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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

8・なにやってんですか。

とっさに行動することが出来なかった。

口をぱかんと開けて、なにかを云おうと思ったのだ。でも久しぶりに見る東條さんは相変わらず穏やかな雰囲気で、まるきり変わった様子がない。その様子を眺めていると、驚いている自分がおかしいのだと錯覚してしまいそうだった。ここは異世界で、アヴァロンじゃない。おまけに東條さんは事前連絡もなく、自分の店から姿を消したひとだと云うのに。

「エマの血統?」

向かいからシャルマンが呼びかけてくる。視線を流して、なにかを云おうとする。でも言葉にできなくて、わたしはうつむいた。だって、どう云えばいいんだろ。

「おひさしぶりです」

ところがわたしがそんな状態であるにもかかわらず、平然と東條さんの声が響いた。ゆっくりと東條さんを見つめ返す。穏やかに微笑んでさえいる彼に、わたしはオリヴァーの主張を、東條さんが犯罪者だと云うそれを思い出していた。でも、とてもそうは見えない。

「エクレール」

やや厳しさを増したシャルマンの声が飛んだ。なにも云えずに東條さんを見つめていたわたしは、その声の響きに驚いてシャルマンを振り返った。先ほどまでの楽しげな様子はすでにない。まっすぐにエクレールさんを見つめるまなざしは、睨んでいると云ってもいいほどだった。

「どういうことだ。この男は密入国者だろう」
「ですから、あなたをお招きしたのですわ」

エクレールさんは落ち着いた様子だった。

きりっと引き締まった様子を見せて、真っ向からシャルマンに立ち向かっている。そうかと思えば、ちらりとわたしに視線を流した。どきりとする。思いがけないことに、そのまなざしは厳しさをはらんでいる。

彼の話を聞きました。エクレールさんは話し始めた。

「彼はある事情から、<あちら>の世界における治安維持の組織から追われていたそうです。そして彼は縁あって働いていたアヴァロンに逃げ込んで身を潜んだところ、そのまま<こちら>に飛んできてしまった」

そこで言葉を切り、ゆっくりとわたしをみる。

「八大諸侯のひとりとして、わたくしはエマの血統に問いただしたいところです。<門>の管理をゆだねられているにもかかわらず、彼のような密入国者が発生しているとは、どういうことなのかと」

わたしは言葉を失った。

事態がわからないからだ。なぜ、ここでわたしはエクレールさんの糾弾を受けなければならないのだろう。その成り行きに言葉を失うしか、反応が返せない。見かねたのか、シャルマンが口を開く。

「いま、アヴァロンは代替わりを迎えている。何も知らないこいつにそれを云っても仕方ないだろう」

だが、それはあまりにも弱弱しい反論だった。
はたしてエクレールさんは、きっとシャルマンを見返す。

「それは理由になっていませんわ。そのような事態に備えて、あらかじめ事情を一族に通達し、このようなことが発生しないよう、エマは配慮するべきでした」
「はいりょ……?」

意味のない呟きが、唇からこぼれおちる。

なにかを云わなくちゃ。そう思ったから、唇は力なく呟いて、でも続きを思いつくこともなく、わたしは額に右手をあてた。東條さんはここにいる。なぜかというと、アヴァロンに逃げ込んだから?

どういうことなんだろう。戸惑って顔を上げれば、気遣わしげなシャルマンのまなざしにたどり着く。

「大丈夫か、エマの血統」
「……あまり。ごめん、よくわからない」

エクレールさんの手前、云いにくいことなんだけど、わたしはおそるおそる、そう云ってみた。シャルマンはひとつ頷いて、噛み砕いた説明をしてくれる。

――つまり、こういう仕組みなのだ。

アヴァロンは朝と夜によって、居住する場所を違える。それはどういう仕組みなのかと云うと、もともとあるわたしたちの世界のアヴァロンと、こちらの世界のアヴァロンが、綺麗に入れ替わるということなのだ。

だから東條さんが治安維持の組織から――たぶん、警察――逃げ込んだアヴァロンと云うのは、本来こちらの世界にあるアヴァロンで、そのまま潜んで朝を迎えたことによって、建物ごとこちらの世界に東條さんは飛んできてしまった、と、そういうことなのだ。

