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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

4・動揺しない人っていかがなものか。

(……あれ)

アヴァロンの居住部に入ったわたしは、微妙な違和感を覚えた。なんだろう、この感じ。右、左と見まわしたけれど、さっぱりわからない。アイボリーに茶色の小花が散った壁紙に、素朴な印象のタペストリー。チェストの上には飾り皿が3枚。出かける前に見かけたままの内装だ。それでも疑問を拭えないままに、テーブルの上に置いているデリシャの実に近づいた。

そこで原因に気づいた。山が、崩れている。

正確に云うなら、デリシャの実が積み上がった山は変わっていないのだ。でもちょっと小さくなっている。まるでその数を減らしたかのように。――わたしは半信半疑ながらも、ひとつずつ実を数えていった。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、――七つ。ぴたりと動きを止める。ひとつ、足りない。

確か昨日、シャルマンが購入してくれたデリシャの実は、十個あったはずだ。異世界でも十進法なんだと思った記憶があるから、間違いない。そして昨日、ひとつを調理して、今朝、ひとつを食べた。記憶を探っても、それだけが事実だ。だから残りの数は八つでなければならないのに、ここには七つしかない。

(だれか、ひとつ、持っていった……?)

そう考えたとき、いちばんに閃いたのは、思いがけないことに東條さんだった。
まさか、と思う。

確かに今朝、サンドウィッチを持ってきてくれて、その食器は置いていてくれればいいと云っていたけれど、滞在する間は居住部に入って欲しくなかったわたしは、食事を終えるなり食堂に持って降りたのだ。だから彼がこの部屋に入ってくる理由はない。それに入ることだってできないはずだ。なぜならここのカギはひとつしかなくて、そのひとつをわたしが持っているんだから。

(――本当に?)

ふと、なにげなくそんな疑問が心に芽生えた。

本当に、鍵はひとつだけなんだろうか。たとえばわたしの家なら、父と母、そしてわたしと弟、のカギ以外に、予備のカギがある。そういう風に、この居住部にだって予備のカギがなかった、だなんて、断言できるだろうか。そう閃いてしまえば、にわかに東條さんへの疑惑がこみあげてくる。そんな自分に気づいて、はっと我に返った。ぱんと両頬を叩いた。

(しっかりしろ、わたし!)

これまで東條さんがわたしに見せてきた態度を思い出す。立派な態度だった。それを忘れて、ただ、デリシャの実がひとつなくなったくらいで、彼に疑惑を向けてしまった自分を恥ずかしく思った。

たぶん、数え間違いか、記憶間違いだったんだろう。そう云い聞かせて、デリシャの実を両腕に抱えた。そもそも、そのために一階に上がってきたのだ。窓から外を眺める。まだ、空は明るい。でも陽射しはそろそろ、オレンジ色がかかっている。身をひるがえして、デリシャの実を落とさないように扉を開いた。

「遅かったね」
「うん。ちょっとね」

踊り場で待っていたオリヴァーは、言葉を微妙に濁したわたしに何か云いたげだったけど、何も云わずに、腕を伸ばしてわたしからデリシャの実を取り上げた。ちらりと見下ろす、そのまなざしに驚いた様子はない。もしかしてこの世界にもある食べ物だったのかしら。何せ世界は広いし、イギリスでは日本とは違う食べ物があるんだろうし。いまさらのようにそんなことを考えながら、階下に降りる。

まれに通りかかる人の視線を意識しながら、オリヴァーが入りやすいように、食堂の扉を開いた。彼が入って行った後、「closed」の札がかかっていることを確認して、扉を閉めた。オリヴァーはごろんごろんとデリシャの実をカウンターに転がせる。そのうちひとつをとりあげて、興味深げに眺めている。

「驚かないの?」
「驚いているさ。ドラゴンフルーツに似ているが、まったく別の食べ物だと感じているところ」

だったらもう少し、驚いたようなアクションをしていただきたいのですが。

オリヴァーの反応に物足りないものを覚えながら、エプロンを身につける。包丁を取り出して、転がっているデリシャの実のひとつを取り上げた。今朝と同じように包丁を当てて、身体全体で力を入れるように半分に切る。すとんと思ったより抵抗なく切れたのは、東條さんの手入れがいいためだろうか、それともこの果物が熟していっているからだろうか。ぱかりとオレンジ色の内身がのぞけば、オリヴァーは「へえ」と短く声を上げる。ちらりと見上げれば、驚きはもちろんあるけれど、好奇心がいっぱいな子供のような顔つきをしている。紫色の皮を包丁でむいて、メロンを切り分ける感覚で食べやすい大きさで切った。そして適当なお皿に盛って、オリヴァーにさし出す。

「どうぞ? まずはこのまま食べてみて」

オリヴァーは待ちかねたように、神経質そうな指でデリシャの実をつまんだ。まず、匂いを嗅ぐ。軽く舐める。そして口に放り込んだ。ためらいがない。しばらく無言で口を動かしていたけれど、やがて呑み込んだ後に口を開いた。

