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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

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9・あなたにあげる、この心。

「異なる世界といえど、意思疎通が可能となるのは理解し合える言葉が存在する以上に、よく似た生活を送っているからです」

それがシャルマンが呼び寄せた料理人の第一声だった。

修業期間はわずか六日間だ。少ない日数だから初日から料理に向かうのだと思っていたけれど、現実的な問題からそれは叶わなかった。急な提案だったことと、シャルマンがわたしたちの世界に滞在していたため、食材の手配が間に合わなかったのである。

だから初日は、急使によってやってきた彼、オルグさんによる講義となった。

その容姿に目立ったところは無い。翼は生えていないし、獣の手足も持っていない。つやつやとした頭に、でっぷりとした巨体である彼は、わたしたちの世界の料理人と云っても通用しそうだ。常に抱えているという酒瓶を唇に寄せながら、明晰な口調で語る。オリヴァーは不快そうに酒瓶を睨んでいたけれど、あえて何も云おうとしなかった。

「あなたがたは、えー、命をつなぐために食事をする、のでしたな。我々は世界となるために食事をする、理由は違えど同じ方法を選んでいる。だからこそ、料理に関しては意思疎通も成り立つわけです」

世界となるために?
わたしは不思議に思って、手を挙げた。オルグさんはひと口酒を呑んで、「どうぞ」と促す。

「世界となるためにご飯を食べる、とはどういう意味ですか」
「んむ」

唇をぴんととがらせて、オルグは考え込んでしまった。説明しにくいことだったのかな、と小さな後悔を覚えていると、シャルマンが口をはさんできた。

「そちらの世界風に云うならば、世界となると云うのは、死を迎える、と云うことだ」

死を迎えるために食事をする?

その答えに面食らってしまった。それじゃわたしの世界とはまったく逆の考えだ。わたしたちは生きるために食事をする。

思わずオリヴァーを振り返れば、難しい顔をして考え込んでいる。ちなみにこの場に母さんはいない。こちらの世界に来ているんだけど、寝室にこもってお休みなのだ。清々しいほど一貫してる。

「……こちらの世界の住人は、まさか死なない?」

やがてオリヴァーはそう云った。え、と思わず声を上げる。どこからそういう発想が出てきたんだろう。
不思議に思って見つめたけど、わたしのことなんて気にしちゃいねえ。ああ、オリヴァーだよまったく。シャルマンは目を細めて、ゆるやかに首を振った。

「我々は不死ではない。だが、死を約束されてもいない。その瞬間を迎えるのは確実だが、死を迎えるまではるかに長い時を必要とする。少々、飽いてしまうほどにな。だからこそ、いずれ世界となる、そのときのため。速やかに世界に溶けゆくために、世界を構成する要素を取り込んでいく。自らの身体を世界に沿うよう、食事によって作り変えていく。そういう考えだ」

……。ええと?

死を迎えるために食事をする、という翻訳に頭が惑わされているのか、シャルマンの云っている意味はよくわからない。オリヴァーはますます眉をしかめた。

あ、オリヴァーでもわからないのか。ならわたしにわからないのは当然だよね。とりあえず理解を放置して、広げていたノートに云われた言葉だけ書き込んでおいた。んと、理由は違えど必要があるから食事をする、と書き加えておこう。その程度の理解でいいだろう。タブン。

「こういうところだけ、急に異世界になられてもね」

オリヴァーは、ぼそりと呟く。
まあねえ、そう思ってしまうよねえ。実はわたしも同じことを感じている。

でもそもそもシャルマンは若い頃のおばあちゃんの知り合いだったわけだし、わたしたちより長生きするってことは想定内の現実だよ。まあ、シャルマンは他にも要因があるんだけど。

とにかくわたしたち異世界2人組は、この点における理解を早々に諦めた。ぶっちゃけて云うと、時間が惜しいんだよね。いまは食材の話を覚えたい。

そう云うとシャルマンは残念そうではあったけど、お酒を呑んでいたオルグさんは、満足そうに頷いた。では、続きを話します。少しも乱れない口調だ。

「食材は大きく分けて、二種類あります。不動物と動物。どちらもバランス良く取り込むことを好ましいと考えます。なぜなら世界は、動物と不動物とで成り立つものですからな」

