ぴたぴたと頬を叩かれ、まぶたを持ち上げようとした。

    (あれ?)

     いつもならもっとなめらかに動くまぶたが、どうしたことか、やけに重い。いや、重いのはまぶただけではない。身体全体、身につけている服がぐっしょりと重いのだ。濡れている。そう気づいた途端、ずきりと痛みが頭の中で響いた。く、と眉を寄せると、右頬に添えられていた手のひらが離れる。冷たい空気がすうっと頬に触れた。寒い。

     ぶるっと震えて、ごく自然な動きでまぶたを持ち上げた。今度はなめらかに動いたから安心する。視界は最初、ぼやけていたが、次第にはっきりとした輪郭を取り戻した。

     どうやら屋外にいるようだった。かすむような蒼が、上空に広がっている。さざ、という音に首を動かせば、うっそうとした森の緑が視界に入る。放り出していた手のひらを動かした。ざらりとした感触が指先に伝わる。土だ。地面に直接横たわっているらしい。

    (なんだこれ)

     よりにもよって、なんで自分は地面に横たわっているのだ。憮然と唇を結んで、身体を起こそうとする。だが、妙に身体が重い。手を支えにしようとしても、ずるりと力なく滑るばかりだ。土とこすれて、微妙に痛い。ひりひりする。

    「無理しない方がいいですよ」

     涼やかな声が響いた。誰もいないと思い込んでいただけに、ずいぶん唐突に響いた。

     わずかに目をみはって、すぐに手のひらの存在を思い出した。温かいと感じた手の主が傍にいたのだろう。何気なく首を動かして、思ったより近くにいるひとに気づいた。

    (うわあ、)

     なんというか、ずいぶん綺麗なひとだった。

     黒い髪に、黒い瞳、黄色みを帯びた白い肌――、特徴は間違いなく自分と同じなのに、格段に質が違う。髪も瞳も艶々と輝いていて、肌は透き通るようなうつくしさだ。造形もまた、素晴らしい。

     イケメンだ、間違いなく。

     そう思いながらも違和感がある。イケメンという単語では足りないくらいの美形だと感じたのだ。すっと通った鼻筋もアーモンド形に整ったふたつの瞳も、少し冷たい印象のある薄い唇も、とにかくすべてが惚れ惚れするほど調和している。

     まじまじと見つめたからだろうか。そのひとは目を瞬いて、ふっと微笑を浮かべた。意地悪そうにも、悪戯っぽいようにも見える微笑だ。男のひとだな。確信した。

    「その様子では、問題なさそうですね」

     白い手のひらが肩の下にまわった。用心深い動きを添えられて、ゆっくりと上体を起こされていく。思いがけぬ接近に茫然として、だが慌てて身体に力を込めた。完全に起き上がる頃には力も湧いていて、しっかりと両手で身体を支えることができた。

    「ありがとうございます」

     間近にある顔に、ようやく言葉を返すことができた。
     相手の顔にちらりと微笑が閃く。

     だがすぐに唇が結ばれ、厳しく表情が引き締まった。漂わせていた温かさも綺麗に消えてしまったから、思わずびくりと肩を揺らした。相手は口端を持ち上げたが、笑みの欠片はない。

    「申し訳ありませんが、これも職務なので。――あなたは何者です? 人間であるにもかかわらず、なぜ、この崑崙に立ち入ることができているのですか」
    「コンロン?」

     耳馴染みのない単語を、思わず口に出して繰り返していた。
     知らない単語だ。けれどどこかで聞いたことがあるような。

     そこまで思考が呟いて、あれ、と目を見開く。

     何もかもが、いっきに押し寄せてきた感触がした。目に入るもの、すべてに違和感を覚える。どこまでも広がる青い空、まわりを取り巻く豊かな緑、さらさらと流れる河、なによりも目の前にいる人物だ。

     こんな格好、今までに見たことがない。着物に似ているが、何重にも重なっている服は、少なくとも日常生活で見かけることはない。

     だが似ている服装を知っている。友人に勧められて読んだ、中華風ファンタジー漫画に出てくる服装だ。閃いた途端、先に云われた単語の意味が通った。コンロン、じゃない。

    「……崑崙?」

     眉を寄せて、呟くように確認する。訝しげに、目の前にいるひとは頷く。

     思わず右手を額にあてた。夢じゃないだろうか。一瞬だけ呟いた推測は、ずいぶん力ない。それもそのはず、五感に伝わる感触は、夢という曖昧な感触ではない。そもそも夢と自覚した途端、夢は覚めるものではないか。

     どうしてこんな事態に、と理由を探る内に、もっと大きな問題に気づいた。思わず自分の姿を見下ろす。ぐっしょり濡れているが、入学したばかりの高校の制服を身にまとっている。それはわかるというのに。

    「どうしました?」

     温かみが戻った様子の青年に問いかけられて、へにゃんと顔をゆがめて口を開いた。

    「あの、――あたし、誰なんでしょう?」

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