そして東條さんは、こちらの世界に驚き、さまよっていたところ、エクレールさんに拾われたらしい。

ひとつ、息を吐き出した。なんとか、事情が呑み込めた。もう冷たくなっている食後のお茶をひと口飲んで、そしてエクレールさんをまっすぐに見つめた。

「それで。エクレールさんはどうお考えですか」

ずっと黙っていたエクレールさんは、驚いたように目を見開いて、綺麗な紅色の唇を開く。

「どう、とは?」
「わたしたち、というよりも、祖母が配慮不足だったとおっしゃりたいことは理解できました。ですが祖母はもうおりません。祖母が果たせなかった責任を、わたしたちに、どういう形で果たすことをお望みですか」

彼女はすっと目を細めた。わたしはずいぶん挑戦的な物言いをしてしまったけれど、彼女を怒らせたいわけじゃない。ただ、本当に彼女が何を考えているのか、何を求めているのか、知りたいと思っただけだった。

「――アヴァロンの閉鎖を」

その言葉を聞いた途端、膝の上で拳に握りしめた。

「彼のような密入国者を二度と生み出すことが出来ないように。あなたがたが満足に管理できぬと云うのであれば、わたくしは<門>の閉鎖を要求します」
「<門>は、この世界のはじまりより在るもの。海を埋め立てることが出来ぬように、<門>を消滅させることはできない」
「ならば、管理を他のものに委ねることにしては?」

口をはさんだシャルマンに、なめらかな調子でエクレールさんは反論する。
その声の調子に気づいた。それがエクレールさんの本当の要求だったんだ。
シャルマンも気づいたのだろう。まっすぐにエクレールさんを見つめ返して、そして告げる。

「八大諸侯の任命は、唯一、陛下にその権利がある。眠りにある陛下には、それは不可能だろう」

唐突に云われた言葉の、意味がわからなかった。
疑問の表情に気づいたのだろう。シャルマンは表情をゆるめて、追々教えるつもりだったが、と告げる。

「エマの血統。おまえの祖母は、便宜上、八大諸侯の地位にある。<門>を管理する役目を負うからだ」
「はあ?」

かくんと口を開いてしまった。
八大諸侯。なにやら大きなものを感じさせる地位に、おばあちゃんがいたと? 思わず正直に告げる。

「それって無茶苦茶なんじゃないでしょうか」

こちらの政治体制はよくわからないけど、定住していない、というか、責任を負えない異世界の人間にそういう大きな地位を与えていいものなんだろうか。そう主張すると、シャルマンはため息をついた。

「もっともな意見だが、それが陛下のご決定なのでな。そもそもこのわたしとて、本来は八大諸侯にふさわしい立場ではない」
「シャルマンはよいのですわ!」

なにやら感じるところがあったのだろうか、頬を赤く染めたエクレールさんが言葉をはさむ。思わずシャルマンとそろった動作で彼女を見つめると、なんだかかわいらしい仕草で、こほんと咳払いをした。

「話を戻しますわね。――確かに、八大諸侯の任命は、陛下にしか行えません。<門>の管理は、ウィルソンの一族に陛下が委ねられました。ですから」

そして東條さんをまっすぐ見つめる。

「同じ一族内で、管理を移せばいいのでは?」
「……東條さんは、わたしの親戚じゃありませんけど」

おそるおそる口をはさめば、彼女は首を傾げる。

「ですが、彼は<あちら>の世界において、アヴァロンの経営をしていたと聞いています。それは同族と認めたということではありませんか?」
「乱暴な論理だ。というより、詭弁だな」

シャルマンはそう云って、東條さんを見る。

「おまえは大事なことを忘れている。この男は<あちら>の世界において、治安維持組織に追われていたと云うではないか。そのような男を、八大諸侯の地位に任命できると思うのか」
「彼の罪は、わたくしが赦します」

思わずぎょっと目を見開いた。

事情を知っているのか、という想いがよぎった。オリヴァーによれば、それは殺人だと云う。それほどの大きな罪を、何の権威を持って赦すと云うのだろう。こちらの世界の領主といえど、そこまでの権威があるわけじゃないだろうに、と感じたのだ。

でも、と、わたしは考え込んだ。

殺人とは、オリヴァーの判断だ。彼は確信していたようだけど、正確なところをわたしは教えられていない。だからわたしは顔を上げる。
まっすぐに東條さんを見た。彼に動揺は無い。ただ、穏やかな様子でたたずんでいる。いまとなっては、その落ち着きが不自然だとも云えた。

「お願いがあります」

エクレールさんに向けて口を開いた。

「東條さんと2人きりにしてもらえませんか。彼から、訊きたいことがありますから」

東條さんと2人きりになりたい。その願いはあっさりと叶えられることになった。

エクレールさんの指示を受けたガノスさんが、わたしと東條さんを食堂から離れた部屋に連れていく。たどり着いた部屋は応接間だろうか。暖炉があり、ソファが並んでいる。けれど東條さんは座らない。だからわたしも立ったまま、東條さんを眺めていた。

