間章(11)
「王子さま」
魔道士ギルドの様子を確認したあと、アレクセイはキーラを連れて、サルワーティオーを歩き回った。ひとが集まる市場、気取らない食事処、憩いの場となっている建造物。街の雰囲気をつかむため、ルークス王国民の生活ぶりを知るため、というよりも、すっかりアレクセイの息抜きになっていた。まさしく休暇だ。
そうして王宮へと戻る途中、沈黙していたキーラが唐突に話しかけてきた。ちなみに「王子さま」と何度も呼ばれた。聞きとがめた通行人が、珍妙な顔でアレクセイを眺めていたことを覚えている。結局アレクセイも、途中から指摘することを諦めてしまったからとやかく云う資格はないが、奇異な眺めだっただろうと想像していた。
「なんですか」
「もしかして、なにか気に喰わなかった?」
驚いて足を止めると、キーラはおぼつかない表情でアレクセイを見上げている。
不安が色濃い表情を眺めて、ふ、とアレクセイは微笑んでいた。ぽんぽんと頭を叩いて安心させてやりたくなったが、かろうじてこらえ、「どうしてそんなことを?」と訊ねるにとどめた。するとキーラは口ごもり、頼りなさそうな口調で告げる。
「なんだか様子が変だから。口数が少ないし、……」
「楽しく過ごせましたよ。すべてが希望通りだったとは申しませんが、少なくともわかったこともあります」
「わかったこと?」
ええ、とうなずきながら前を向いて、ゆっくりと歩みを再開した。
ななめに夕陽がアレクセイたちを照らしている。大きく伸びた影を見るともなしに見つめながら、ちょっと遅れて歩くキーラに聞こえるよう、アレクセイは口を開いた。
「結局、ルークス王国の民にとって、だれがこの国を治めようと関係ないということです」
統治している人物が王族の血を引いているとか、引いていないとか。世界の前提が王族による統治だろうが、そうではないとか。王制であろうが、議院内閣制であろうが。
ルークス王国の日常を覗き見て、それらはたいした問題ではないのだ、と、思い出した。
傭兵であった時代、ただのミハイルであったときには当たり前だった認識を、いまは取り戻した感触だ。どうして忘れていたのか。不思議なようで、まったく不思議ではない。
それは彼が亡き親友の願いを叶えなければ、と考えていたからだ。本物のアレクセイ王子が委ねてきた、愛する故国を解放しなければ、と云う願いを大切にしすぎて、その願いは王子以外にはまったく無意味な事実に、目をつぶっていたからでもある。
なぜなら王子の願いを叶えるしか、王子に守られた罪を贖う術を知らないからだ。
だが、今日、わかった。
彼が抱える葛藤や、本物のアレクセイ王子に委ねられた願いは彼以外にはまったく意味がない。亡き親友が愛した民には、関係のない、自分勝手な感傷なのだ。
すこんと肩から力が抜けたような、奇妙な感覚だ。ほんの少し、だが確かな感触で失望を覚え、だが、心が彼方へと広がっていく感触があった。深く息をつけるような感触を心地よく覚えながら唇に微笑みを浮かべ、アレクセイをうかがっているキーラを振り返った。
「ご存知ですか、キーラ。国を治めるとは意外に簡単な作業です」
「簡単?」
予想外の言葉を聞いた、と云わんばかりに繰り返したキーラに、ええ、とうなずく。
「適切な税を徴収し、最良な形で活用するのです。簡単でしょう?」
キーラはちょっと複雑な表情を浮かべた。
「その、適切、とか、最良と云うのがいちばん難しいと思うんだけど?」
「そうでもありません。傭兵の訓練と同じようなものですよ」
傭兵団『灰虎』では、先に入団した団員があとから入団してきた団員を鍛える。ただ、一から十まで全て教えるようなことはしない。入団を許される人物とはそれまでの素養があるから、資質を見極め、より活かす形で鍛えてやる。ほんの少しだけ手助けする。そのやり方を統治にも応用すればいいのだ。
たとえば王都に限るなら、最重要課題は食糧問題だ。地形的にしかたないとはいえ、王都では食料品が高すぎる。ところが朝、屋台で食べた朝食は銅貨四枚と云う適切な価格だった。なぜかというと、屋台が食糧を自給自足で育てているからだ。だから高い値段で食料を仕入れずに済み、良心的な値段で食事を提供できるという次第である。そうしてアレクセイが、自給自足を背中押しするように仕組みを整えれば、食糧問題は軽減する。
ルークス王国民は、一から十まで、整えてやらなければ生活できない人々ではない。
そうしてきっと、そうしたたくましさこそ、亡き親友が愛した、かけがえのない箇所なのだと、いま、アレクセイは感じている。今日一日を通して、そう感じるようになった。
ふと、目の前を行く影法師が一つになっている事実に気づき、不思議に感じて振り返った。キーラは足を止めている。引き返してのぞきこめば、泣いているかのように、笑った。
「きっと。……本物の王子さまは、だからあなたに、願いを委ねたのね」
「キーラ?」
「忘れないでよ王子さま。少なくともあたしは、あなたがあの子の偽物じゃなくちゃ、ルークス支部長になんてならない。ルークス王国を統治する人はだれでもいいなんてこと、ないんだから」
ふ、と、唐突に胸を突かれる心地がした。少々意味不明な言葉だったが、これまでに見知った、すべての要素が脳裏を駆け巡って、ひとつの推測をアレクセイに抱かせる。まさか、と信じられない心地でつぶやいた。そんなことが、あるのか。
(知り合いだったのか、アリョーシャとキーラは?)
根拠はない。だが、アレクセイの直感的資質が確信している。
だから、キーラはアレクセイを手助けすると決めたのだ。知己であった存在が、願いを委ねた人物だからこそ、夢を捨ててまで協力することを選んだ。
(莫迦だろう、それは)
本来の性分にふさわしく、容赦なく評しながら、アレクセイは動揺していた。圧倒されている。夢を捨ててもかまわないと想えるほどの存在だったのか。口からこぼれそうな問いかけを押しとどめて、アレクセイはキーラを見つめて立ち尽くしていた。