「生ハムと一緒に食べてもおいしそうだ」
「おいしいでしょ?」

そう云いながら、わたしも指でつまんでデリシャの実を口の中に放り込む。しゅわしゅわしゅわ、豊かな果汁が広がって、ごくりと飲み込んだ。あれからオリヴァーの家でアフターヌーンティーを楽しんだからお腹はいっぱいなのだけど、それでも果物は別腹だ。

――陽が、暮れてくる。

デリシャの実をつまむ、その指を止めて、わたしは窓の外を眺めていた。オレンジ色に染まっていた空は、もう、紺色の空に変わりつつある。ぽ、と目の前に明かりが灯った。向かいの建物に灯ったそれは、もう電気製品の光じゃない。ろうそくに似た光だ。温かくまあるく光る、オレンジ色の光の下に、人とは少し違う外見の人々が映し出されている。

わたしはカウンター前に座っているオリヴァーを見た。さぞや驚いているだろうと思ったのだけど、これでもオリヴァーは平然とした様子だ。「なるほど」、そう呟いて、ガタンと立ちあがる。そのまま扉に向かって歩いて、思い切り開いた。

驚いてしまったのは、このわたしの方だ。オリヴァーの動作は、ためらいと云うものがない。昨夜、シャルマンに置き去りにされたわたしは、びくびくしながらこのレストランの中に閉じこもったと云うのに、大きな差だ。扉近くにオリヴァーがいる。だからためらっても仕方ないと見極めて、わたしもカウンターから出て彼に近づいた。そっと見上げる。

驚いた? そう問いかけることは表情を見るだけで無駄だと感じた。たぶんこういう答えが返ってくるに違いないのだ。――驚いているさ、映画のセットとは違うなと感心しているところだよ。声の調子まで想像できるほどだ。

わたしは正面を見つめる。すると人ではないヒトが通行する傍らでわたしたちを見ていることに気づいた。といっても、異世界の人間だから、と云う理由じゃない。この食堂を開けるつもりはあるのか、と問いかけるまなざしだった。ああ、こちらの世界の人にもこのアヴァロンは知られているんだ。そう感じたわたしの唇がゆるむ。

「いろいろな外見の人間がいるけど」

扉を開いたままオリヴァーは平然と続ける。

「皆が同じ味覚、と云うことに違和感を覚えるな。こちらの生態系はどうなっているんだろ。皆が皆、雑食と云うわけじゃないよね?」

振り返って問いかけるものだから、困ってしまった。

結局、この世界についての知識がないわたしには、その質問に答えられない。応えられそうな存在はいるけれど、少なくともいま、ここにはいない。それを悟ったのか、オリヴァーは眉をあげて、「ごめん」と軽く謝る。首を振って、気にしていないと伝える。

「でもそんなことを気にすると云うことは、こちらの世界に興味でもあるの?」
「まさか。僕は自分の生まれ育った国の料理を美食レベルに引き上げることには興味があるけど、関係ない世界の国の料理なんて興味はないね」

きっぱりと云い放って、それでも説明になっていないと感じたのか、「好奇心さ」と短く応えた。そうしてその言葉が事実であるかのように、くるりと異世界の街並みに背中を向ける。そうか、とわたしは悟った。

オリヴァーには確固たる望みがあるのだ。そしてそれは生まれ育った世界にしか、存在していない。

だからこそ、この異世界の存在にもさして驚いていない。つまり、異世界などどうでもいいことなのだ。

わたしは微笑んでいた。オリヴァーの在り様はすごく頼もしく、すがすがしい。
正直に云えば、妬ましいほどだ。

わたしにも望みはあるけれど、彼ほど揺らぎのないものかと云えば首を傾げてしまう。人に喜んでもらえる料理を作りたい、という望みは、判断基準が他者にあるからこそ、揺らぎやすい。

ともあれ食堂の中に戻っていく彼を追いかけようとした時に、わたしはその音を聞いた。

がらがらがら。馬車が走る音だ。
訝しく思ったのだろう、オリヴァーも足を止めて振り返る。2人そろって顔を向けると、馬車はこのアヴァロンの前に止まる。

「旦那、着きやしたぜ」

はっきりと聞き取れない英語で、その小さな御者は馬車の中に呼びかける。「クルラホーン……」、静かな呟きが、すぐ近くから聞こえた。まさか、とわたしは予感に捕らわれる。この馬車に乗っている人物に心当たりが出来たのだ。まもなく扉が開いて、あの、忘れられないほど美麗な貴公子が姿を現した。ステッキを持って降り立ち、御者を振り仰ぐ。

「御苦労」
「なんの。また呼んでくだせえ、シャルマン伯爵」

そう云うなり、御者は鞭を打つ。がらがらがら。馬車は走り去り、シャルマンはわたしに向かい合った。

「精進を重ねたか、エマの血統」

端正な唇に笑みを浮かべ、そんなことを云う。

「まだ。たった一日しか経っていないよ」
「二十四時間、立派な修行時間ではないか。そんなことを云うとは、性根が甘ったれているぞ」

わたしは苦笑して、オリヴァーを振り仰いだ。腕を組んでいた彼は、ゆったりとした動作で腕を解き、シャルマンを見つめた。シャルマンは初めて気づいたように、オリヴァーを見つめ、そしてふっと笑った。