窓の外は、まるで宇宙空間にあるような暗闇だ。時折、室内の光を反射するものがきらりと現れる。こうこうと明かりは輝いているけれど、でもわずかに薄暗い印象もある部屋で、わたしたちは向かい合っていた。

「お久しぶりです」

先ほど東條さんに云われた言葉を繰り返す。彼はわずかに苦笑して「ええ」と応えた。そしてわたしは続けるべき言葉を思いつかない自分に気づいた。沈黙がわたしたちの間にわだかまる。やがていぶかしそうに東條さんがわたしを振り返った。あ、と思う。ようやく東條さん、感情を見せてくれた。

「戸惑っています。東條さんがここにいることに」

ぽろりときっかけが滑り落ちた。東條さんはわずかに肩から力を抜いて、「そうですね」と応える。唇が渇いていた。わずかに舐めて、そして云った。

「東條さんの罪って、なんですか」

また沈黙が横たわる。
今度の沈黙は、東條さんを動かさない。むしろ動かされたのはわたしの方だ。黙っていることが怖い。

「人を殺したというのは、本当のことですか」

でも、しゃべることも怖かった。

東條さんがわたしに襲いかかったらどうしよう。そんなことを考えたわけじゃない。ただ、なにか、わたしが望むものを損なってしまうのではないかと頭のどこかが訴えていた。あるいは、わたしが大事にしているものを、しゃべることによって損なうのではないかというわけのわからない恐れがあったのだ。それは東條さんが、アヴァロンを受け継ごうとしていることと無関係じゃない。あさましいことに。

「本当のことです」

そしてその答えが得られたとき、わたしは本当に困ってしまった。恐れるべきなのかもしれない。あるいは非難すべきなのかもしれない。けれども味が。

イギリスでも食べた、そして先にも食べた料理の味が、わたしの示すべき反応を惑わせたのだ。

わたしの問いかけに応えた東條さんは、思い切ったように、わたしを眺めている。哀しそうにも見えるまなざしのもとで、なにかを訴えられている気がした。

でも、なにをだろう。

東條さんを見つめて、まじまじと見つめる。彼は穏やかなまなざしでわたしを見つめたままだ。その穏やかさは偽りじゃない。直感的にそれを感じ取る。そしてきっと、あの料理の味も嘘じゃない。わたしはちゃんと東條さんを見ている、そう確信した。

「……なにか、事情があるんですか」

声音を抑えて、出来るだけ淡々とした口調を心掛けた。あの味が嘘じゃないなら、東條さんがわたしの思ったままの人ならば、殺人という大罪を犯して、安穏と赦されることを望むはずがない。そう感じた。
彼はわたしの言葉をどう受け止めたのだろう。ちらりと笑う。そして目を伏せて、呟くように告げた。

「事情などあったとしても、殺人という大罪の前では消えてしまうと思いませんか」

――わたくしは、彼の罪を赦します。

エクレールさんの言葉が、脳裏によみがえる。その言葉には、何の意味があるのだろう。目の前の東條さんを眺めていたら、そんな想いが沁み出てきた。

「云い訳はさまざまにできると思います。殺すつもりはなかった。まさかこんなことになるとは思わなかった。けれどそれが、なにになりますか。わたしは生き、そして相手は亡くなった。相手はもうなにも出来ない。楽しむことも、苦しむことも。その事実の前で、殺人に至ったさまざまな事情など、何の意味がありますか」
「でも、あなたは逃げたのでしょう?」

責めるつもりではなく、自責の言葉を止めるために、その言葉を吐き出した。でもやはり彼は、自分を責める材料として、その言葉を受け止めたのだ。「ええ」とため息のような声で、肯定する。

「逃げました。わたしはまだ、アヴァロンを続けていたいと考えていましたから」

そして顔をあげて、わたしを見る。

「いま、アヴァロンはどうなっています?」

「……休業状態です。母は日本から訪れていますけど、東條さんのことは知りません。ただ、わたしがアヴァロンで料理をしていることが気に食わないみたいです。だからたぶん、東條さんに」
「戻れませんよ」

