3−2

 アンドレアスはフィンを、新しい助手だ、と、ベインズ夫人に紹介した。

 つまり、元アシュバートン男爵令嬢である、と、ベインズ夫人は知らないのだ。だからおそらく、フィンをアンドレアスの助手になるために男装している娘、と捉えている。当然、フィンがアンドレアスの助手になった理由は、行方不明になった姉と再会するためだと知らない。

 アンドレアスがそこまで説明しなかった理由は、間違いなくフィンへの気遣いからだろう。そうやって気遣われているのに、あえてわざわざフィンが話す必要があるだろうか、というためらいが先に芽生えた。けれども、という逡巡が芽生えた理由は、わずか数日とはいえ、ベインズ夫人と親交を重ねて、思いのほか、ベインズ夫人への信頼が育っていたからだ。

 いくつもの瞬間を重ねて、ゆっくりとフィンは口を開いた。

「『兄』が。……わたしがアンドレアス、さんの助手をすることに反対しているからです」
「お兄さまが?」

 結局、フィンがフィオナ・アシュバートンであった事実を隠し通すことにした。だから口に出した言葉は、まったくの嘘ではないが真実の答えでもない言葉になってしまった。

 けれども、口にしたとたん、ずしんと気持ちが重くなる。告げた言葉は、他人に告げるには差し障りのない事実だ。それでも確かに悩んでいた事実でもあるから、気持ちが引きずられる。

 あの日。アンドレアスの助手になることを決めて帰宅した日、レイモンドはすでにフィンの選択を知っていた。そして、冷静な彼には珍しいくらいの勢いでフィンの選択をいさめてきた。

 理由は簡単だ。他でもないアンドレアスが、フィンの両親を処刑台に送った人物だったから。
 そう言われて、フィンは驚いた。

 なぜなら、レイモンドがこれまで、アンドレアスに対する遺恨を口にしたことはなかったからだ。でも考えてみれば当然だ。レイモンドにとって、フィンの両親は恩人だった。たとえ悪事を働いたからといって、その恩人を処刑台に送った人物へのわだかまりは持っていて当然だった。むしろ、わだかまりをあっさり解消したフィンこそが、おかしいのだ。

 いつになく感情的な意見を口にするレイモンドに対し、フィンは努めて冷静に抗弁した。

 いまの自分たちにとって、いちばん大切な目的は、姉を見つけることだと。そうして再び、家族として共に暮らすことが、自分たちが選び続けていかなければならない目的だと。

 だからそのために、過去のわだかまりは捨てるべきだといえば、レイモンドはなんとも複雑な表情をさらけ出して沈黙した。それから短くない時間を置いて、了承してくれたのだが。

 そんな彼を眺めていて、フィンは理解した。レイモンドも事態を理解している。目的を共有しようとしてくれている。ただ、感情的に解決できない部分があり、それはフィンが口を出してもいいところではないのだと悟った時、申し訳ない気持ちになった。

 あれからレイモンドはアンドレアスの元に向かうフィンを普通に見送ってくれている。けれど反対しなくなっても、彼が変わらずに抱いている、アンドレアスへのわだかまりやフィンへのもどかしさが伝わってきて、確かにフィンは、この面でも憂鬱になっていたのだ。

「ご家族のかたが反対されているなら、確かに憂鬱にもなりますね。おまけに、アンドレアスさんがお嬢さまにさせている仕事といったら、重要だけど急ぎではない仕事ですもの」

 細い指でスコーンを割り、クロテッドクリームといちごジャムをぬりながら夫人は言う。

 善良な夫人を誤魔化した事実に僅かな後ろめたさを抱きながら、フィンもスコーンに手を伸ばす。さくりとした感触のスコーンに、思わず頬をほころばせながら、フィンは首を傾げた。

「重要、ですか?」

 整理整頓という意味では、アンドレアスがチェックした新聞の切り抜きをファイル化していく作業は、必要だろうと思っている。けれどもそこまで重要な作業かといえば、疑問だ。わざわざファイル化しなくても、アンドレアスは一度読んだ記事を忘れるような人物ではない、と、かつて同じ学園に通っていたフィンは知っているからだ。

「重要でしょう? アンドレアスさんがファイルを見返しているところ、わたくし、何度か見たことがありますもの。どうして何度も新聞記事を読み返しているのですかと訊ねたら、一度読んだだけでは気づけない事実があるからです、とおっしゃってました」

 そう言いながら夫人はスコーンを食べる。もちろん紅茶も飲んで、フィンを見つめてきた。

「それにね、これは探偵修行として大切な第一段階だと思うのです」
「探偵修行として?」

 思いがけない言葉に、フィンは紅茶を飲む動きを止めた。

「なぜって、お嬢さまがいまファイリングしている新聞は、アンドレアスさんの感覚に引っかかった記事なのですもの。我らが帝国探偵の鋭敏な感覚に引っかかる記事がどういうものか、お嬢さまは一緒に行動されているルイスさんよりも先に知ることができるのでしょう?」

 目から鱗の、発言だった。

 フィンはそもそも探偵になりたいわけではない。だから与えられた仕事は、ただの事務的な仕事でしかなかった。だから切り抜いた新聞記事に注目することなく、淡々とこなしていたのだ。そんな作業を通じて、アンドレアスの思考を追いかけられるとは想像すらしなかったのだ。

 けれども、確かにベインズ夫人が言う通りだ。

 フィンはアンドレアスと行動を共にしていない。だから姉の居場所に関する手がかりもつかめないと考えていた。とんでもない早とちりだ。フィンは確かに、アンドレアスの行動を知ることができる立場にある。少なくとも、彼が何に注目しているのか、知ることができるのだ。

「ありがとうございます、ベインズ夫人」

 ティーカップから指を離して、フィンは姿勢を正して頭を下げた。すると夫人は嬉しそうに笑って、「どういたしまして」と応えてくれた。そうして再びスコーンを味わい始める夫人を見て、フィンは眉を下げた。

 感謝はもちろんあるけれど、申し訳なさが心によぎっていく。

 アンドレアスに言いつけられて、同じ作業をしていた夫人には、「こんな作業なんて」というフィンの屈託がわかっていたに違いない。さらに踏み込んで、家族の反対を受けているという事情を知ってしまったから、フィンの屈託を晴らそうとアドバイスしてくれたに違いないのだ。

(ごめんなさい、ベインズ夫人)

 だからそっと、フィンは心の中で謝罪を付け加えた。

 レイモンドの反応に憂鬱になっていた事実は話せたけれど、元アシュバートン男爵令嬢であった事実まで話せていない。そんな状況に対する、一方的な謝罪だった。

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