「おまえには一度会っているな」
「どこで?」

どこか警戒したように問いかけるオリヴァーに対し、シャルマンはどこまでも落ち着き払った態度で云う。

「この姿ではない。だがいま、あえて慣れない格好になるつもりはない。わたしがそちらの世界に留まるときに、おまえはそれを知るだろう」
「……意味が、わからないな……」

はっきりと眉をひそめたオリヴァーの耳元に、背伸びをしたわたしは囁きかけた。

「ほら。昨日会ったでしょう、あのきれいな黒猫よ」
「なっ」

さすがに驚きの声を上げるオリヴァーを、シャルマンは愉快そうに見つめる。そうかと思えば、先だって食堂へと歩き出す。わたしは慌てて後を追いかけた。

「シャルマン。今日は何をしに来たの?」

するとカウンターに落ち着いたシャルマンは、艶やかな髪を揺らして、わたしをかえりみた。

「もちろん食事だ。代価はちゃんと払う」
「でもこちらの料理は作れないけど。材料もないし、レシピも知らないから」
「ならばそちらの世界の料理でもいい。そちらの材料は充分にあるんだろう? 今日もお腹を空かせてきたからな、わたしの腹を早く満たしてくれ」

せっかくの貴公子姿も、この言動で台無しだ。

ふにゃりと笑い出したい衝動をわたしはこらえる。オリヴァーは軽く会釈をして、シャルマンの隣に座った。こちらもにこりと笑顔を浮かべる。

「もう、途中で席を立ったりはしないよ。安心して」

ほう、と云いたげなまなざしでシャルマンはオリヴァーを見つめる。気づいているだろうに、オリヴァーはあえて無視している感じだ。もっともシャルマンには気にした様子はない。

とりあえず冷蔵庫に向かう。扉を開けば、ひんやりとした冷気が顔に触れる。異世界に通じているこの時刻でも、電気が通っている不思議に首を傾げながら、たっぷりとつまっている食材に頼もしさを覚えた。

でも材料を3人分、使ってしまって、東條さんは明日、困らないかなあ。

そんな不安を抱えてしまったけど、よくよく考えたら、たかが3人分、という視点もあることに気づいた。一日にこの店を訪れる客数を考えたらたいしたことないかもしれない。

だから少し考えて、鶏のモモ肉を取り出した。手早く調理できるチキンソテーを作ることにしたのだ。もう夜も遅いからもっと軽いものを、と考えたのだけど、少なくともわたし以外の人間は食べられるだろう。なんといっても男の人だもの。

その前に、ミネラルウォーターを出すことにした。氷を浮かべたグラスに、レモンのスライスを浮かべて、2人の前に並べる。

「紅茶は食後に出すから。ちょっと待っていてね」

もしかしたらお酒でも出した方がよかったのかな、とためらいがあったのだけど、2人は軽く頷いてくれる。ふと閃いて、わたしはオリヴァーを見つめた。

「ねえ。せっかくだからシャルマンに、レシピ集を見てもらわない?」<br> <br=””>

グラスに唇をつけたオリヴァーは目を見開いたけど、シャルマンは「ほう」と合いの手を入れて身体を乗り出した。

「エマのレシピ集か。もう解読できたのか」
「そう。オリヴァーのおかげでね」

そう云いながら彼をもう一度見つめると、オリヴァーは立ち上がり、放置していたわたしのバッグからレシピ集を取り出してくれた。そのいちばん上に、今日解読した部分を書いた用紙がはさんである。

オリヴァーがそれをシャルマンに渡す様子を見ながら、わたしはモモ肉に切り込みを入れて、塩こしょうした。フライパンを取り出し、油をしく。まずは強火、モモ肉を落とせば、じゅわ、と威勢のいい音がする。ふわりと肉が焼けてくる匂いがした。両面に焼き色をつけた後は弱火にして、ワインとブイヨンを入れてふたをする。しばらく煮ることにしよう。

「なかなか興味深いレシピではあるな」

シャルマンは英語なら読める、と云っていた。だから解読した文章も読めるのだろう。紙に視線を落したまま、そんなことを云う。わたしは動きを止めなかったけど、オリヴァーはちらりとシャルマンを見た。

「興味深いとは?」
「こちらの食材が確かに使ってあるが、こちらの世界の住人が使わない方法で、下ごしらえに使っている。たとえばカーライル、これは匂いが独特なものだから、薬草とはいえ料理に使おうと云う者はいない。けれどこのレシピによると、肉の臭み消しとして利用している。――うちの料理人にも見習わせたいところだ」

