初恋は叶わない、ジンクスさえ憎い。
はじめての恋、って言葉には、ちょっと特別なニュアンスがあるって、思ってた。
理屈なんて関係ないの。細かい理由とか超えちゃって、言葉だけで人の心を動かす強さがあるような気がする。この言葉を聞いた大人がみんな、懐かしいものを思い出す表情で微笑んじゃうような、そんな力が、この言葉にある。
——さかき先輩たちと別れて、あたしは図書館に入り込んだ。あのまま話していてもよかったんだけど、きっと二人は、あたしの新しい友達二人は、図書館にだって付き合ってもくれたんだろうけど、あたしは早く一人になりたかったんだ。
そうして一人になって、これから長い付き合いになる図書館の本棚を、ようやく見て回ることができているというのに、あたしの心は、さかき先輩から離れてくれない。
読んだことがない本も、読みたいと思った本も、あたしの心を奪ってくれないのだ。
(あああ、)
もう、図太いよこの感情って!
せっかく図書館にいるのに。大好きな本を見て回ってるのに、ずっとずっと、あたしの心はふわふわ浮かれてる。地面に足はちゃんとついてるけど、なんだろな、頭のなかの想像はふわあああ、と、ずっと自由に広がって、いろんなことを想像させちゃう。
朝の出来事も、まちがいなくフィルターがかかった状態で、リピートしちゃってるんだ。
あたしを背負っても、ぜんぜん揺らいでなかったな、とか。
学生服から、さわやかでいい匂いがしてたな、とか。
さかき先輩の、いろんな特徴をいまさらながらに思い出しちゃって、あたしは変態か!? って思っちゃった。でもそれだけじゃない。
あたし、重かっただろうな、とか。(でもあんなに軽やかに走ってた!)
あたし、くさくなかったかな? とか。(だって走った後だったし汗かいてた!)
いままであまり気にしたことがないことまで、気になるようになっちゃって、「あああ、」と声をあげて、唐突にうずくまりたい衝動まで出てきちゃう。
いかんです、やばいです、まずいです。
このままだとまちがいなく不審者になりそうだから、まだ昼休憩が終わるまで時間の余裕があったけど、教室に戻ることに決めた。ぼっちになったときのために、大好きな本を一冊、学生鞄に入れておいたんだ。いつもの本を読んで、平常心を取り戻そう。
あたしが家から持ち出した本は、むかしから本棚に収められてる本だ。
グリーン・ゲイブルスにやってきた女の子の物語、に登場する料理の本だ。わくわくと読み進めたあの物語に出てくる、美味しそうな料理の作り方が載ってる。しっかりとした装丁で、素敵な写真もたくさん掲載されてるから、眺めるだけで落ち着くんだよね。
教室に戻れば、いくつかのグループができてる。
でも、席に座りながら、そっと教室内を見回してみたら、みんながみんな、グループを作っているわけじゃないんだよね。手持ち無沙汰に教科書を開いている子もいるし、タブレットをいじってる子も、スマホをいじってる子もいる。前の席の子もそうだった。
あたし、気負いすぎてたのかも。
いまさらながらに、さっきまでのあたしには気づけなかったことに気づいて、ちょっと笑い出したい気持ちになっちゃった。さっきからそんなに時間が経ってないのにね。
そうして本を取り出したとき、前の席の子が立ち上がって、椅子を机におさめながら、軽く会釈するついでに、あたしに目を向けたんだ。
そして目を見開いた。
ごく自然な動きに入り込んだ、唐突な反応に、あたしは驚いた。
え、あたし、なにかおかしいかな? 米粒が口元についてるとか。でもそんなわかりやすい失敗してたら、二人の友達が教えてくれるよね。だから大丈夫と言い聞かせようとしたときに、その子は言ったんだ。
「その本、あなたの?」
よく通る声だな、って思った。