なんでこの人の説明は、いちいち抽象的かな。

ペンを動かそうとした手を止めて、こっそり心の中で呟く。理解を放置した部分の言葉がまた出て来たよ。まあ、適度に聞き流そう。そう考えていると、またもやオリヴァーが口を開いた。

「こちらの世界では肉も食べるのかな? でもこちらの世界には、獣の姿をした住人もいるよね。それは共食いにならないのかな」

あ、そういえば。

いままでにみたこちらの住人を思い出す。半獣半人やまるきり獣のような人もいたものね。そういう人たちは、菜食主義なのかなあと思っていたけど、アヴァロンにやってくる人たちは、そういえば普通にわたしの世界の肉も食べていたなあ。

「食用となる動物は限られています。<完璧たる種族>と呼ばれる、何もしなくても世界となることを約束されている種族が、食用となります。ゆえに共食いにはなりませんな」

また、話がわからなくなった。

猫になる伯爵とか、半獣半人の農家さんとか。異世界を感じさせる存在にはたくさん会ってきたというのに、その人たちと話しているときよりも、人間と変わらない容姿のこの人と話しているいまの方が、ずーっと異世界だと思うのはなぜだろう。

それにしても、完璧たる種族って。

記憶に残る言葉だ。おそるおそる口を開いた。

「あの、もしかしてこちらでは人間も食用になるんですか」

以前に云っていたものね。シャルマンが、エマは完璧たる種族だって。
つまりわたしも完璧たる種族、と云うことになるんじゃないだろうか。
さらにいまの話からすると、わたしたちもー、食用になるってことではないのかなー……、と。

隣ではオリヴァーが顔をしかめている。あからさまな嫌悪の表情だ。ああ、わかるよ。
あちらの世界でだって食人は皆無じゃない。
とはいえ、いまの文明では生理的嫌悪と共に激しく否定されている行為だものね。
わたしだって怖気が来る。怖い。想像したくない。

「<完璧たる種族>であっても、人間を食べることは陛下が禁じておられる。最大の禁忌だ、いまでは食べる者はいない」

きっぱりとシャルマンが断言してくれたけど、それじゃあ、禁じられるまでは食べてた、ってことですか。衝撃を受けていると、さらにシャルマンは続けた。

「なぜなら陛下ご自身が、あちらの世界から訪れた<完璧たる種族>であられるからだ。いたわしくも不死の呪いを受けておられるがゆえに、ほとんどを眠りの中でお過ごしになっている」

え。わたしはまたもやペンを止めた。シャルマンが突然、異世界のひとになりました。感覚としてはそんな感じだ。オリヴァーが再び口をはさむ。

「ちなみにその王がこちらに訪れたのはいつなんだい?」
「おまえたちの世界にして1600年ほど昔のことだ。代替わりはされていない。それほど長く存在されているのは陛下だけでもある」

それは。相当、長生きと云えるんじゃないだろうか。

1600年かあ。想像もつかない長さだなあ。人間ってそれだけ生きられるのか、って違う、不死の呪いを受けている、とシャルマンは云っていたものね。しかし眠りっぱなしで1600年って。床ずれとか大丈夫なのかしら。それに目が覚めたとき、まわりの友達がすべて亡くなっていたら切ないなあ。

なにげなくそう考えてしまって、先ほどの話がようやく腑に落ちた。

だから死を迎えるために食事をするのか。

不死ではない、でも死を約束されていない。
だから世界となる日を待ち望んで、世界を構成する各要素を取り込む。

でも訪れた理解はほんの一瞬だった。やっぱり死を待ち望む、と云う思想はわからない。
食べることは楽しいこと。食べることは素晴らしいこと。そういう認識と、死は怖くて悲しいものと云う認識が、いまいちそぐわないのだ。少なくとも、いまのわたしにとっては。

「……王の名前を、訊いてもいいかな」

やけに緊張した、オリヴァーの声が響く。ふうっとシャルマンは真面目な顔になって、オリヴァーを見た。

「わたしは知らされていない。ただ、希望をいただく名前だとサピエンティアが話したことがある」

ああ、あの雪の女王みたいなご領主さまね。

そういえばあの方、メインの肉料理をお代わりなさっていたなあ。若い女性だからヘルシー志向かなあと思っていたけど、お酒もぐいぐい飲んでいたし。
料理勝負ではこってりした味の料理を加えた方がいいだろうか。