どうやらシャルマンは、人を雇っている立場の人間らしい。オリヴァーが興味深げに口を開いた。

「あなたは伯爵と呼ばれていましたが、この世界の政治体制はどうなっているのです?」

ふむ、と低く唸る。

「それが重要なことかね、青年。わたしにしてみたら、青年の立ち位置こそが重要だと感じるのだが?」
「立ち位置?」
「たとえばこのアヴァロンが異世界との入口であることは、エマの血統に伝わる秘密であるはずだ。それをこうして明かされていると云うことは、彼女の」

ちらりと人参の面取りをしているわたしを見る。

「伴侶になる予定かね?」
「は!?」

ぴた、と包丁を握る手に力を込めて、動きを止めた。

(あ、危なかった……)

危うく親指をざくっと切るところだった。防げたことにまずほっとして、慌ててシャルマンを見つめる。ちなみにさりげなく見たところ、オリヴァーはさらりとした様子で動揺のかけらもない。少しだけ悔しい。

「なにを云っているの、シャルマン」
「違うのか?」
「違う。そもそもこのお店はもう、おばあちゃんのお弟子さんのお店になることが決定しているの。と云うより、すでにそうなっているの! まだ建物の名義は母さんのものだけど、近いうちに東條さんのものになると思う」
「その男は、こちらのことを知っているのか?」

眉をひそめてシャルマンが問いかける。わたしは言葉を失ってしまったけれど、事実は揺らがない。首を横に振った。知らせていないし、知らせるつもりもない。少なくとも、母にはそのつもりはない。

「トウコ」

するとオリヴァーが、口をはさむ。

「それは本当に決定なのか? きみの母親は、本当にあの男にこの店を渡すつもりなのか」
「そう。今日、朝に電話したときにも云われた。東條さんに譲渡するつもりで書類を作成させているから、あなたはこのお店を諦めなさいって」

2人の男はその言葉を聞いて顔を合わせる。わたしは小鍋を取り出して、ブロッコリーをゆで始めた。「しかたないでしょ?」、出来るだけ軽い調子で云う。

「だってわたしは未成年で、イギリスで一人、お店をやっていけるような技術もないんだもの。母さんはこの店を継げない。だからこの店を、異世界との入口を閉鎖するって」
「それは管理を放棄する、と云うことか」

厳しい口調でシャルマンは云う。思わず身体をすくめそうになったけど、わたしはこらえて、まっすぐにシャルマンを見た。

「そうするしか、ないんだもの。こちらの世界の人にしてみたら無責任かもしれないけど、母さんには母さんの生き方がある」
「おまえは? エマの血統。この店を続けたくないか」

鋭い問いかけに、わたしはへにゃりと笑った。決して楽しいからじゃない。むしろ、その逆だ。

「意地悪な質問、しないでよシャルマン。わたしは未成年なの。この店を続けるほどの資金もなければ、技術もない。料理のことだってまだ、栄養学を学び始めた学生に過ぎないんだから、おばあちゃんのように経営しようなんて、いまのわたしには無理な話なの」
「資金がなければ、資金援助を乞うと云う手もある。技術が足りないのならば、技術が足りるようになるまで店を休業させておく、と云う手もある」

今度はオリヴァーだ。なめらかな口調でそう言い切った彼は、からんとグラスを揺らしてミネラルウォーターを飲んだ。その言葉に隣のシャルマンが頷く。わたしは困ってしまって、ゆだったブロッコリーを引き上げることもせずに、ずっと立ち尽くしてしまった。するとオリヴァーが立ちあがってカウンター内に入る。ブロッコリーをお湯から引き上げながら、云った。

「少なくとも犯罪者に経営させるより、マシだよ」

「はんざいしゃ……?」

しゅんしゅんしゅん。わたしの言葉にお湯が沸騰する音がかぶさる。オリヴァーは腕を伸ばして、小鍋の火を消した。フライパンのふたを取って、チキンソテーの加減を見る。充分だと見極めたのか、ちらりとわたしを見つめる。はっとわたしはフライ返しを使って、チキンを取り出したけれど、云われたばかりの言葉に頭を支配されていた。

――犯罪者に経営させるより、マシだよ。

オリヴァーは確かにそう云った。話の流れから判断するに、それは間違いなく東條さんのことだ。でもなぜ。ようやく動き出した思考がそう呟く。でもなぜ、オリヴァーはそんなことを云えるんだろう。

「穏やかならざる言葉だな、青年」

腕を組んだシャルマンが、眉を寄せて告げる。

カウンター内から出ていくかと思ったら、そんなことをせず、オリヴァーはまるでわたしに寄り添うように傍に立っている。いや、事実、寄り添ってくれているんだろう。おぼつかない手つきのわたしをフォローするように、神経質そうな手が追いかけて補助する。