高すぎず、低すぎず。安定したトーンで、耳に馴染む。「うん、そうだけど」って答えながら、あたしは改めてその子を見返した。なんというか、綺麗な子だな。サラサラしたストレートロングの髪と、健康的に白い肌がとても羨ましい感じ。
そう思ってると、その子、チラッと笑った。
「わたし、お料理が好きなの。だから気になっちゃって」
あ? あーっ。
あたしはようやく納得して、持ってた本を掲げた。
そうだよね、気になるよね。あたしが持ってる本は、物語が好きな人にも好まれるだろうけど、料理好きな人も確かに惹きつけそうな本だ。
にしても、料理か。
「すごいねえ。料理ってあたしには面倒なイメージがある」
すると彼女は、「そう?」と軽やかに首をかしげる。
「そういう本を読んでるから、あなたも料理好きなんだと思った」
「あたしは食べるの専門。でも本を読むのが好きなんだ。美味しそうな料理は、見るだけでしあわせにならない?」
「うーん。わたしは見るだけじゃ満足できないかな。どうせなら作って、ついでに食べてもらいたい感じなの。……それじゃ、日向さんはその本にある料理、作らないの?」
ぎくり。あたしはたじろいだ。二重の意味でね。
ひとつはあたしはズバリ、料理下手だということ。我が家の台所は祖母が管轄しているんだけど、包丁すらなかなか持たせてもらえない。レンチンならオッケーなんだけどね。
そしてあたしがたじろいだふたつめの理由は、さらっと自然に、あたしの苗字を呼んでくれたこの子の苗字を、あたしは思い出せないってこと。
ええと、日向の前だから、「は」か「ひ」で始まる苗字だと思うんだけど、と、顔に出さないようにこっそり焦りながら、あたしは「作らないよー」と軽く答えた。
「食べてみたいから誰かに作って欲しい感じ。でも家族にはお願いしにくいんだ。母さんは仕事で忙しいし、八重さん、あたしのおばあちゃんも料理を面倒がる人だから」
「……じゃあ、わたしが作ってみても、いい?」
その子はそう言って、ちょっと緊張した様子であたしを見る。
その眼差しを見たときに、気づいたんだ。
あ、この子も『迷子の一年』なんだって。
そうか、と、乾いた地面に水がしみ込んでいくときのように、あたしはじんわりと理解できた。新しい生活に、不安になってる新入生はあたしだけじゃない。
みんな、同じなんだ。
みんな、新しい生活にどきどきして、同じくらい、緊張してる。
そのことに、さっきまでのあたしは気づかなかった。
そして、いまのあたしは、気づくことができた。
(……本当に、さっきからほんのちょっとしか、時間が経ってないのにね)
だからあたしは、全力で笑って、その子に応えた。
「もちろん! 作ったら食べさせてね、ことは」
かわいい名前だな、って思ってたんだ。
ことは。そのインパクトが強くて、苗字を忘れちゃったけど、でも名前は覚えてた。
(いきなり名前呼びなんて、図々しいかな。でもきっと、大丈夫)
ことはは驚いたように目を丸くして、でもふわりとほころぶように笑ってくれた。
「じゃ、その本、貸してくれる? ……小春」
そっとお返しのように名前を呼ばれて、あたしは嬉しくなった。
「ちなみに、わたしのフルネームは、菱田ことはだから。よろしくね」
さりげなく付け加えられて、できる女だな、とも思った。
**
それからあたし達は、オリエンテーションが始まるまで、おしゃべりした。
驚いたことに、ことはとあたしの本の趣味はよく似てる。最近、夢中になった本のタイトルをあげたら、きっちり同じタイトルが出てきたから、嬉しくなった。
推しはちがったけどね!
ことはの言葉は、とても丁寧でわかりやすい。そんな調子で推しの良さを力説するから、あたしはそれまで気にならなかった存在(でも一応、魅力的な存在だと認識してた)が、にわかに気になり出したよ。え、推しはすでにいるんじゃないのかって?
いいのだ、推しは生きる気力の源なんだから、何人いてもいいのだ!