「希望か。……はっきりしないな」
「なにが気になっているの?」

ちらりとオリヴァーはわたしを見上げた。

「アヴァロンという名前の由来を聞いたことは?」
「イギリスのどこかにあると云う伝説の島のことでしょ。アーサー王の遺体があるとも、」

わたしは目を見開いた。ようやくオリヴァーの考えていることを理解した。アーサー王は、5~6世紀に実在していたと云われている。年代的な符号は合う。

うわっうわっうわっ。

こちらの世界の王さまは、あの、アーサー王かもしれないってこと? うわー、なんだか興奮する。

「陛下に関する話はもういいだろう」

ため息交じりにシャルマンがそう云って、新しい酒瓶を開けようとしているオルグさんの肩を叩いた。
あ、忘れてた。いまは食材の話だ。
思わず反省して、身を縮める。異世界人だからといってもさっきから話を中断させてばかりだなあ。

ええととにかく、食用にする動物は、普通とは違う種族、と考えよう。ゆえに共食いは無い。んー、人間も食用ではない、と考えていいのね。

安心しよう。
だって食材として人間が出てきたら、あばばっ、これ以上は考えない。考えないったら考えない。

隣でオリヴァーは頭を振っている。頭の良過ぎる人は、いろいろと思うものがあるらしい。助け船のつもりなのか、シャルマンが再び口を開いた。

「こう考えた方がわかりやすいか? 食用とする動物は、初めから家畜として存在する生き物だと。姿かたちは確かに似ている。だが、似ていてもまったく別系統の生き物なのだ。このわたしとて、猫に限らずさまざまな動物になることが出来るが、食用とする動物を同族と認識することは無い」
「完璧たる種族、と持ち上げるくせに?」
「いずれ死に至る時間を内包し、世界となることを約束されている状態を、完璧と云っているだけだ。持ち上げるために与えられた名称ではない」

そっけなく云って、シャルマンはオルグさんを促す。わたしは納得していない表情のオリヴァーに囁きかけた。だって今度こそ、修業を進めないといけない。

「納得する必要は無いと思うよ。だって同じ世界の人間だってわかりあえないことは多いもの。むしろ世界が異なるんだから、理解できない方が当たり前。そう思うことにしようよ。意味は違えど、食事をすると云う行為は一緒だって、オルグさんも云っていたわけだし。異世界マスターになってこの世界に暮らしたいわけじゃないでしょ」
「……思い切ったことをざっくりと云うね」

まあ、そうかもしれない。

でもわたしはそう思うのだ。別個の存在なんだから、理解し合えない部分は必ず存在する。
それは全体のうち、ごく一部分でしかないのだから理解し合えない部分を無理矢理、理解しようとしなくてもいい。それより理解し合える部分を大切にしていたら、交流は続くんじゃないかなあ、と。
紅茶色の髪と瞳をもった日本人として、そんなことをわたしは考えたりするのだ。

さて、オルグさんの話だ。
今度こそ、と云う気合いが伝わったのか、オルグさんはなめらかな口調でこちらの世界における食材を教えてくれた。些細な疑問を感じる瞬間はあったけれど、賢明なわたしはスルーして、オルグさんの話をノートに書き留めていった。

不動物はそのまま食べることが多いが、動物は調理して食べることが多い。
調味料は、おもに不動物から採取されて加工されたもの。
飲料は不動物を加工したものや、動物から摂取する。ちなみにオルグさんが呑んでいるお酒は不動物の加工品ね。

この辺りはわたしたちの世界と共通するところが多いから、スムーズに書きとめることが出来た。
調理方法も、焼いたり煮込んだり、蒸したり茹でたり。いずれにしても、火を使って調理する、という一点では同じだ。

そう見極めたから、肩から余計な力が抜けた。

や、わかっていたよ? これまでアヴァロンに来た人たちの反応を見て、こちらの世界の人間も料理において同じ感覚を持つんだって。でも講義の最初に云われた言葉がさ、いかにも異世界だったから、惑わされてしまっただけ。

