こんな想い知らなかった。

「なんで起こしてくれなかったのおおおーー!」

 部屋の扉を開けながら、あたしは一階に向けて声を張り上げていた。

 七時四十五分。いつも起きる時間より、三十分も遅い。制服のリボンを結びながら、バタバタと階段を降りて、キッチンに飛び込む。

「おはよう、こはちゃん」

 あれ? と思った理由は、抗議しようとした人の姿が見えなかったからだ。

 その代わり、リビングからのんびりとした声が聞こえてきた。テレビの前に座っていた祖母は、おっとりとふりかえって、あたしの名前を呼ぶ。「おはよっ」と言いながら、あたしはリビングの隣にある洗面室に駆け込んだ。

 それから、鏡の中にいる自分を見て「ぎゃー!」と叫んでしまった。

 髪が爆発していたのだ。もうもうもう、時間がないというのにっ。ブラシを取り上げて、わっさわっさと髪をとかす。細い毛は、意外にも頑固で、もつれがなかなか取れない。泣きたくなる。必死になって髪を整えてると、ひょいと鏡の中の人が増える。祖母はあたしの手をとめ、レンチンした濡れタオルを、ふわ、と頭にかぶせてくれた。じんわりとした思いやりが、頭のてっぺんからしみてきて、ちょっとだけ気持ちが落ち着く。

「今日はずいぶんお寝坊さんだったねえ。恵はもう、とっくのむかしに家を出たよ」
「え、早くない? 今日は母さん、午後勤じゃなかったっけ」
「うーん。なにかトラブルがあったみたいでねえ。こはちゃんみたく叫びながら、七時前に家を出たんだけど、聞こえなかった?」
「聞こえてたら、起きてたよ!」
「そりゃそうだ。……はい、髪も落ち着いた。これでヘアアイロン使ったらだいぶ違うはずだから、早くキッチンにおいで」

 そう言いながら、あたしの頭から濡れタオルを回収して、祖母はキッチンに戻る。

 壁時計が目に入る。七時五十五分。遅刻はまだ確定してないから、このまま家を出たいところなんだけど、朝食が健康の秘訣だと固く信じている祖母は許さないだろう。アイロンで軽く濡れた髪を乾かしたら、八時ぴったり。

 リビングから、朝ドラのテーマ曲が流れてきた。

 でも祖母はキッチンコンロの前から離れようとしない。「八重さん」と呼びながら、あたしは炊飯器から自分の分のごはんをよそおった。納豆と卵焼きと小松菜のおひたしが並んでいるテーブルに座りながら、祖母から味噌汁を受け取る。

「ドラマ始まったよ」

 はいはいありがと、と言いながら祖母はキッチンを通り過ぎて、リビングに向かう。

 あたしはカカカと納豆を混ぜて、たらりとごはんにのっけた。味噌汁を飲むと落ち着く。でも落ち着いたらいけない。ガガガと納豆ごはんをかきこんで、はぐはぐ食べる。

 よし、五分で食べ終えた。

「食器は洗っとくから、いっておいで」

 ナイスなタイミングで祖母の声がかかり、あたしはその言葉に甘えて家を飛び出る。春の青空が広がってる道を、できる限りの最大速で走っていった。

(なんでこんな日に寝坊するかなあ、あたし!)

 ーーーー入学式が終わった、翌日だ。

 いよいよ本格的に、新しい学校生活が始まる日なのだ。友達なんてまだできてないし、担任の先生の苗字だって覚えてない。かろうじて、隣の席に座ってた子と軽く会話したけれど、それだけだ。早めに登校して、だれかと話したいな、なんて思っていたのに!

 走って走って走って。赤信号だから、立ち止まる。

 さっきから見かける同じ制服姿は、いつもの時間帯より、ちょっと少ない。でもゆっくり歩いているようにも見えて、首をかしげたくなる。

(みなさん、遅刻の覚悟ができてるんですか!)