「犯罪者とは、どういう意味かね。いま、彼女の母親がエマの跡を継がせようとしている人物が何らかの犯罪にかかわっている、と云うわけかな」
「――おそらくは、殺人に」

ぴたりとわたしは今度こそ動きを止めた。

殺人。オリヴァーはあの東條さんが人を殺したと云っているのだ。唐突に、舌によみがえる記憶がある。今朝、味わったローストビーフのサンドイッチの味だ。とても心に響いた味を思い出す。すると、するりと力が抜けて、フライパンから指が離れた。細長い指が動いて、フライパンの下の火も消す。そのままわたしの肩に移動して、カウンターの外に連れ出した。シャルマンが立ちあがり、すとんと座らせられたわたしを心配げにのぞきこむ。

「エマの血統?」
「オリヴァー」

指の力が抜けている。そんな事実が意識に響いている。ううん、指だけじゃない。足もだ。だから椅子に座らされたのは、とてもありがたいこと――そう思っているのに、この唇は彼を疑う言葉を吐き出すのだ。

「本気で云っているの?」

オリヴァーは沈黙している。

黙って、ただ、わたしの凝視を受け止めていた。あざやかなサファイアブルーの瞳は静かにわたしを見つめている。優美な美貌は無表情になってしまっている。そうしていると、彼はとても冷たく見えるのだ。

でもわたしはわかった。これは感情を押し込めているときの、彼の表情だと。いままでに見たことがない表情ではあるけれど、感情が揺さぶられて、それでもなすべきことをなそうとしているときの、彼の表情なのだと、感覚で悟ることができた。

(不器用なひと)

ふと、そんな想いが心によぎる。云われた言葉の衝撃は、まだわたしの意識に響いている。でもそれとは違う階層で、目の前にいる男の人の、思いがけぬ姿に言葉を失っていた。だってそうでしょう。殺人、と云う衝撃的な単語を放りだして、それきり沈黙しているだけだなんて、あまりにも朴訥過ぎる。それは、それまで認識していたオリヴァーの印象とは違っていた。

ふう、と溜めていた息を、吐き出した。

「証拠はないんでしょう?」

オリヴァーは何を根拠にそんなことを云い出したのか、それはわからない。でも確たる根拠があると云うなら、東條さんはとっくに警察に拘束されているはずだ。そんなことを考えながら、わたしは言葉を返していた。舌には、あの、やさしい味がよみがえったまま。

あんな料理を作る人が、人を殺すだろうか?

わたしは、否、と答えたい。ああいう料理を作る人が人を殺すなんてありえない、と主張したい。だってやさしい味だったの。本当にあれは、やさしい想いで作られている料理だと感じている。

それはお人好し過ぎる意見だろうか。世間知らずの、料理人志望ならではの、甘ったれた意見だろうか。

それでも、いまのわたしが抱いている感情はその程度にしか収まらない。殺人と云う言葉はたいそうな言葉だ。それでも、いまの段階では実感できない。わたしの日常とはかけ離れ過ぎていて、どういう対処をすればいいのか、さっぱりわからないのだ。

途方に暮れている。

オリヴァーはわたしの言葉を受け止めて、それでも黙ったままだった。けれどやはり、彼の表情は、まなざしは雄弁なのだ。彼はいま、後悔している。何に対しての後悔だろうか。東條さんを犯罪者だと、人殺しだと云いきってしまったことへの後悔だろうか。わたしは彼が、ぎゅっとこぶしを握るさまを見た。さ迷うように指を伸ばし、そしてそんな自分を戒めるように、彼はわたしに触れることを止めた。

「ごめん」
(ばか)

オリヴァーの謝罪を聞いて、とっさに思い浮かんだのはそんな言葉だった。証拠の有無を確認する言葉に返すには、この謝罪はあまりにも不適当だ。この謝罪は、証拠もないのに人を犯罪者扱いするの、という非難につながるだろう。わかっているだろうに、彼はその言葉を告げた。その確信が揺らいだわけではないだろう。ただ、彼はわたしの状態を見て、自分の言葉がもたらした影響の重さを、顧みたにすぎない。

「オリヴァーの、ばか」

だからわたしは、思ったことを正直に告げた。

相手がどう思うか、なんて、あまり考えていない。ただ、そう云った方がいいような気がしたのだ。意表をつかれたように、サファイアブルーの瞳が瞬く。小さな笑声が響いた。

シャルマンだ。わたしのすぐ近くに屈みこんでいる貴公子は、すべてを見透かしたようなまなざしで、わたしたちを見ていた。その様子が少しばかり腹立たしく、また、そんな状況に持ちこませたオリヴァーが腹立たしくも感じて、わたしは椅子から立ちあがった。きゅ、と身体をオリヴァーに向ける。

「東條さんが殺人にかかわっていたとして、誰を殺したのか、ということまでわかっているの?」
「いちおうは」

よし。わたしは頷いて、にっと唇を持ち上げた。

「なら、明日、東條さんに訊いてみよう」

ぷ、と吹き出す音が聞こえた。その出所は改めて云うまでもない。朗らかに響く笑い声の主をきっと睨んで、オリヴァーはわたしに向き直った。何かを云おうと口を開く、その顔にぴしっと指をつきつけた。