わたしの声を断ち切るように、東條さんは云った。
戸惑って、彼を見つめる。すでに微笑はその面から消えている。代わりに真面目な表情で続けた。

「戻れるはずもない。そうでしょう? こちらのご領主はわたしの罪を許すとおっしゃいますが、わたしの罪はあちらで発生したものです。あちらの法こそが、わたしを裁くべきなんです。そもそもアヴァロンは、こちらとあちら、両方にまたぐ存在です。こちらだけではなく、あちらのルールにも従わなければならない」
「で、でも」

わたしは戸惑った。東條さんは、アヴァロンを継ぐつもりなのだと思っていた。でもそうではないらしい。

それともこれは偽りなのだろうか。彼はアヴァロンを継ぐことを否定しながら、元の世界に戻り罪を償うと云うことを考えていないように思える。このままこの世界に留まることを考えているのだろうか。

「東條さんは、これからどうするつもりですか」

迷った挙句、わたしはそう問いかけていた。

ふっとそのまなざしが空を見据える。意表をつかれたような、無防備極まりない表情に、わたしはひやりと背筋に氷を放りこまれたような気持になった。

「だめですよ」

ふっと我に返ったように、東條さんはわたしを見る。

わたしは一歩進んで、東條さんの腕を掴んだ。異世界でも東條さんの服は清潔な印象だ。ぱりっとしていて、食べ物を扱う人間としての自覚を感じさせる。

「死のうとしたら、だめです」

驚いたように目を見開いて、そして笑った。

「どうしてそんなことを? わたしはただ、決めかねているだけですよ」

そして自分の腕を見下ろして、とんとんとわたしの手のひらを軽く叩いた。まるで落ち着きなさい、と云っているかのように。そう云うところはまるで大人の様子で、ああそうだった、と想いを新たにした。

この人は大人だった。わたしよりもずっと。

「死ぬつもりなら、あのままテムズ川に飛び込んでいました」

でも生きるつもりもない。言葉に出さなくても、東條さんの表情がそう語っていた。

エクレールさんはあんなことを云っていたけれど、きっと東條さんの同意は得ていなかったのだろう。想像だけど、きっとそんな気がした。たぶんこのひとは、どうでもよかったのだ。ただ、他人が決めてくれる心地よさに流されて、今日を迎えただけ。

それほど、――彼は疲れていたのだ。

わたしは唇を結ぶ。罪を本人から告白されたと云うのに、やはりおそれは湧いてこない。願いであるアヴァロン継承を邪魔されようとしているのに、苛立たしさや腹立たしさがちらっともわいてこない。だって。

だって!

こんなにも東條さんは疲れ果てている。そんな人を非難しようなんて思えない。なんでもいい、とにかく立ち上がって。その言葉がいちばん、わたしの気持ちに近い気がした。でも疲れ果てている人に、立ち上がって、なんて、さらに疲れ果てるようなことを云えない。云えるはずがない。

(どうしたらいいんだろう)

罪には罰が必要だ。なぜなら罰を与えられなければ、犯した罪の重さに、人は耐えられなくなるからだ。
たとえばいまの東條さんのように。

でもいまの彼は、エクレールさんの手の中にある。

彼女の拘束力がどれほどのものか、わたしにはわからない。というより、彼女の意思をそこまで尊重する意味はあるのか、と云う気もする。だってこれは、異世界の、あちらの世界でおさめるべき決着だ。エクレールさんが口出しする余地はそもそも初めからありはしない。

けれど。――彼を無理やりあちらに連れ帰って、そして警察に突き出すこともためらわれた。

それがいちばんなのかもしれない。そう考えたけれど、でもこの状態の東條さんを警察に引き渡すことは、なんだか心配なのだ。云い訳も殺人という罪の前では意味がない。そう云い切ったこの人は、どんな罪も丸ごと受け入れて、そのまま儚くなってしまいそうだ。

(どうにかならない? なにか、――何か彼の気力をよびさますようなことは、出来ない?)

わたしは考え、そして東條さんから手を放した。
閃きがあった。この期に及んでも、アヴァロンのことを考えてくれている人。
だったら。

「勝負しましょう」

再び東條さんは目を見開く。

「料理の勝負です。東條さんが勝ったら、アヴァロンを受け継いでこちらの世界で生きてください。わたしが勝ったら、警察に行って罪を償ってください」

お願いします、とわたしは祈るように頭を下げた。

ふわ、とオーブンから漂う匂いは、とても美味しそうなバニラの匂いだ。けれど取り出したスポンジケーキはぺしゃんとつぶれていて、唇をむっと曲げた。それでも型から取り出して、スポンジケーキを冷やす。朝から試しているけれど、これでよっつめだ。なのに、ふっくらとしたスポンジケーキが焼けない。

