定調で訊ねることは不思議とためらわれて、そんな感じで問いかける。
「知らないわ。直接には、知らない人よ」
そう云ってしまった自分を、改めておかしいと気付いたのか、母さんは顔をあげてわたしを見た。
「ただ、ね。おばあちゃんから話を聞いていたものだから、興味があったの。それだけよ」
ちょっとだけ眉を寄せた。ただ興味があった、それだけの簡単な事情だと云うなら、これほど脱力する理由なんてない。わずかにためらい、そして口に出した。
「たぶん、今晩も来ると思うから、会えると思うよ」
「今晩も?」
ぎょっとしたように、母さんは目を見開く。
しばらく沈黙して、困ったように苦笑してみせる。
「残念だけど、会えないわ。友人と逢う約束をしているの。そのまま彼女の家に泊まることにしているから」
「母さん」
「……なによ?」
「ばりばりにあやしいです」
ぽそりと突っ込んだ。すると酸っぱいものを食べたかのように、奇妙に顔をゆがめるものだから、ブシノナサケで、それきり追求しないことにする。今度こそ眠ろうと、居住部に向かって歩き出す。
「あやしくないわよ。管理を依頼していた人が行方不明になって大変って、友達に愚痴ろうと思っていたんですからね。ちょっと、聞いているの橙子!」
「ごめん母さん。眠いから聞こえないー」
「こらっ」
右手を振りながら、扉を押しあける。追いかけてくる気配はない。予想通りだ。外にある階段を上がり、居住部に滑り込みながら、ふうん、と呟いた。
ばりばりと頭をかきながら、いちばん奥にある寝室に潜り込む。ふわりとした感触が身体を包みこむ。気持ちいい。体中の筋肉から、緊張がほどけていく感触だ。腕を伸ばして、ぽすんと横に倒した。まだ、眠気は来ない。だからシャルマンのことを考えていられる。
エマの血統、とわたしを呼び掛けるひとだ。
彼だけじゃない。シャルマンの他に出会った人も、わたしを呼びかけるときには、エマの血統、と呼びかける。ダイアナの血統、という呼びかけはしない。
つまりそれは、彼らにとっては母ダイアナよりも祖母エマこそが重大人物だったと云うことだ。
それはそうだろう。アヴァロンを閉鎖しようと云う人物だ。彼らにとって印象が薄いのはしかたない。
でも母親にとってはそれだけではないようだ。
(シャルマン、に)
訊けばわかるだろうか。思いながら眠りについた。