「証拠がない以上、そうするしかないじゃない。疑惑をいつまでも抱えて、うろうろ振り回されるのはいやだわ。なにせ、これにはアヴァロンの今後がかかっているんですからね」

顔をしかめたオリヴァーは、わたしの指を掴んで、叱りつけるように言葉を返してくる。

「だからといって、直接あの男に訊ねると云うのは無謀だ。云い逃れるかもしれない。思いつめて、きみに害をなそうとするかもしれない。それなのに、」
「それなら好都合、とは考えられない?」

いっそ悪辣な言葉をぶつけてやる。オリヴァーは苦虫を噛み潰したような表情で、わたしを見つめた。

「本気で云っている?」

わたしはようやく、ちょっとだけ笑った。

ちらりとシャルマンに視線を流した。揺らがない表情の彼は、わたしに合わせるように立ち上がり、そして少しばかり距離を置いていた。まるで子供を見守る親のような表情は、わたしの意見にもオリヴァーの意見にも、肩入れするまいと決めているかのようだった。

だからこそ、ありがたい。

あのね。――まずはそんな言葉を前置きして、わたしは目の前のオリヴァーを説得するべく口を開く。

「わたし、オリヴァーと同じものを見ていない。だからどれだけの根拠があったとしても、東條さんを犯罪者だと、――わたしを害そうとするとは思えない」

そう云いながら、ちらりと脳裏に過る事実がある。
数を減らしたデリシャの実。おばあちゃんのレシピ集に対する、執着を感じさせる東條さんのまなざし。

オリヴァーに知らせていないそれらの事実は、それでも、わたしの判断を覆すほどのものではない。オリヴァーはわたしの言葉を聞いて、少し、表情を鎮めた。考え深く色を変えた、サファイアブルーの瞳を穏やかにわたしに据えて、言葉を聞いてくれる。

「だからね、わたしはわたしらしく、真っ向から東條さんに向かっていく方法しか思い浮かばない。倫理的には問題ありかも知れないけれど、――わたしは警察でもなければ、探偵でもない。ただの、料理人志望として、おばあちゃんの店を受け継いだ人に、事実を確かめようと思っているだけだから」

長い沈黙だ。

オリヴァーはじっとわたしを見ている。そのまなざしはあまりにも真剣なものだから、わたしは受け止め続けることに、ちょっと息をつめていた。シャルマンは徹頭徹尾、なにも云わない。ただ、わたしたちを見ている。やがて奇妙な三すくみは、放り出すような、オリヴァーの溜息で終わりを告げた。

わかったよ、と。

そう告げたオリヴァーは、けれどわたしに約束させた。東條さんに真相を訊ねるその場に、自分も必ず呼ぶこと。それだけは譲れないと云う彼に、わたしの唇がゆるんだ。

でもこのときのわたしは、翌朝、東條さんが行方不明になるとは思いもしなかったのである。

「彼? わりと良い人よ。なんといっても、清潔だわ。そういうところ、日本人の長所よね。え? ああ、食堂の料理人をしていることは知っているわよ。だからいま、出勤している時間じゃないの?」
――証言一。
「ああ、あの日本人ね。仕事仕事ばかりで何が楽しみなのかもわかりゃしない。本人もどこか暗いしね。え、そんなこと感じなかった? それはぼんやりさんねえ。良いこと、あの男ときたらね(以下、略)」
――証言二。
「ああ。あの男はいい男だ。わしが困っているときに、黙って手を貸してくれた。何、職場に来ない? ンム、妙なことに巻き込まれていないといいが」
――証言三。
「へ。あの男がいようがいなかろうが、知ったこっちゃねえよ。それよりあんた誰だ?」
――証言四。
「ああ。毎朝、りんごを買いに来るネパール人だな。え、日本人。ああ、そのあたりの区別はわしには難しいな。なに、あの男が職場に来ない? そういえば今朝、店にも姿を見せなかった。病気か。しかし毎日リンゴを食べて病気になるとは考えられん」
――証言五。

(結局、何もわからないのよね)

きゅ、と水道の水を止めて、わたしは溜息をつきたくなった。この三日間、溜息ばかりついている気がする。きれいに洗濯した布巾を取り出して、洗ったお皿から水気を拭き取っていく。そして食器棚に並べていった。ほんの一人分だからすぐに片がつく。

――あれから二昼夜、東條さんは姿を見せない。

唐突な消息不明に、わたしは困惑しているところだ。

体調でも崩したのだろうか。でもそれなら連絡してこないはずもないし、と思い余ったわたしは、今日の午前中に、東條さんの住む地域まで足を伸ばしてきた。けれどもいくらノックしても反応がない。思い切って近所の人にも聞きこみをしてみた。でも東條さんの行方を知っている人はいない。知ることが出来たのは、東條さんの日常生活くらいなもの。ったく、毎朝リンゴを購入していたと云うことまで知ってしまったよ。

でも昨日と今日の朝、東條さんは馴染みに姿を見せていない。つまり、わたしたちが東條さんについて話し合っていたころに、彼の姿は消えたと云うことだ。

(なにかが、あった?)