やがて始業の時間になって、戻ってきた担任の指示を受けて、ホールに移動する。
なんでも全体集会があるんだって。
そしてそのあと、クラブ活動の紹介。紹介というより、勧誘だね。それこそプレゼンだ。あたしとことはは本が読めるクラブに入部希望、という点でも意見を一致させた。
「でも小春は忙しくなりそうね」
ホールに並んでる、チープな椅子に座って、ことはは言う。
「え、どういうこと?」
「生徒会補助員になったでしょう。兄がね、この学校に通ってたから教えてもらったんだけど、生徒会補助員って生徒会メンバーになることが多いのよ。五月に生徒会選挙があるんだけど、その生徒会メンバーに立候補する子は、だいたい生徒会補助員みたい」
「えーっ?」
あたしはのけぞった。
そんな不文律があるなんて、あたしは知らないよっ。そもそも生徒会補助員になった理由は、担任の推薦だもの。言われるまま補助員になったメンバーに、生徒会メンバーなんて務まるもんかっ。
「そう? わたしは意外にいけると思うけど」
「無理無理無理。あたしはただの本好きだもの。人間関係を調整するより、本を読んでいたい人間だもの。第一、生徒会メンバーになったら、クラブに入れないじゃない!」
「あ、それは大丈夫。生徒会とクラブの両立は問題ないんですって」
「うー。でもさあ」
「あ、そろそろ始まるみたいよ」
あたしの嘆きをあっさりスルーして、ことははホールの壇上に注意を向けた。
しぶしぶ口を閉じて、あたしも壇上に意識を向ける。
そして目を見開いた。
なぜってその壇上には、さかき先輩とえなみ先輩が並んでいたんだ。
もちろん他にも生徒は並んでいたんだけど、あたしの目にはまっすぐ、二人の姿が入り込んできた。なんで? と考えたけど、すぐに思い出した。
そういえば、生徒会メンバーだって話していたものね。
あたしはちょっと、嬉しくなった。壇上の二人に向けて、手を振りたくなったけど、それはさすがに空気が読めてない行動だよね、と気づいたからやめておいた。
(でもあとで、話しかけに行くのは、ありかな?)
だってね、話したい。
報告したいんだ、あれからちゃんと「友達」できましたよって。
あと、それから、ちょっとだけ。
さかき先輩と、お話したいな、とも思った。
(やっぱり、これ、恋なのかなあ)
いまのあたしは、ちょっと落ち着いてる。そう見えると思う。
でも、ちょっと、やっぱり、どうしようもないほど、嬉しいんだ。
なんていえばいいのか。
いまのこの気持ちって、街中を歩いていて、好きな花が咲いてるところを見た気持ちに似てる気がする。あ、あたしが好きな花は桜なんだけどね。桜が咲いて、ぱあっと花弁が風に舞ってるところを見たら、テンションが上がるんだけど、そのときの気持ちと、いまのさかき先輩を見たときの気持ち、ちょっとだけ似てるんだ。
ああ、また、見ることができた。
その安心と喜びがいっしょくたになって、あたしを満たしてくれる感じ。
いままで、こんな気持ち、友達に感じたことはないよ。
はじめてなんだよ。
だから恋なのかなって思うけど、でもなんだか。逃げ出したい気持ちもあるんだ。まだ断定したくない。断定しちゃったら、決めちゃったら、本当に逃げられなくなりそう。
壇上に上がっていたさかき先輩とえなみ先輩は、他の生徒会メンバーと何かを話してる。そして先生の合図を受けた別の先輩が進みでて、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「一年生のみなさん、入学おめでとう! 生徒会長の日高颯真です。生徒会は『みんなの毎日をちょっと良くする係』です。このあとメンバー紹介と、五月の生徒会選挙の案内をします。大事な連絡もあるので、最後まで付き合ってください」
その挨拶と同時に、壇上のスクリーンに生徒会メンバーの名前が映り込んだ。
生徒会会長 日高 颯真
生徒会副会長 榊 湊斗
生徒会書紀 神谷 陽奈
生徒会会計 江南 凪
生徒会会計監査 逢坂 ヒカリ
(さかき先輩の名前ってこう書くんだ)
壇上では生徒会長さんがいろいろ話してたけど、あたしの耳にはあまり入ってこず、壇上のスクリーンに意識が向いてた。さかきみなと。
榊、湊斗。
「かっこいい先輩ね」
だから、隣に座る小春がこそっとささやいてきたとき、あたしはビクッとした。
心の中を見透かされたような気持ちになったんだ。
だから奇妙に焦って、「かっこいい」とそのまま、ことはの言葉を繰り返した。
「生徒会長。ハキハキしてて、説明がわかりやすい。頭もいい人なんだろうね」
「あ、うん」
続いた言葉を聞いて、あたしはそう答えていた。
ことはが言った「かっこいい先輩」が、生徒会長さんだってわかって、ちょっとホッとした。榊先輩じゃなかったんだ。安心して、でも、気づいちゃったんだ。
榊先輩のこと、素敵だな、って思う人はあたし以外にもいるんだろうなって。
だって、あんなにかっこいい人だもの。
あたしは膝の上で両手を握り合わせた。落ち着かなくて、そうしちゃったんだけど、でもそんな行動で気持ちが落ち着くはずがなく、落ち着かない気持ちは強くなるばかり。
ぎゅうっと組み合わせた両手に力がこもる。
(彼女とか、……いるのかな)
わからないよ。でもその可能性があるって、気づいちゃったら、どくどく、鼓動が強くなった気がした。
いてもおかしくない気がするんだ。だってあんなにかっこいい人なんだもの!