わたしは再び、常温に戻した卵を取りあげた。みっつ。卵はもう残りひとつになっている。これで失敗したら、どうしたらいいんだろう。

「……トウコ」

カウンターの向こうから、呆れた声がかかる。朝一番で訪れたオリヴァーは、シャルマンから異世界で起きた事情を聞いたようだ。何かを云いたいらしいけれど、わたしは黙って砂糖の分量を量った。オリヴァーはどんな表情を浮かべて呼びかけたのだろう。振り返って確認したかったけど、それどころじゃなかった。

「放ってあげてちょうだい、スタンフォードさん。それ、あの子なりの精神統一なんだから」

代わりに、アヴァロンの奥から母さんが応えてくれた。

異世界から戻ってきて、わたしは母さんに東條さんが見つかったことを報告したのだ。同時に、わたしの様子から察するものがあったらしい。シャルマンがいるにもかかわらず、こうして傍にいてくれる。

だからわたしは、母さんの心遣いに甘えて、手元の作業に集中することにした。まだオリヴァーたちのやり取りが聞こえてくるけれど、そのうち、いつものように聞こえなくなるだろう。

「精神統一?」
「そう。あるいは、験担ぎ。これから挑む勝負に、ちゃんと勝つことが出来るかどうか。――あの子なりに、不安なんですよ。ああして苦手なスポンジケーキを作っているのは、これがうまくいったら勝負も勝つことが出来る、とでも考えているんじゃないかしら」
「しかしエマの娘。あのような勝負など、必要ないのではないか? エマの血統は頑なに勝負を撤回しなかったが」

かつんかつんと卵をボウルに割り入れる。軽くかき混ぜて、砂糖を入れた。ここには電動泡立て機がない。だから手動で泡立たせることになる。大きな桶にお湯を入れている。その温度を確かめて、ボウルをつける。しばらく動かないでいて、卵液が指と同じ温度になるまで待つ。かしゃかしゃと軽く混ぜる。

――どうして、あんな提案をしてしまったのか。

こうして作業の合間に、空いた時間を見つけてしまったら、自分が間違えているのではないかという気持ちになる。胸を占めるのは、わずかな後悔だ。もう事態は動き出してしまった。

関わりがないはずのエクレールさんの介入をよしとして、東條さんとわたしはアヴァロンの継承をかけて料理勝負をする。彼が勝ったらエクレールさんの提案通りに、そしてわたしが勝ったら東條さんに警察に行ってもらう。その提案はわたしがして、東條さんが受け入れてくれたものだけど、こうして時間が経てば、落ちつかない気持ちになる。

いろいろなことを、想っている。

これでこのアヴァロンを継承できなくなったら、いやだ。その気持ちはやはり強い。でもこのまま東條さんの発見をなかったことにして、なしくずしのように母さんを説得してこのアヴァロンを継承することには後ろめたさを覚える。なぜならこのアヴァロンはすでに東條さんのものだった。彼がいられなくなったから、その隙をついて継承すると云うのは卑怯なことじゃないだろうか。

だからといって、彼にアヴァロンを継承し、そして異世界に住み続けてもらう、というのは、無茶な条件だったのではないかと思っている。けれど、あのとき、わたしはあれしか思い浮かばなかったのだ。いまも、浮かばない。あのとき、あの様子の東條さんを見て、他にどういう提案をしたらよかったのか、本当にわからない。

はあっと息を吐き出して、ボウルを引き上げた。卵液はとうに人肌になっている。ホイッパーをとりあげて、がちゃがちゃ、と泡だて始めた。その音の合間に、背後からまだ会話が続く。

「正直に云えば、東條さんには異世界にいてもらいたいと云う気持ちがあります。なぜってこのまま彼がこの世界で捕まれば、母のアヴァロンは醜聞にまみれるでしょう。あるいは彼もそれを厭ったから、警察から逃げ出したのではないかと思うのですよ」
「エマの店が、醜聞にまみれるか。それは、確かに耐え難いことではあるな」
「確かにね。ただ、それでも彼にアヴァロンを継承させるのはどうか、と僕は思いますよ。アヴァロンの営業を夜だけにするとしても、不自然さは拭えない。トウコは何を考えて、そんな提案をしたんだか」

かしゃかしゃかしゃ。ホイッパーをかき混ぜる音の合間に、三人の会話が聞こえてきたけれど、わたしは何も云えないでいた。なにかを主張しようと、振り返るつもりはなかった。

ただ、腕を動かさないといけない。そう思っていた。美味しいスポンジケーキを焼くために。いま、考えるべきはそれだけだと思う。

なのに、悔しいな。結構な時間を泡立てていると云うのに、右手の感触はもったりとした変化を迎えてくれない。卵液がおよそ3倍の大きさになるまで泡立ってくれなくちゃ、スポンジケーキはふっくらと焼き上がらない。力が足りないのかしら。いまは夏で、室温はそれなりに高いから、卵液の温度は低くなりにくい。だから泡立ってもおかしくないのに、卵液に変化は無い。泡立たない。

それは、わたしの力が足りないから?