意味は違えど、行為は同じ。だから意思疎通が可能となっている。

最初の言葉が脳裏に沁みたのは、講義も終わろうと云う頃だった。外の空は明けていないけれど、すでに色が濃紺から変わりつつある。

「では。また、今宵にこちらに参ります」
「ありがとうございました」

椅子から立ち上がって、頭を下げた。オルグさんはにこやかに微笑む。
感心なことに空けた瓶すべてを背負っているんけどさ、このひと、あれだけお酒を飲んでも最後まで調子を崩さなかったんだから、あっぱれだよね。
そしてそんなアル中料理人を雇っている、ある意味オルグさん以上にあっぱれなシャルマンも立ち上がる。

「今日はわたしもこちらにとどまろう。食材はオルグに届けさせる。エマの血統」
「なに?」

首を傾げると、腕が伸びてくしゃりと頭を撫でた。

「無理をせぬようにな。おまえはおまえのままで、勝負に挑めばいい。オルグを信頼せよ。こやつはエマの弟子だった」

言葉を失った。おばあちゃんの、お弟子さん。思わずオルグさんを見ると、まるで恵比寿さんのような笑顔がわたしを迎える。ああ、と唇がほどけた。安心がますます広がって行く。

「よかったじゃないか、トウコ」

テーブルで肘をついたオリヴァーが、唇をゆるめてそう云ってくれた。うん、とわたしは頷く。
たかが6日、いや、5日でどこまで伸びることが出来るか分からないけれど、シャルマンは最高の教師を紹介してくれたのだ。

やがて世界が変わる。もう、夜は明けた。2人の姿は消えている。
徹夜になってしまった瞳に、太陽の光は強烈すぎた。
ぱしぱしと瞬いて、アヴァロンの扉を開いた。まだ冷たい空気の中で、ぐんと身体を伸ばす。

「おはよう」

扉の隣にある、居住部から下る階段から声がかかる。
母さんだ。本当に眠ったのだろうか。いつもより化粧が濃い。

「お腹空いたわ。朝ご飯、作ってくれるわよね?」

そんな言葉に、わたしの違和感は吹き飛んでしまったけれど。

予想していたけど、届いた食材は想定以上だった。

京都弁の契約農家さんだけじゃない、オルグさんが契約を交わしている畜産農家の方までやってきたのだ。
不動物と動物。不動物は荷車いっぱいに届き、動物は解体された状態で届けられた。これには正直、気が抜けた。<こちら>の世界にはスーパーはないと云う。だからてっきり、生きた動物をそのまま連れてくるのではないかと予測していたのだ。

いや、正確に云おう。オリヴァーがそう告げたのだ。

だから今日のわたしは、夜を迎えることに覚悟が必要だった。日本で経験したことは無かったけど、もしかしたら生きている動物の頸動脈を切ることになるのかもしれない。動物の命を絶つことになるのかもしれない。正直に云えば、心は完全に竦んでいた。スーパーで並んでいる食材も、誰かがそういう行為をしてくれているから、わたしたちが調理できるのに、だ。

「いい食材です。相変わらず選別の目は確かですね」

今日も今日とて、酒瓶に唇をつけながらオルグさんは満足そうに呟いた。畜産農家さんは、帽子をとって頭を下げた。その身体は、わたしの腰ほどしかない。小人と云うには大きくて、でも人間と云うには小さい。鼻が大きく伸びていて、ちょっと見た目には怖い感じだ。でもテーブルに広げた食材を、ひとつひとつ指さして教えてくれる口調は、とても丁寧だった。

解体された姿からは想像しにくいけれど、今日、持ってきてくれたお肉は、たった一頭を解体したものだった。それなのに、驚くしかないほど、たっぷりとした種類の肉が並んでいる。頭の肉、脚の肉、腹の肉、背中の肉。もちろん内臓もある。心臓、肝臓、腎臓、胃袋、小腸、大腸。わたしは改めて、<こちら>と<あちら>に共通する部分を確かめることになった。