わたしはさまざまに想像したけれど、それは所詮、世間知らずの小娘が思い描いた想像だ。妄想と云ってもいい。なまじ、東條さんが犯罪者、という情報だけを与えられているから、どこのアクション映画か、と云わんばかりの想像を思い描いてしまったんだもの。

でもこれは、オリヴァーにも責任があるんじゃないだろうか。

事態を知ったオリヴァーは、わたしに代わって警察の知人に東條さんの行方を問い合わせてくれている。なにかがわかったら知らせる。そう云ってくれたけれど、あれきり連絡をよこしてこないのだ。忙しいんだろうなあ、とわかっている。でも少しくらい顔を見せてくれてもいいじゃない、と主張したがる自分もいるものだから、ちょっとだけ困っている。

こうなってしまった以上東條さんがかかわっていた犯罪とやらに関しても教えてくれてもいいじゃない、だから妄想が暴走してしまうのよ、とぼやいている自分の意見に、そうだよなあと流されそうになって、いかんいかんと頭を振って溜息をついている。いまがそうだ。

とにかく、もどかしい。

ちらりと扉を見つめる。しかたないから、「Closed」の札がかかったままになっている、その扉向こうにはいつものロンドンの街並みがある。そしてわたしは何度か、常連らしき人が覗き込む瞬間を見ているのだ。そして、がっくりしたように帰って行く姿も見ている。

(まずいなあ)

おばあちゃんが遺した食堂、アヴァロン。このままでは存在を忘れられ、そして廃れていくのではないだろうか。そんなことすら思ってしまって、また、溜息がこぼれる。事態がどんどん悪化していくように感じているのに、何もできない。こういう事態が、わたしはいちばん苦手だ。

ともあれ気分を切り替えて二階に上がろう。そう考え直したときだ。扉が開く音がした。
誰かが入ってきたのだ。慌てて振り返って、わたしは目を見開いた。
入口に立っていたのは、やけにゴージャスで妖艶な美女だった。
そう、オリヴァーのお母さんだ。

「ごきげんよう?」

艶やかな紅で彩られた、肉厚な唇がそんな言葉をゆっくりとつむぐ。濃いマスカラの向こうに輝く瞳は、やけに挑戦的でごくりと喉を動かしていた。

なんだ。どうしてこのひと、ここにきたのだ。

ともあれ、ごきげんよう、と云われた以上、ようこそいらっしゃいました、と云うべきだろうか。でもお昼ご飯は出せないのに、と、戸惑っていると、かつかつとヒールを鳴らして歩み寄ってきた彼女は、何の了承も得ずにカウンターに座った。

(あ)

オリヴァーが座っていた席だ。そのことに気づいたわたしは、なんとなく落ち着かない気持ちになる。
でもまごまごしている間に、彼女はあっさり口を開いた。

「注文、してもいいかしら?」
「あ、いえ」

ためらいを覚えたのだけど、断るしかない。

「申し訳ありません。ただいま、表にもありますように、アヴァロンはお休みをいただいているんです」
「あら。でも調理は出来るんでしょう?」

そう云う彼女のまなざしは、わたしを通り越して、カウンター内に向けられている。まだ濡れているから、調理した後だとわかったみたいだ。一瞬、そちらの方向を振り返り、どうしたものか、と、悩んでしまう。すると彼女は、ふっとあざけるように唇を曲げる。

「オリヴァーには料理を出せて、このわたくしには料理を出せない、そんなことは仰らないわよね。どんな料理でも文句は云わなくてよ。あの、味に煩いオリヴァーが我慢している料理なんですもの」

ぐっとわたしは唇を結んだ。言葉だけを見たら、どうという内容じゃない。でもなんと云えばいいのか、――彼女、アビゲイル夫人の言葉には、何とも云えぬ侮蔑が込められていたのだ。悪意が滴り落ちるような毒に、わたしの感情は思い切り逆なでされた。

(つくってやろうじゃないか)

どうせオリヴァーにも作っているのだ。いまさら気にすることはない。そう覚悟を決めたわたしはミネラルウォーターを彼女の前にさしだしながら、「ご希望は?」と短く訊ねた。けれど「オリヴァーが食べているものを」と返され、内心、呆れてしまった。

ならオリヴァーが食べたことがないものにしようか。

ほんの一瞬、そう考えてしまったのだけど、でも、個人的感情でお客さまのリクエストに応えないのは大問題だ。だから、とチキンソテーを作ることにした。さいわいにも材料はそろっている。あのときは、感情が揺さぶられて、ちょっと失敗してしまったけれど、今度は決して失敗するまい。心に決めて、軽く深呼吸をした。そして感情を鎮める。

これからわたしは料理を作る。作るからには、用いる材料に顔向けできるよう、美味しく作らないと。

手を洗って、動き出す。調理方法は頭に入っているから、スムーズに動くことが出来る。鶏肉に下味をつけて、フライパンでソテーにする。今度は火を通し過ぎないようにしよう。火加減に気を配りながら、つけ合わせの野菜を用意していたときだ。