 いいですね、その余裕。あたしにはそんな大人の余裕なんてありませんことよ。

 心の中でそうぼやいているうちに、青信号になったから、走り出そうとした。

 そのときだ。

 ぐいと、二の腕を急につかまれた。え、と思ったとき、後ろにひっぱられた。足がよろめいた。思ったより近くに人の気配を感じる、と思ったときに、車が見えた。

 え。

 すごい速さで走り去っていく車を見送ってしまって、あたしはぼうっとしてしまった。赤のスポーツカー。派手な車だ。そう思ってから、理解が追いついてきた。

 轢かれそうになったんだ、あたし。あの車に。

 ぼた、と肩から学生鞄がすべり落ちた。あわてて鞄を拾おうとして、へたりと座り込んでしまった。あれ。足が崩れちゃってる。

「大丈夫か」

 あたしはそこで、まだ二の腕をつかまれたままだと気づいた。

 だからあたしがずるりと座り込んだとき、腕をつかんだ人もつられた様子でかがみ込んでしまったんだ。気づいたわたしは、あわてて「すみません」と言いながら顔を上げて。

(うわ)

 と、心の中で声を上げた。

 だって、その人は、とてもかっこいい人だったんだ。

 クラスの男子と同じ制服を着ていたから、あたしと同じ高校の学生だとわかる。でもたぶん同級生じゃない。年上じゃないだろうか。きゅっと結んでいるその人のネクタイは、あたしのリボンとはちがう色なんだもの。二年生か、三年生。どっちだろ。わからない。

 心の中でそう考えながら、「すみません」と口が勝手に動く。

 二回目の謝罪を聞いたその人はちょっと困ったように眉を下げる。

「立てないのか」

 そう、訊ねてきた。

 え?

 って思ったもんだ。なにをバカなことを言ってるんだこのイケメン、と思ってしまったよ。あたしが立てないなんて、そんなバカなことがあるわけがない。

 あれ。

 あたしは思わず自分の足を見下ろした。なんでだろな、足に力が入らない。「ちょっと待ってくださいね」と言いながら、両手を地面について立ちあがろうとする。

 立てない。

「こんな目にあったばかりだからね。……湊斗」
「わかってる」

 あたしたちの傍にいた別の人が、短く、イケメンの名前らしきものを呼ぶと、イケメンは短く応えてその人に荷物を預けた。そして、本格的にかがみ込んだ。

 わたしに背中を向ける。あたしは目をまたたいて、その広い背中を眺めてしまった。

 いや、わかってます。

 この体勢は、なぜか立てないあたしをおぶってやるって言ってるんですよね?

 だけど、あたしは動揺してしまった。

 だって、見知らぬ人だ。それも、とびっきり、かっこいい人なんだ。

 そこまで親切にされる心当たりなんてないし、そもそもあたしを助けてくれた人だ。恩人にそこまでしてもらうなんて、ちょっと、どうなの、って思う。ためらってしまう。

「背負ってもらいなよ」

 二つの学生鞄に加えて、あたしの鞄まで拾った人が笑う。

 おお、この人もイケメンだ。やさしそう。

「でないと僕たち、そろって遅刻しちゃうし」

 ニコッと笑って言われた現実的な言葉に、「あ、はい」とうなずいてしまった。はじめはあたしたちをみていた人たちも、もう興味を失って、先に行ってる。

 やばいまずい。遅刻間近ってことですね!?

 だから、わたしはおそるおそる手を伸ばして、かがみ込んでる人の肩に触れた。

 高い体温が手に触れる。ガッチリした肩。男の人のリアルな感触に、ちょっと息を呑んで、ままよ、と、覚悟を決めて、広い背中におぶさった。

 長い腕がぐるりと回って、あたしの足を支えた。

 そして立ち上がる。

 あっけなく立ち上がられて、視界がぐんと上がって、あたしは驚いた。

 だって、あたし、そこそこ体重あるよ? それなのに、この人は軽々とあたしをおぶったんだ。え、男の人って、そういうことできちゃうの。驚きなんだけど。

 サラサラした黒髪から、さわやかな匂いがする。

「走るぞ、凪」
「了解」
(わわわっ)

 これでもね、あたしはね、背筋を伸ばしていたわけですよ。初めて会う人に、あまりくっつかないように、ピンと背筋を伸ばしていました。

 でもいきなり走り出されたら、くっつくしかないじゃないですか!!

