魔王さまの教育係
灯りを落とされた廊下に、ちいさな軋み音を立てて扉が開く。
そっと姿を現した長身の男は、深夜にもかかわらず、外出着をまとっている。きょろきょろとまわりを見渡し、素早く部屋から出て歩き出した。しばらく歩いて、辿り着いた先は中庭だ。夜露に濡れることもいとわない様子で、庭に下りた男は、さらに庭の奥へと進んでいき、そうしてしゃがみこんだ。ふふ、と小さな笑い声が響いたとき、頃合かと見計らったわたしは口を開いた。
「魔王さま。こんなところで何をしてらっしゃいます」
すると男はびっくう、と情けなく肩を揺らした。
スローモーションのようにゆっくりとこちらを振り向く。
つややかに長い黒髪、血のように赤い瞳、すっと通った鼻筋に、酷薄そうな薄い唇。
つまりは超美形であられる男は、しかし、わたしの姿を見るなり、情けないありさまで眉尻を下げた。
「な、ぜここにいる」
腰に手を当てて仁王立ちしていたわたしは、まずはにっこり微笑んだ。
条件反射だろうか、男はびくっと怯えたようにおののく。まったく失礼な。
「昼間のご様子から、魔王さまの行動を予測したのです。相変わらず、」
そこで言葉を切って、男の腕から顔をのぞかせている小動物を眺めると、男は隠すように体をねじる。
わたしをなんだと思っている、わたしはただの人間だぞ。
むっと唇を曲げたくなったけれど、わたしは仮面のような表情を維持したまま、ふう、と息を吐いた。
「かわいいもの好きでいらっしゃる。ですが、わたしがこうして気づいた以上、このままにしておくわけにはまいりません」
ぱちんと指を鳴らすと、瞬時に現れた黒服が魔王さまに近寄り、見事な手つきで小動物を取り上げた。「あっ」、かすかな声をあげて男は小動物をかばおうとしたのだけど、タイミングよく小動物が「にー」と鳴いたものだから、小動物の身体を気遣って手を放してしまったのだ。
黒服の手に移った小動物を呆然と眺めて、はっと我に返った様子でわたしに向き直る。
「待てっ。アーニャをどうするつもりだっ」
(名前、つけたんかい)
心のなかでこっそりつっこんだけれど、わたしはあくまでも冷然とした眼差しで男を見返した。
「わざわざお訊きになりますか? この小動物の行く末など、すでに察してらっしゃるでしょうに」
「食べるつもりかっ」
(食べないわよっ)
どこかとぼけた男の台詞に、わたしは心のなかだけで云い返し、黒服に「連れて行きなさい」と命じた。
あわてて黒服に駆け寄ったものの、瞬間移動した黒服に追いつくことができずに、ひどい目に合う(*男の妄想。現実には城下の民に下げ渡す予定)小動物を取り返せなかったから、男は絶望に囚われた眼差しで立ちすくむ。
まったく、と、わたしはぼやきたい。
小心者のくせに、妙に想像力豊かなところはどうにかならないものか。いくらわたしが冷徹な教育係を装っていたとしても、あのように罪もない小動物を痛めつけるはずもないだろうに。
やがて男は涙ぐんだ瞳をわたしに向けてきた。
珍しく強い眼差しで睨みながら、ぎりぎりと歯ぎしりする勢いで云う。
「わたしは、おまえのことが、大っ嫌いだ」
(子供か!)
即座に心のなかでツッコミを入れて、けれどわたしは、冷笑と見える表情を浮かべた。
男の教育係を引き受けたときに、鏡の前で特訓した表情である。とびきり冷血に見えると自信がある。だって宰相のやつが拍手しながらそう云ったんだもの。あのときは何か大切なものを捨てた気分になったけど、現実、頻繁に利用しているから気にならなくなった。
「嫌いで結構。わたしもあなたに好かれようとは思いません」
「いつか、おまえを後悔させてやる」
なんだか微妙な脅し文句に、ちょっとびくつく気持があるけれど、魔王という地位にありながら男の力はまだ、わたしにかけられた<護り>を突破できるほどのものではない。
だから余裕の態度で、挑発する言葉を探す。
まあ、ツッコミがいのある脅し文句だもの。
簡単に挑発文句は見つかるんだな、これが。
「いつか、などとおっしゃらずに、いま、試してみたらどうです?」
云いながら両手を広げてみた。さあ、かもーん、という態勢に、男は屈辱を感じたように目をそらす。
未だ自分の力が魔王にふさわしいものではない、と、男もわかっているのだ。本来の力は魔王にふさわしいもの、でも、男は心理的な理由で自らの力を封じている。
わたしはその理由を知っているけど、下らない理由、とは思わない。ひとはそれぞれ、心にいろいろなものを抱える生き物だもの(相手は魔族だけど)。だけどそんな考えは面に出さないまま、わたしはふん、と鼻で笑ってやった。
先ほどの言葉に、この態度。さぞかし腹が立つだろうなあと思ったけど、これが雇い主の希望だ。存分に男の矜持を傷つけて、奮起させろ、と云われている。
でも傷ついたようにまつげを揺らす姿を見たら、どう見ても逆効果じゃないか、とも感じるのだ。
「さあ、魔王さま。部屋に戻り、お休みください」
そういう気持ちが現れたのか、不本意なことに、わたしの声は幾分優しく響いた。
男は素直に頷き、のそのそと歩き出す。適度に離れた距離を歩きながら、わたしは男が部屋に入るまで見守った。
(まったくもう)
自室に入り、ぐったりとソファに横たわりながら、与えられた仕事にため息をつく。
男はやさしい気性なのだ。その男を冷徹な魔王に仕立て上げてくれ、とは、雇い主も無茶を云う。だがこれも元の世界に還るため。気分を切り替え、明日からの授業プログラムを練り直す作業を始めた。
(今日も徹夜かな)
異世界の魔王教育は、現代日本の教育実習を見事成し遂げた身でも、手こずる難物なのである。