でもそれ以上は、なんか、頭が真っ白になっちゃって、なにも思いつかない。
「小春?」
ふと心配そうな声が響いた。ことはだ。
あたしは状況をすぐに思い出して、とっさに口角をあげた。微笑みを浮かべたのに、ことはの心配そうな表情が揺らがない。微笑みを強めて、「だいじょーぶ」と返す。
「ちょっと、ね。気分が悪くなったとかじゃないよ」
「そう?」
小春はそう言ってくれたけれど、その眼差しがまだ、あたしを捉えてる。
あたしは微笑みを苦笑に変えて、壇上に視線を戻した。
生徒会長さんがまだ、話してる。榊先輩も江南先輩も、壇上に立っている。あたしとは視線は合わない。あたりまえだ、壇上からちっぽけなあたしなんて見えないだろう。
だけど。
だけど!
(さっきはあんなに近くにいたのに)
理由にもならない想いが、ぴょこって湧いてきた。
あたしはびっくりする。いや、理不尽でしょあたし。いつでもどこでも、あたしに気づいて欲しいなんて、びっくりするほど、わがままだ。
(恋なんだなあ)
でも泣き出したい気持ちで、あたしは白旗を掲げて認めた。
こんなに訳わからないほど、本当に理不尽でとことんわがままになっちゃう気持ち、恋じゃなければなんだというの。
途方に暮れるほど、強くて。こんなにも、あたしを振り回してきて。
あたしは恋なんてしたことないけれど、でももう、そうなんだって確信しちゃった。
そして思い出しちゃったんだよ。どこかの本に書かれてた、もっともらしげな言葉。
初恋は叶わない、って。
(やだなあ)
あたしは両手を握り合わせて、ちょっと、うつむいた。
(やだよ)
この想いが一方通行なんて、いやだよ。
榊先輩に、あたしを見てほしい。
見つけて欲しいんだ。どこにいても。
「小春、ホントに大丈夫?」
気づいたらもう、全校集会は終わってて、壇上から生徒会の人たちは消えていた。あたしはもう一度、言葉に出して気遣ってくれたことはに、ちょっと笑う。
すん、と軽く鼻をすすって、に、と笑った。
「ちょっと、大丈夫じゃなかった」
「保健室に行く?」
「ううん。クラブ紹介も終わってないから、……まだ、ここにいる」
申し訳ないなって思った。
明らかに調子を崩しているあたしを、ことはは心配してくれてる。ありがたい。でも理由を説明できない。こんなに心配してくれてる友達に、あたしは黙り込むしかない。
だって初恋に気づいて、その想いが叶わないかもしれないって、いきなり不安になって、それで泣きたくなったなんて、言えないんだもの。
ことはが怒るかも、って思った訳じゃないよ。勝手なんだけど、そんな気持ちがまるっとない。本当にない。あたし、こんなに勝手な人間だったんだってはじめて知った。
だってね、言葉にして、説明することが怖くなったんだもの。
口に出したら、この想いは本当に叶わなくなりそう。それがなによりも怖い。
恋って厄介だね。
それまでの自分を放り出させるほど、強く振り回してくるくせに、扱い損ねたらあっという間に壊れてしまいそうなほど、はかない感情なんだから。