「あなた、彼のことをどれだけ知っているのかしら?」

唐突にアビゲイル夫人が話しかけてきた。

その言葉の響きに、ちりっと背中が緊張した。そのままで応えることは失礼に感じたから、ひとまず手を止める。ためらいを覚えたけれど、火も止めた。ゆっくりと彼女を振り返る。アビゲイル夫人はきれいにマニキュアを塗った指で、レモンを浮かべたグラスをもてあそんでいる。

「多くを知りません」
「そうでしょうね。知っていたら、彼を煩わせるようなこと、できるはずないわ」

少しだけ。ほんの少しだけ、わたしは眉を寄せた。

なんとなく、彼女が話したい内容に見当がついてしまったのだ。はたして彼女は、まっすぐにわたしを見据えて言葉を紡ぐ。

「難しいことを云うつもりはないわ。あれこれ云ったところで、あなたに理解できるとも思えないし。ただ、覚えていてちょうだい。本来の彼は、とてもじゃないけど、あなたみたいなひとが親しく言葉を交わせるひとじゃないのよ」

ほらね。

彼女の言葉を冷静に聞きながら、わたしはちらりと扉の外を眺めた。日本で読んできた恋愛小説だと、こういう場面ではタイミング良く、話題にされている本人が現れるものだ。そして「彼女に余計なことを云うのは止めてくれ」とか何とか、云い出してヒロインを庇うのだけど。

残念。どうやらヒーローは現れないらしい。

(まあ、わたしはヒロインじゃないし)

心の中で呟いて口先では、そうでしょうね、と言葉を返した。

アビゲイル夫人は、意表をつかれたように目を丸くする。にっこりとわたしは威嚇の笑顔を浮かべた。

「そういうひとと友達になれて、わたしは本当に幸運だったと思います」

これはおそろしく図々しい言葉だったに違いない。

わたしはそれでも配慮はした。友達という言葉に、恋人、という含みを持たせないようにしたのだ。それでもアビゲイル夫人には充分不愉快な言葉だったようで、細く整えられた眉がきゅっと寄せられる。なにかを云おうとする、その前にわたしは言葉を続けた。

「でも本当は、友達ではなくライバルになれたらなあと思います。料理人志望としては、やはりそのくらい認められたいですから」

これは、別に嘘というわけじゃない。まぎれもなく、わたしの本音だ。

あの夜、オリヴァーはわたしの料理を食べてくれた。少しばかり失敗してしまったけれど、それでも文句を云わずに食べてくれた。失敗したところを的確に指摘しながら、最後のひと口まで綺麗に食べてくれたのだ。

――それがわたしの気分を複雑にさせた、とは、わがままだろうか。

かつて、あの東條さんの料理を食べて数口で席を立ってしまったオリヴァー、おそらくあの態度が本来の態度なのだろう。それなのに、わたしの料理は、失敗していることが明らかなのに、最後のひと口まで食べてくれたのだ。たぶん、わたしたちが友達だから。

それは決して喜んでいいところじゃない。むしろ悔しがるべきところだと思う。もちろん数口で残されるのはいやだ。でも手加減されて、甘やかされるのはもっと嫌だ、と感じたのだ。

やっぱり、わがままかもしれない。

わたし以外の人が作った料理は不味くても残さないで、でもわたしが作った料理が不味いのなら残して。

つまりわたしの欲求は、そういうことなのだ。かつて、雰囲気も料理だと説教された身として、オリヴァーは盛大に文句を云いたいところだろう。

アビゲイル夫人は沈黙した。わたしは一礼して背中を向ける。料理を再開しながら、背中越しに感じ取れる様子に気を配った。わたしとオリヴァーが恋愛関係ではないと理解してもらえただろうか。彼女がわざわざここに来たのは、つまりそういうことだろうと察している。母親として、息子の恋愛事情が気にかかった? いいやおそらくは。――アビゲイル夫人とオリヴァーには血のつながりはないのだろう。

「お待たせしました」

やがて出来あがった料理を、アビゲイル夫人の前に置いた。あれきり何も云わなくなった彼女は、とても優美な動作でナイフとフォークを使う。

そうしていると、本当にきれいな女性だと感じる。今日はロイヤルブルーのスーツを着ていた。相変わらず露出の高い格好だ。でも、決して下品じゃない。いささか妖艶に過ぎる気がするけれど、あのオリヴァーの隣にいても自然と映える女性だろう。そう呟く心は、たぶん、無理をしていない。

「ごちそうさま」

やがて食事を終えた彼女はそう告げて、代金をカウンターに置いた。はっと顔を上げたわたしは、慌てて口を挟もうとした。だって料金をもらうつもりで調理したわけじゃない。友達の、家族に出す心づもりで調理したのだ。けれど彼女は眼差しだけでわたしを黙らせ、そして颯爽と出ていった。

どうしよう、これ。

困惑したわたしは、まじまじと代金を見つめて立ち尽くした。

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