 だって上半身が後ろに倒れそうになったんだもの。そっと肩に添えてた手に、がっつり力を込めて、ぴたりとくっついてしまったよ。

 走る走る走る。二人の男の人たち、あたしを連れて、グイグイ走ってる。

 なんか、あたしが一人で走ってるときより、早いんじゃないでしょうか。

 走る動きに合わせて、あたしの身体が上下に揺れる。

 あはっ。

 なんだかだんだん楽しくなってきた。

 だってあたし、いままでにおぶわれたことってない。覚えてないほどのむかしなら、父さんがまだ生きてたときなら、あったかもしれないけど、少なくともこの数年はない。

 だから珍しい感触に、ご機嫌になったんだと思う。

 それであたし、笑っていたみたい。隣を走る人が振り返って、ちょっと呆れたような、それでいて面白がる表情を浮かべてた。ちょっとバツが悪い。

 でもあたしを抱えてる人にはあたしの表情が見えない。

 だから安心できた。

 さっきの、飛び出してきた車に轢かれそうになったことなんて、忘れちゃったよ。

 友達を作れるか、クラスになじめるか、とっても不安に思っていたことも。

 ーー本当は泣きたいくらい、どうしようもなく弱気な気持ちになってたことも、忘れちゃった。

 だっていま、あたしは走ってる。

 自分では走れない速度で、いつもの通学路を、ぐいぐい走ってる。

 あたしには見えない高さで、ぐいぐい景色が変わっていく。

 だからちょいとだけ浮かれてたんだ。

 学校の、先生が閉めようとしている門の前に着いたとき、高らかに叫んでしまった。

「ゴォォォォールゥゥゥーっ!」

 しまった、と気づいたのは、すぐ近くにあった後ろ頭があたしを振り返ったとき。

 深いチョコレート色の瞳に、あたしの顔がうつってた。

 いかにも、やらかした! という表情をあたしは浮かべてる。でもそうなるのはあたりまえってもんだ。命の恩人に自分を背負わせて、走らせて、ゴールだよ? 

 ありえないって。

 だから思わず身を縮めて、上目遣いに、あたしを抱えてくれていた人を見上げていると、ふ、と、その人の顔がやわらかくほころんだ。

 呆れはまちがいなく混じってたと思う。

 でも、なんて言えばいいのかな。

 しかたないやつだな、と言わんばかりの気配が漂ってたんだ。お兄さんがかわいがってる妹に向けるような、あったかい雰囲気。どう考えてもあたしは、どうしようもない失態をやっちゃったと思うんだけど、でもそんな、あたしを許してくれてる顔をしてた。

「ゴールって、……」

 ずっと隣を走ってた人がそう言いかけて、たまりかねたように吹き出す。

 荷物を抱えたまま、くっくっと笑う。なかなか笑い止まない。

 わあ、笑い上戸。

 門を閉めた男の先生が、あたしたちに近づいてくる。呆れたような困惑したような表情を浮かべたその先生は、あたしとイケメンたちを見比べて口を開く。

「榊、江南。なにをやっとるんだ、おまえたちは」
「申し訳ありません、柴田先生」

 笑い続けてる人を放置して、あたしを抱えてる人が先生に応えた。

 でもあたしを下ろそうとしないの。

 ああ、そうか、と納得した。

 だって、あたし、もう大丈夫だって言ってないもんね。

「すみません。もう大丈夫です」

 あたしがそう囁くと、もう一度、あたしを振り返って、そっとかがんで下ろしてくれた。地面に足をつけて、ちょっとたたらを踏んだけど、足に力は入る。

 大丈夫だ。

 あたしはそう確信して、抱えてくれていた人を見上げて、ひとつ、うなずいた。

 そして、キリッと表情を引き締めて、先生に向き直ったんだ。

「すみません、先生。お二人は悪くないです!」
「は、」

 二人が誤解されないように、両手拳を握りしめて、あたしは弁明する。

「あの、そもそもはあたしが寝坊したことが原因なんです。おまけに頭が爆発しちゃって。猫っ毛だから、あたし。だから頭がたわしになってて。それで髪を直してごはんを食べたてたら、もう本当にアウトに近い時間帯だったからあわてて急いで家を出てて!!」
「待て待て待て」

