吾輩は主人である。
吾輩は主人である。名前など訊くな、無礼であろう。
だがどうしても知りたいと云うなら応えてやらないわけでもない。ただし、無償で吾輩の名を得ようとは考えておるまいな?
真に望むならば、貢物をするがよい。
そうだな。吾輩の下僕が時折持ってくる『猫缶』を所望しよう。あやつめ、吾輩の下僕でしかないのに、吾輩が好む『猫缶』を滅多に貢がないのだ。ケイザイテキナジジョウニヨリ? なんだそれは、新種の鳴き声か。忠告してやるが、まったく魅力がないぞ。それではおなごも近寄ってくるまい。
そうだな。吾輩の名前を教えてやらぬ代わりに、下僕の話でもしてやろう。
吾輩の下僕はまったく気が利かぬのだ。仮にもおなごではあるが、ふくふくとしたところが乏しい。はるか遠き母上のようなやわらかさがない。そのくせ、吾輩を侮って背筋が凍えるような声で吾輩を呼ぶ。
吾輩を成人とわかっているのか。わかっていないだろうと抵抗すれば、たちまち泣き出しそうな、情けない声で吾輩を呼ぶ。おなごに泣かれる趣味はない。なのでしぶしぶ抱き上げられてやるが、今度は力加減がへたくそなのだ。がっちりと吾輩を放そうとしないものだから、苦しくて暴れる顛末となる。
ただまあ、好ましいところがないわけではない。たとえば黒々とした、ややつりあがった瞳は吾輩からみても美しいと感じる。同種であれば、と考える瞬間もあるが、しょせんは下僕である。逆に吾輩が面倒を見てやる羽目になるであろう。それは本末転倒というものだ。
あれは下僕。吾輩の忠実な下僕なのだから、わざわざ同種になどならなくてもよい。その代わり、異なる種族だからこそ、吾輩の栄えある世話役となれたのだ。どんくさい下僕には僥倖と云うものであろう。
ところがこのところ、下僕の様子がおかしいのである。
つい先日の出来事だ。ふわふわとした、実に吾輩好みの糸玉をたくさん持って帰ったのである。おそらくは吾輩が戯れるためであろう。だがいざ遊ぼうとすれば、下僕は血相を変えて怒り出したのである。
「ダメッタラダメ! コレハ先輩ヘアゲルタメニ買ッテキタンダカラ!」
(ぬ)
詳細はわからないまでも、吾輩への貢物ではない事実は理解できた。
その日からである。下僕は吾輩の世話もさておいて、その糸玉と戯れ始めた。二本の棒を使って遊び始めたのだ。それに混じろうとしたら、またもや怒る。下僕にしては迫力に満ちた怒りであったので、しぶしぶ吾輩は譲ってやった。
だが解せぬ。
下僕は吾輩の下僕ではないのか。それなのに、最重要事項である吾輩の世話を放ってなにをしているのか。
いぶかしんだ吾輩は、しかし、相談することなどままならぬ。なぜならこの城は吾輩のみが住まう城。相談できる猫材に恵まれておらぬのだ。いや、相談など、弱者が行うもの。主人たる吾輩がすべきものではない。
ええい、もう、知ったことか。
延々と吾輩の世話を疎かにし続ける下僕に、ついに見切りをつけて、吾輩は自分の面倒は自分で見ることにした。食事や下の世話はさせてやろう。だが、それ以外はとんと知らぬ。
以降、吾輩は下僕を放ってきている。このように雪がたくさん降り積もる日は、下僕の腕のなかに飛び込みたくなるのだが、ぐっと我慢である。なにより、このくらいで譲ってやっては今後のためにもならぬ。
――――と、その下僕はどうやら帰宅したようだ。
バタバタと騒がしい足音はあれ以外に立てる者はおらぬ。ほら、ばたんと扉を開けて騒々しく入ってきた、と、……なにをする! 吾輩を抱き上げて、ええい、いつもよりずっと強い力で抱きしめるな。く、苦しい……。
「フラレタ! フラレチャッタヨ、若ーっ!」
そう叫ぶなり、下僕は騒々しく鳴き始めた。わあわあわあ、とうるさいことこのうえない。吾輩はもがいて暴れたが、ぽたぽたとこぼれ落ちる雫に動きをとめていた。
泣いて、おるのか?
下僕の種族は哀しくてたまらないときに雫をこぼすという。ならばいま、下僕は哀しんでおるのか。
なぜ。どうして。
……もしや、『センパイ』とやらがからんでおるのか?
吾輩は戸惑いながら、こぼれ落ちる雫をすくって舐めた。なめらかな頬に触れる。次から次へとあふれる雫は、舐めているうちに止まり、そうして下僕はようやくいつものように呑気に笑って見せたのだ。
「アリガ、ト。ウン、気ニシナイヨ。アタシニハマダ、若ガイルモンネ!」
よくわからぬが、元気になったのならそれでよい。
さあ、下僕よ。元気になったのなら吾輩のために『猫缶』を持ってくるのだ。
今宵は特別な日なのであろう? 誰にとってもやさしい日でなくてはならぬ。だからこそ、さあ、乱れてしまった吾輩の毛並を撫で、吾輩の機嫌を取るがよい。