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公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

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いろんなわたし。

精神障害を患っている人は、本当の自分なんて考えないほうが良いよ。

先日、そういう文章をSNSで見かけて、どきりとしました。慌ただしく流れていくSNSですから、その投稿の、正確な文章を見失ってしまいました。わたしは、本当の自分を求め出したら深みにハマるよ、という意味合いに受け取り、「そうだよなあ」と納得したのです。数日前の記憶ですから、曖昧なところがあると思いますし、もしかしたら投稿主さんの意図とは、ちょっと違う形の理解かもしれません。

ただ、自分を振り返ったとき。本当の自分というものを考え始めたとき、どうしても病状が激しくなった時の自分を思い出します。あの妄想に囚われた自分が本当の自分なのか、と考えてしまうのです。すると軽く絶望できてしまうんですよね。今のわたし、少なくとも生活を送ることができる今のわたしが頭を抱えてしまうような、そんな妄想を抱く自分を本当の自分だなんて、思いたくないからです。

目次

わたしには記憶のない時期がある。

統合失調症になってから、わたしには記憶のない時期がいくつか存在します。

なぜかというと、その間、わたしの中に宿ったもうひとつの人格が活動していたから。この人格はなかなか迷惑な性格です。「自分は宇宙の使者だ!」と誇大妄想的な発言をしたり、友達に言いがかりの電話をかけたりもします。使用しないホテルの予約もしてましたね……。わかった時には青ざめました。

記憶がないと言いながら、その行動内容を知っている理由は、あとから主治医や友人に、わたしの行動を教えてもらったからです。カード会社にも教えられました。あとから知った内容に、恥ずかしくなりました。居た堪れなくなりました。(社会的に)終わったな、とも考えました。そのくらい、ダメダメな行動をしていたのです。その時期に関する記憶はまだ戻っていません。多分これからも戻ることはないでしょう。戻ってきたらきっと、わたしは耐えられないだろうなあ、という予想ができています。

だから、たまに二重人格の人物が登場する小説を読んでいると、「えー?」と思うことがあります。や、二重人格ってそんな現象じゃないって思ってしまうのですよ。分たれた人格と元の人格が美しく統合されることがあったら、もしかしたら元の人間は自殺を試みるかもしれないとわたしは考えます。自分の体が、自分以外の人格の思うままに動かされる行為によって、それまで積み上げてきたものを破壊されることもある。自分以外の人格が自分として行動した、という事実は、単純にしんどいのです。

だから、その自覚している自分以外の人格を本当の自分よ、と言われたら、最高に辛いですね。いや、第三者がそう言う事態は滅多にないと思います。だから本当のところを言えば、明らかにおかしい言動をしている人格が本当の自分なんだ、と「自分で」思ってしまうことが辛い。わたしには、そう行動したい欲望があったから、そんな人格を生み出してしまったんじゃないの!? という疑いが芽生えます。おかしいとしか言いようのない自分が本当の自分なら、いっそ滅ぼしてしまいたいと願ってしまうこともある。だから本当の自分を追求する行為は、精神障害者にはタブーだよな、と感じます。

「とてもそんな傷害があるようには見えないね」

わたしは自分が精神障害者だということを隠していません。

それは「どんな自分でも自分だから」という前向きな気持ちではなくて、どこかやぶれかぶれな気持ちです。あんだけのことをしたんだから、もう隠しても無駄よね。そんな気持ちもあるし、今後も同じ愚行を繰り返すかもしれないから、失望されないように言っておこう、という気持ちもあるのです。

すると、ほとんどの方に言われます。「とてもそうは(障害者には)見えないよ」と。

ありがたい言葉です。たぶんわたしの気構えとかやけっぱちな気持ちを感じ取ったからこそ、「大丈夫よ〜」と伝えてくれる言葉なんだろうなあ、と感じています。おかしくなった時の自分を知らないからとはいえ、たむけてくれる厚意をありがたいと感じています。そりゃ本当のところを言えば、人と会う時に少々無理している時だってあります。障害者には見えない、そう判断してもらえる自分というのは、副作用もある薬を服用するからこそ、繕えている自分だという自覚もあります。素のままの自分ではなく、薬や治療によって、少し加工された自分。だからその言葉に苦笑する時期もありました。

でも今では思うんですよ。なら、化粧して人と会うことに対して卑屈になる必要はあるのかって。

そんなことはありませんよね。状況によっては、化粧はマナーのうちです。外側をちょっと加工することがマナーであるように、だったら内側だって少し加工することもマナーじゃないかなあ。そしてマナーに従うことによって、自分自身が嘘つきになるわけじゃありません。素のままの自分が、ちょっとだけ、面を増やした。あるいは、第三者に理解されやすいように翻訳してみた。その程度でしかないよなあ、と考えるようになったのです。

そもそも基本的なところを考えれば、「わたし精神障害者なんですよ」という言葉に対して、「そうは見えないね」という厚意を返してくれたのです。だったら、「や、そう思ってもらうために相当苦労しているからわたし!」という気持ちに留まるのではなく、厚意を返してくれて「ありがとー!」でいいんじゃないかなあ、と考えるようにもなりました。もっと進んで、そもそも精神障害者と打ち明けなくても済むような、そんな精神状態になりたいとも感じるんですが、……やっぱりあとから失望される方がずっと辛いから、予防線を張ってしまうんですね。この辺り、まだまだわたしも未熟です。

本当の自分なんてものは、

わたしの中には、いろいろな自分がいます。

社会的に見て問題行動をする自分もいれば、友人たちの助けになるように行動する自分もいる。自分可愛さで動いた行動が、他人にとっても優しい行動になることもある。良いも悪いも両方、存在する。

病気によって生み出された人格がやらかした行動全ては問題視されることばかりだったけれど、だからと言って、いまの、健常者と変わらないと評価されもするこの人格がやらかした行動すべてが問題ないかといえば、そうとも言えない。自覚できる問題、自覚できない問題を、混合して生み出しているようにも思う時もあります。良かれと思ったことが悪い方向に結びつくこと、ありますものね。

本当の自分って、そういうことをしない、素晴らしいものだと思いますか。

わたしはそう思いません。本当の自分って、幻としか思えません。本当の自分はそんなことをしないとか、本当の自分はこんなものじゃない、とか。そういう物言いは、逃げ口上のようにも感じられます。

素のままの自分、加工された自分。どちらも自分で、どうしようもないほど醜悪だったとしても自分で、すっぱりと揺らがない現実です。だからこそどうしようもなく苦しくなることもあります。

それでも、幻としか思えないような「本当の自分」を追いかけるほど、苦しいことはない、と思うのです。自分を少しでもマシな人間だと思いたいのなら、幻のような「本当の自分」を追いかけるのではなく、どうしようもない自分をどかーんと受け止めてやることから始まるのではないのかな、と思うのでした。

----まあ、もうひとつの人格がやらかした行為を思い出せないわたしが、いうことではないかもしれませんけれども。

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