 説明を始めたら、なぜか先生は片手をあげて、あたしの言葉をさえぎった。

 メガネをかけてるその先生は、あたしを抱えていた人と笑い続けてる人を見比べた。ため息をついて、まだしつこく笑ってる人をこづいたあと、黙ってる人に告げる。

「榊。説明しろ」
「はい」

 静かな表情に戻っていたその人は、淡々とした様子で事態を説明する。その声を聞きながら、わたしはこっそり思ってた。

(さかき。さかきって言うんだ、この人)

 でもさっき、友達らしき人に呼びかけられた名前は別だった。

 ええと、たしか。

(みなと、って呼ばれてた気がする)

 じゃあ、さかきみなと、って名前なんだろうな。

 なにげなくそう思って、ちょっとどきりとした。

 なんだろな。なんか、落ち着かない気持ちになる。

 自己紹介されたわけでもないのに、こんなにかっこいい人の名前を知っちゃった。お得なような、ズルをしてるような、そんな感じ。

 でもそれだけじゃない感じもする。

 なんだろな、この気持ち。

 ほんのちいさな気配なんだけど、なんか、キラキラしているような、そんな感じなんだ。

 と、あたしが思ってる間に、さかき先輩の説明は終わったようだ。

「……というわけです」
「なるほど。車に轢かれかかったことへの説明が、なぜ、自分が寝坊したところから始まるんだという疑問はさておいて、もう大丈夫なのか。保健室で休んでおくか」
「大丈夫です!」

 そう言ってから気づいた。そういえばこの先生、入学式で見かけた覚えがある。銀縁のメガネが印象的だったんだよね。二年の学年主任だって言われてたような気がする。

「そうだな、大丈夫そうだ。そろそろオリエンテーションの始まる時間だから、教室に行っていいぞ。榊もよくやったな。江南も、……いつまで笑っとるんだ」
「す、すみません、先生。ツボに入った、ようです」

 ずっと笑い続けていた人は、それでも、ようやく落ち着いた様子だ。

 さかき先輩に鞄を渡して、あたしの鞄も返してくれた。

「ありがとうございます」というと、「どういたしまして」と言って、やわらかく笑ってくれた。やっぱりこの人もイケメンだ。

 でも、あたしは、そっと、さかき先輩に視線を向けた。

 静かな表情でこちらを見ていた先輩は、あたしと視線が合うとほんとうに少しだけ、目を丸くする。

 あたしはとっておきの笑顔を浮かべた。

「助けてくださって、ありがとうございました!」

 そう言って、45度の角度で頭を下げた。

 ーーさかき先輩、とは、呼びかけないでおいた。

 なんだか、その名前を口にするのが怖かったんだ。

 思いがけず知った名前だけど、本人から自己紹介されたわけじゃない。それなのに、たまたま知ったからと言って、いきなり呼びかけちゃったら、アウトでしょ。

 それで、いやな顔をされたら。

 危ないところを助けてくれた命の恩人に、そんな顔をされてしまったら、あたしは落ち込む。人としてダメダメな気になる。まちがいなく自己嫌悪になるだろう。

「……頭を上げてくれ。たいしたことをしたわけじゃない」

 やがてそんな声が聞こえた。

 それでそろそろと顔を上げたら、さかき先輩は、軽く眉を寄せていた。

(あ、)