「世界は違っていて、住人だって<こちら>がずっと多様なのに、身体構造は同じなんだね」

同じように隣でその説明を受けていたオリヴァーの感想は、そのままわたしの感想でもあった。食事の意味は違うのにね。オルグさんがちらりと笑う。

「不思議でしょう。エマから教えてもらいましたが、彼女の先祖は、この世界と自分たちの世界の祖は同じではないか、という仮説を立てていたようですよ」

それは大胆な仮説だ。

「まあ、その話はいずれの機会を待つことにしましょう。それより今日は、さっそく食材の特徴を覚えていってもらいましょうかね」

そう云われたものだから、わたしはさっそくノートを広げた。するとオルグさんは顔をしかめて、そのノートを取り上げてきた。遠くのテーブルに放り投げる。

「だめだめ。頭ではなく身体で覚えてください。名前も覚えようとしなくてよろしい。それよりは実際に食材を口にして、舌で感じる食感を覚えるのです」
「動物の食材もですか?」
「もちろんです。特に今日の肉は生でも大丈夫ですよ」

う。それはなんだか微妙な抵抗があるような。

けれどどこまでも優等生なオリヴァーは大人しくオルグさんの言葉に従う。ちいさな果物ナイフで切り取られた肉片をためらいなく口に放り込んだ。わずかに目をみはる。感嘆を交えた様子で口を開いた。

「くさみがありませんね。とてもまろやかだ」

え。それ、生肉に対する評価?

わたしは戸惑ったけれど、オリヴァーが視線を向けて促してくるものだから、思い切って口の中に放り込んだ。わずかに冷たい、でもやわらかな感触が歯によって噛み砕かれ、舌の上に広がっている。

……悪くない、感触だ。

こくんと喉を動かした。わたし、食べちゃったよ。生のお肉。意外にイケる。でもそういえば、ユッケとか馬刺しとか、生のままで食べるもんなあ、と考えていると、にこやかにオルグさんが続けた。

「この動物は体温が高いから寄生虫の心配もありません。安心して食べてください」

寄生虫、という概念はこの世界にもあるのか。

でも忘れかかっていた危険性に、顔をしかめた。この動物は、とオルグさんは云っているよねえ。じゃあ、それ以外の動物には寄生虫の心配があるのか。もう一度、その肉を見下ろす。マットな白い筋が入った、つやつやしたピンク色のお肉。困ったな、解体した状態で出てきたら、他の肉と見分けがつくか、自信がない。

「動物が出てきたら、火を通した方が無難ですね」

ユッケだけじゃなくて、刺身とかそちらの方面のレシピを思い浮かべながら、残念な心地で呟く。オリヴァーも頷いた。ただ、悪戯っぽく笑って、オルグさんは酒瓶を軽く振る。

「そういう時は、これ! お酒を振りかければよろしい。消毒になって安全ですよ」

とんでもないコメントに、思わず硬直してしまった。

そんな対処法、初めて聞く。アル中人間ならではのコメントだろうか。それとも異世界ならではのルールなんだろうか。ちらりとオリヴァーと視線を交わす。オルグさんに気づかれないように、首を振っている。

(よし)

動物系食材は、絶対に、火を通すことにしよう。

そう心に決めて、オルグさんが指示するままに、肉類は冷蔵庫に収めた。収まるかな、と云う不安はあったけど、外に出しても大丈夫な食材・調味料を放り出すことで解決させた。ほとんど力技だ。

「大丈夫。すぐに調理しますからね、次は不動物です」

わさわさっとテーブルに不動物の食材が並んでいる。

とても色あざやかだ。緑、白、黄、橙、紫、赤、黒青、たくさんの種類がある。形も多彩だ。オルグさんが手際よく同種類ごとに分類している。そしてカウンターの中に入って、ちゃかちゃかとなにかを始めた。調味料を嗅いで、それをボウルに入れている。ソースを作っているみたいだ。それと塩を小皿にとって、カウンターの中から出てくる。

「では、さっそく食べましょう」

不動物系食材、つまり野菜や果物の種類は全部で20種類を超えていたのではないだろうか。ひとつずつ取り上げて、わたしたちにざあざあと洗わせる。その間にも、洗い方の指導が入ってきた。

こちらは風味が落ちるから絶対に洗わないように、とか、そちらは土を落とす程度で十分、とか。きれいな水だけで育てているから洗う必要は無い、とか、表面についている粒が味を左右するから、とか、理由も教えてくれる。