そうなのかもしれない。いままでに焼いたケーキも、たいして泡立たなかった。

悔しい。女だから、は、理由にならないし、スポンジケーキ作りが苦手だからというのはもっと理由にならない。おいしいケーキを作りたいの。おいしく、人に食べてもらえるケーキを作りたいのに、わたしにはその力がない。

「トウコ」

思ったよりすぐ近くで響いた声に、思わず右手の動きを止めていた。じんじんと二の腕が痛い。それはそうだ、これでよっつめ、ケーキを手動で泡立てていたんだもの。そろそろ筋肉痛になってもおかしくない。

顔を上げれば、オリヴァーがわたしを見下ろしている。ぱちぱちとまたたいた。なにかを云おうとして、でもなにも思い浮かばなかった。ただ、オリヴァーを見上げていた。瞳の感触が、やけに意識に迫る。泣きたいわけじゃない、ただ、オリヴァーを見つめ続ける瞳が、わたしのすべてになった感触を覚えていた。

ふ、とオリヴァーは苦笑を浮かべる。秀麗な美貌が、仕方ない、と云いたげな許容を含む。「貸して」、囁くような声と共に、ボウルを取り上げられた。

「卵を泡立てるの、へたくそだね」

笑い含みの声に、俯いてシンクを見つめた。

かしゃかしゃかしゃ。わたしが立てるのと変わらないような音が聞こえてくる。それでも、オリヴァーなら卵液をちゃんと泡立てるのだろう、という確信があった。出来ないはずがない。

だってオリヴァーだもの。

「実は僕は、飾り付けが苦手だ」

だからその言葉が聞こえたとき、耳を疑った。
飾り付けが苦手。――オリヴァーが?

疑いのまなざしで見つめてしまったんだと思う。オリヴァーは苦笑して、「ホントだって」と笑った。

「生クリームを泡立て過ぎてしまうんだよ。硬い生クリームは、飾りつけるのに不向きだろ?」

確かにその通りだ。スポンジケーキを飾りつける生クリームは、少しばかりやわらかい方がいい。でも。

「……泡立てる前の生クリームを入れたら、やわらかくなるのに」
「うん。でもそうして、絞ろうとしても僕はきれいに絞れない。商品として致命的だろ? だから僕はどんなことがあっても、スポンジケーキの飾り付けはしない。他の人間にやらせる」
「……。……すがすがしいね」

言葉に迷って、わたしはそう云った。

自分にできないことを、努力して取得しようとするのではなく、それを得意とする人物に任せる。それはなんだか、すごく賢い方法じゃないだろうか。

「だからね、トウコも同じようにしたらいいよ」

そしてオリヴァーはホイッパーを動かす手を止めた。ふんわりもったり。卵液がちゃんと泡立っている。かつてケーキ教室で教わった通りの状態だ。これにふるった薄力粉を優しく丁寧に混ぜていくのだ。

(慎重にしなくちゃ)

薄力粉を混ぜる作業だって、おいしいスポンジケーキを焼く肝なのだ。混ぜ過ぎたらうまくふくらまないし、かといって粉ダマが残ったらスポンジケーキに粉が残ってしまう。大切に大切に、オリヴァーが泡立ててくれたものを引き継いでいかないといけない。

「――料理対決も、同じようにしなよ」

そして続けられた言葉に、動きを止めた。ほとんど白に近い、ふっくらとした卵液を見つめたまま、わたしは眉をへにょんと曲げた。

オリヴァーは気づいていたのだろうか。わたしが、東條さんとの料理勝負に不安を抱いていることに。

料理勝負。その是非に迷いはある。

ただ、その問題を横に置いたとして、わたしは東條さんに克つことが出来るだろうか。

勝つことも負けることも間違いだと感じている、それでも、わたし自身の心を追いかければ、勝ちたい、と思っている。勝ってアヴァロンを継承したいと思っている。その結果、東條さんを警察に渡して、このアヴァロンを醜聞に落とすのだとしても、このアヴァロンでわたしは踏ん張りたいと願っている。いろいろ迷いはしても、わたしの心は自分勝手なほどはっきりしているのだ。