 なぜか、わかる。

 このひとは、あたしの態度を、不快に感じてるわけじゃない。

 ただ、どうしたらいいのか、わからなくて困惑しているんだ。

 そう、伝わってくる。

 さかき先輩の表情は、くっきりはっきり、わかりやすいものではないのだけれど、それでもさかき先輩の感情は、とても素直に現れてる気がする。なんとなく。

 こみあげてきた感情のままに笑って、あたしはグッとこぶしを握って続けた。

「いいえ、たいしたことです。もしあのままあたしが車に轢かれていたら、職場の母はまちがいなく胃痛をひどくしていたでしょうし、自宅にいる祖母も驚きのあまり心臓発作を起こしていたかもしれません! あたしだって、入学そうそう、入院した人になって、退院する頃には、クラスのぼっちになってました! 先輩は、わたしのこれから始まる高校生活と、我が日向家の平和を守ってくださったんです!!」
「……そうか」

 ぐふっ、と吹き出す声が聞こえてきたけれど、あたしはそっちに目を向けなかった。笑い上戸の先輩より、さかき先輩に納得してもらうほうが大切だもの。

 そうか、って、応えてくれたけど、わかってくれたかなあ。

 さかき先輩、すっごいことをしてくれたんだって。

 あたしを暴走者から助けてくれたところなんて、まるでヒーローみたいだったもの。

 でもあたしは、これ以上、どういう言葉を選べば、さかき先輩が浮かべている困り顔を笑顔にできるのか、わからなかったんだ。

 いままで生きてきて、いちばんと言ってもいいほど、必死になって頭をフル回転してるるのに、ぜんぜん思いつかない。

 だからこそ妙に、この場を立ち去りづらかったんだけど、「あー」という声が聞こえた。

 学年主任の先生が、露骨に呆れてる。

「オリエンテーションがもう始まってると思うが、いいのか、教室に行かなくて」
「あ、そう、ですね」

 そう言われて、あたしはまわりの状況に気づいた。

 もう、あたし達以外に、学生はいない。何事かと様子を見ていた人も、さっさと教室に行ったみたい。そうだ、あたしも行かなくちゃ。遅刻したら変に目立っちゃう。

 でも。

 でも。どうしよう。

 この場を、離れたくない。

 状況はわかってるんだけどね。お礼も言ったんだけどね。

 だからもう、教室に向かって走っていけばいいとわかってたんだけどね。

 だけど、なんでだろ、離れがたいんだ。

 どうしたらいいんだろ。

 こんな、子供みたいに、駄々を捏ねたくなる気持ち。

 まだここにいるの! と、高らかに声をあげて、主張したい気持ちになっちゃって、本当に困ってる。でもあたしはもう幼児じゃない。高校生女子だ。状況を読むことだってできるし、いま、やらなくちゃいけないことは教室に向かうことだって、わかってる。

 だからあたしは、ぺこりともう一度、さかき先輩と笑い上戸のひとに頭を下げた。

 それから走り出して、教室に向かおうとしたときに、「あ、ちょっと待って」と呼び止める声が聞こえた。あたしはぴく、と、すぐに反応して振り返ってしまった。

「こいつの名前は、榊 湊斗。僕の名前は江南 凪。きみは?」

 あたしは一瞬、息を止めて。

 ぱあっと笑顔になった。

 だって、向こうから名乗ってくれたんだ。

 それって、友達になってくれる、ってことだよね?

 

「小春。……日向、小春ですっ」
「そう。日向さん、もう大丈夫だと自分では思ってるかもしれないけれど、担任の先生にちゃんと、さっきの出来事について、話しておいたほうがいいよ。車に轢かれそうになって、歩けなくなって遅刻して、それで怒られてしまったら、報われない。他にも、なにか面倒なことがあったら、いつでも二年A組においで。先輩として、助けてあげる」
「凪」

 さかき先輩がたしなめるような調子で言ったけれど、えなみ先輩がにっこり笑って首をかしげたら、呆れたように息をついた。

「はい。ありがとうございます! さかき先輩、えなみ先輩!」

 どさくさに紛れてそう言って、あたしは今度こそ、教室に向かって走り出した。始業のチャイムが鳴ってる。あたしはもちろん、さかき先輩もえなみ先輩も遅刻だ。

 遅刻、仲間だ。

 それが嬉しくて、心強くて。

 あたしはこみあげてくる笑いの衝動を抑えることができなかった。

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