「光あれ」
なかなかにシュールな光景だった。
境界線のこちら側は緑あふれる草原、境界線のこちら側は何もない土くれの地面、空間の色すら違うのだ。こちら側は光あふれる昼で、あちら側は闇に近い夜が広がっている。ぎりぎりのはざまに立ち、その不可思議な風景を脳裏に刻み込んでいた。人を生かすための魔法は日々確実に収縮している。つまり今しか見ることのできない風景なのだ。
――ガイアへの帰還は次々となされている。それに伴って、セレネ本来の種族が姿を現すようになった。
とはいえ、その種族もはるか昔にはガイアにいた種族である。ガイアの地、緑あふれる光り輝く地域を懐かしんだのかもしれない。これまでそんな種族がいたことに人々は驚きながらも、それでも害意や敵意を向ける暇すらなくガイアに帰還していった。いまとなっては、ガイアに残っている人類の方がはるかに少ない。そして、アルセイドもその中の1人だった。
久しぶりに故郷に戻ってきたのである。
だが、辺境に位置するその場所はもはやアルセイドの立ち入れぬ場所となっていた。
白い可憐な花を思い出す。その花が咲き誇る場所もすでに土くれの地面となっている。建物は存在しているだけに、無残さが目に付いた。
(死後の世界とはこんなものか?)
そんなことをふと思った。少年のころに脅しつけられるように教えられた死後の世界、その景色に似ている。
だとしたら。アルセイドは唇の端を持ち上げていた。
寂しい世界だ。そう感じる。
ただ、夜の世界と云っても、空にはうつくしい蒼い月が輝いている。それだけはこれまでと変わらない。だからこそ、ガイアがより慕わしいものになっている気がした。あの夜の世界に光をともす、輝ける宝石。
(俺はもう、この地を離れる)
そう思うと瞑目してしまう。懐かしい面影が胸に過ぎた。
彼女や仲間たちは自分を待っているのだろうか。
ーーーーそれとも。
いずれにしても、亡くなった人々は穏やかにあるのだろう。
喧騒や騒乱は、この静穏たる夜の世界に似合わない。
「アルセイド」
ずっと沈黙を守っていてくれた魔女が呼びかけてきた。
振り返ると、光あふれる昼の世界に白い髪を輝かせた少女が立っている。
まるでなにかの対比のようにも感じられて、アルセイドは目を細めた。笑っていたかもしれない、神妙な顔つきをしていた魔女が応えるように唇の端を持ち上げる。微笑に似ていて、やわらかないたわりに満ちた表情だった。痛みに対する共感も感じる。
「哀しいわけじゃない。ただ、別れを惜しんでいるだけだ」
「わかっている」
「だが、きりがないな。なにを想っても、この場所から離れがたく感じる」
決して死にたいわけではない。
けれどどうしても失った人々に逢いたいという気持ちがあるのだ。
逢って告げたい。
それでもこの先の人生を放棄することなく生きると。
おまえたちの分まで、とは云わない。
あのとき命を与えられたのはアルセイドの選択ゆえだ。
だからアルセイドの人生を生きる。
見守っていてくれ、とも云わない。
ただ、安らかであれ、と願う。
どの世界にあったとしても、それぞれらしく、光あれと願う。
――これから別の世界で生きていくアルセイドが、自分の意思を貫いていくけるように。
おまえたちも、と――。
境界線から身を引いて、彼を待つ少女の元に向かった。
ふと首をかしげ、少女は手を差し出してきた。
アルセイドは驚いたが、ふ、と微笑を閃かせてその手のひらに手をのせた。きゅ、と細い指がアルセイドの指を握りしめる。しっかりとその手を握り返して、そして振り向くことなく歩き始める。
やがてこの地から草原は消え、土くれだけの世界となるだろう。
静かな夜の世界が広がるのだろう。
けれど緑が枯れ果てても、伝説の生き物が暮らしていく。
竜や、ドワーフ、エルフが。
優しい彼らは死者の眠りを妨げることはあるまい。
(光あれ)
ただ、その言葉だけを祈りとして、アルセイドは故郷に別れを告げた。
右手にしっかりと少女の手を握りしめて。