それは、つまり、あの料理を作る東條さんに、料理の面で勝たないといけない、ということだ。

勝てるわけがない。わたしの料理は素人同然で、東條さんはおばあちゃんのもとで修業したひとだ。美味しいと云ってくれる人はいるけれど、その評価にはひいきもあると考えた方がいいだろう。だから負ける。それなのに。

東條さんを奮い立たせるために挑んだ料理勝負でもあるけれど、挑んだわたしを間違えていないと思うけど、自分が負けるだろう勝負を挑んだことを馬鹿だとも感じていた。とんだお人好しだと感じていた。

「僕を、頼りなさい」

オリヴァーの命令はからかうような響きを宿して、でもそれ以上にやさしい。きっとあの顔を浮かべているのだと思った。意地悪そうでやさしそうな笑顔、オリヴァーにしか浮かべられないような、あの表情だ。

わたしはその表情を、とても好きだと感じてる。

ちらりと唇がゆるんだ。微笑みを浮かべた唇は、爽快な気持ちを連れてくる。出来るかもしれない。そんな気持ちが、ふつふつと湧きあがってくる。

「――頼ることにするよ。だってスポンジケーキ、5つも食べきれないもの」

ふっと微笑が、頭の上で響く。

「スポンジケーキというより、巨大なマドレーヌ、と云った方が的確だと思うけどね。まあ、いい。食べるのは僕だけじゃない。協力しよう」

そうだ。ここにはシャルマンも、――母さんもいる。

そのことを思い出したわたしは、さーっと頭から血が引く心地だった。いや、かーっと頭に血が昇る心地と云うべきだろうか。

見られた。オリヴァーとのやり取り、シャルマンと母さんに見られた!

おずおずと視線をあげて、おそるおそるカウンターに視線を流した。シャルマンが見えた。彼はかすかな微笑を浮かべて、ティーカップに唇をつけている。いつも通りの温かさで、少し安心した。

でも。

さらに視線を動かせば、母さんが視界に入った。そしてその表情を確認したことを後悔してしまった。
にやにやにや。紅を塗った唇の笑みはとてもたちが悪い。

なんだかオリヴァーに文句を云いたくなった。
とても。

料理勝負が行われるのは、これから一週間後。
当日用意された共通の食材を、それぞれが料理し、審査員となった八大諸侯に点数を入れてもらうという内容だ。

僕を頼りなさい。そう云って、アドバイザーとして立候補してくれたオリヴァーがいちばんに確認してきたのは、その時に用意される食材だった。

それはそうだろう。用意された食材が、まったく知らない食材だったら、料理など出来るはずもない。いや、おばあちゃんのレシピから検索して料理すると云う手はあるかもしれない。でも料理勝負なのだ。その場でレシピを見て、そして作り出すと云う姿勢は減点になるだろうともオリヴァーは云う。

「そもそも、どちらがアヴァロンにふさわしいか、を問う勝負でもあるからね。出来るだけ未知の食材を無くしておこう」
「ならばわたしの出番だな」

アヴァロンのテーブルに腰掛け、レシピ集を広げていたわたしは、口をはさんできたシャルマンを振り返る。その声の近さが示すように、彼はカウンターを離れ、わたしたちのテーブルの傍に移動していた。

「契約農家との伝手はまだ残っている。代表的な食材を運ばせることにしよう。それから我が家の料理人も派遣しよう。それらの食材をどのように調理するのか、エマのレシピをめくるより直接指導を受けた方が身につきやすいだろう?」

破格の提案だった。目をみはって反論しようとしたけれど、シャルマンのまなざしがそれを押し留める。

「わたしはエマの血統が経営するアヴァロンが好きなのだ。そのために出来ることは何でもしよう」

僕を、頼りなさい。

云われたばかりのオリヴァーの言葉だ。それがシャルマンの言葉に重なって、もう一度耳に響いた。
わたしは唇をゆるめ、そして微笑んで告げる。

「ありがとう」

それしか云える言葉は無かった。

料理勝負なのだ。だからわたしは独りで頑張らないといけないと思っていた。自分の力で修業して、当日に備えなければならないと思っていた。

でもそれは、なんて傲慢な考えなんだろう。

わたしは自分自身を未熟だと認識している。それなのに、自分1人で修業しなければいけないと考え、そうして思いつめていた。その苦しさは勝負を提案した自分自身を否定してしまうほど、大きなものだった。

あの勝負を提案したことは、間違っていないのに。

もちろん、勝負の是非はまだ分からない。ただ、あのときの東條さんを見つめて、そしてああいう提案をした自分自身の気持ちは、間違っていなかったと思うのだ。美味しい料理を食べさせてくれた人が、無気力に流される状態になっている。その人の現状をもどかしく感じ、その打開策を提案した、その、人を思いやる気持ち自体は間違っていないはずだ。

それなのにわたしは、いざ提案した料理勝負が、わたしの願いを損なうかもしれないと思い至った途端、その気持ちを否定しようとした。馬鹿だ。人を思いやることは大切な気持ちなのに、自分が未熟だから、その思いやりの気持ちを嘲ったりもしたのだ。

馬鹿である。

わたしは未熟な人間だ。だから人の力を借りることはまったく悪いことじゃない。ましてや人の力を借りないことで大切な気持ちを損なうなら、なおさら人の力を頼るべきだ。

その結果、願いが叶わないとしても、人として尊重すべき気持ちを否定しながら勝負に挑んで負けるより、ずっと気持は爽快なはずだ。同じ、負けると云う結末を迎えるのだとしても。

ケーキを作っていた時の自分を、いまのわたしは恥ずかしいと思っている。

「わたしは反対だわ」

わたしの感謝にシャルマンが微笑む。その直後に、離れた場所から母さんが割り込んできた。

文句を云いながらケーキを食べていたのだけど、わたしとオリヴァーがテーブルに移動しても、勝負に関して何も云わなかった。でもやっぱり反対だったのだろうか。

けれど続いた言葉は思いがけないものだったのだ。

「シャルマン伯爵に食材を届けていただくのは良しとしましょう。でもその食材の代金を、伯爵に負担させるのはどうかと思うわ。これは橙子、あなたの修業なのよ。それなのに、ただ、伯爵の好意に甘えて、料理を作るばかりというのは、とても恥ずかしいことだわ」

きっぱりとした響きで、母さんは告げる。

「アヴァロンを開店しなさい」

思わず息を呑んだ。まさか。アヴァロンを閉鎖しようとしていた母さんの口から、そういう言葉が出るとは思わなかった。

「もっともビザの問題がありますからね。開店はあくまでも、あちらの世界に留めること。一日めの食材は借金分として受け取り、その代金を返すつもりで料理をしてあちらのお金を稼ぎなさい。お客さまに実際に食べてもらうことで、料理の腕を高めるのよ」

オリヴァーがにやりと笑って、言葉を添えた。

「それなら料金は設定しない、という手もあるでしょう。食べて満足したら、それぞれ負担できる代金を支払っていただく。不満足なら代金はいただかない」

シャルマンも興味深げに瞳を煌めかせた。

「ならば派遣する料理人の賃金も負担してもらうとするか。たしかに必要以上に甘やかすことはよくないな」

次々となされる提案に、唇の端がひくつく感触だ。
でも。そのくらいしなければ、勝てないだろう。

わたしは覚悟を決めた。
これから大変な想いをすることになるだろう、それなのに、やっぱり唇は笑みを浮かべている。

――嬉しいのだ。彼らの気持ちが、そして与えられた機会が。

「それで、がんばってみる」

これから一週間、わたしより優れている人たちの提案に従って、力を尽くしていく。
負けることは考えない。ただ、料理勝負に勝って、東條さんに警察へ行ってもらうことだけを考える。

そんな精神論だけでどうにかなるものではないだろうけど、でも気力だけでも勝つつもりで構えなければ、これからの一週間をこなすことはできないと思うのだ。

「なら、今日は夜に備えて眠りなさい」

わたしの言葉を受けて、母さんはやわらかく微笑んだ。ちょっと戸惑う。でもオリヴァーがカタンと立ちあがった。見上げると、ひとつ、頷いてくる。

「きみのお母さんの云う通りだ。僕も仕事を片付けて、仮眠をとって来る。夕方になったらまた来るから、それまでしっかり休んでおくようにね」
「眠れるかなあ」
「眠らないと体力負けするよ」

わざと弱気に呟けば、そっけない応えが返る。
ふっと息を吐き出すように笑って、わたしはおばあちゃんのレシピ集を閉じた。このままここに置いておこう。何もかも忘れて、いまは眠っておこう。

夜から始まる修業に、そうして備えるのだ。

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