洗い終えた食材を、またもや果物ナイフで切り落とす。ソースと塩をのせた小皿と共に、差し出してきた。

「まずは生のままで。食べにくければ、ソースか塩をつけて食べてみればよろしい。出来れば調味料をつけない方が望ましいです」

そんなことを云われたら、つけずに食べるまい、と思ってしまうじゃないか。

すすめられるままに、次から次へと野菜や果物を口に放り込む。最初はひたすら数をこなした、と云う感じだ。ただ、そうして食べていくうちに、ひとつひとつ、味の違いがわかるようになった。こちらは口に入れた瞬間から甘い、とか、あちらは口に入れてしばらくたってからとんでもなく辛くなるとか。そしてわたしたちが感想を云う度に、オルグさんはその食材にふさわしい料理法を教えてくれる。この辛さは煮込むことで甘くなるのです、とか、炒めることによってますます辛くなります、とか。

わたしは再び、昨日に教わった言葉を思い出していた。意味は違えど、行為は同じ。今日教わっている内容にふさわしくこの言葉を変えるなら、きっとこうだ。

名前は違えど、物は同じ。

もちろんひとつひとつの食材が、わたしたちの世界に存在する物と、まったく重なるわけじゃない。ただ、こちらの食材がもたらす味は、同じなのだ。すなわち、甘味、酸味、塩味、苦味、旨味という五種類である。

基本はまったく同じ。だからこそ次第にオルグさんが教えてくれる料理法以外に、わたしたちはいわば応用した料理法を閃くことが出来た。

「この食材は、生で食べても大丈夫だけど、ちょっとお湯につけたら面白い食感になるんじゃないかしら」
「すごく辛いけど、その分、色がきれいだ。細かく刻んで、調味料として使うと云う手もあるよ」
「このままでも甘いけど、ちょっとしつこい甘さね。酢と一緒に茹でたら、さわやかにならない?」
「いや、それならとろみが出るほど煮込んで、こちらの食材と混ぜて、焼いた肉にかけるという手もある」

言葉を交わすわたしたちを、オルグさんは酒瓶片手にニコニコしながら眺めていた。ノートをもう一度広げ出しても、今度はなにも云わない。たぶん、早くも食材の特徴をとらえたことを理解したのだろう。

彼はいい教師だった。アイディアを口にする度に、「それはどうでしょうねえ」とか「ああ、それなら食べてみたいですね」と、<こちら>の世界ならではの意見を云ってくれる。それも合わせてイラストと一緒に、閃いたアイディアをノートに書いていく。

どのくらい、時間が経っただろうか。

とんとんとん。ノックの音がやけにはっきり響いて、わたしたちははっとアヴァロンの扉を振り返った。気が付けば、扉の外に人が立っている。いけない、もう予定していた開店時刻が迫っている。

わたしたちは慌てて食材をテーブルから移動させた。今日、アヴァロンの料理を作るのはオルグさんだ。わたしはそのアシスタント、そしてオリヴァーは接客係。あらかじめこちらの貨幣事情は伝えてある。

「お待たせしました」

扉を開けば、どっとさまざまな人が入り込んでくる。相当待っていたらしい人は、オリヴァーに文句をつけた。オリヴァーは頼もしくもにっこりと笑って、お客さまに云う。

「それは申し訳ありません。ですがお待たせしただけの料理を用意させていただきますよ」

うわ、すごいことをおっしゃっている。
たらりと冷や汗をたらしたくなったけど、その料理を作るオルグさんは平然とした様子で、酒瓶を置いた。

「では、お仕事いたしますか」

飄々とそう云って、表情が引き締まる。

――それからは、戦場だった。

お客さまから受けた注文を、オリヴァーが明快な発音で告げる。それを聞いたオルグさんが、素早く的確な指示をわたしに飛ばす。食材の名前は覚えなくてもいいと云われたけれど、それは実地で覚えていくから、という意味だった。

この忙しさの前では、ノートに書き留めてひとつひとつ覚えようと云う行為はいかにも馬鹿馬鹿しく感じた。洗って、切って、皮をむいて。わたしは今日、簡単な下準備しかしていない。それだけが精いっぱいだった。

間違えることもあった。でもオルグさんは怒りだしたりしない。間違いをそのままに、うまく調理してみせる。それこそ「応用」だ。そのとっさの機転も、ひとつの料理法として目に焼き付けた。とはいえ、同じ間違いは繰り返さないように気をつけたけれど。

そんなわたしたち以上に、きっとオリヴァーは忙しかっただろう。注文を集め、料理を運び、皿を洗って、勘定も担当してくれた。もちろん悪いと感じたから、途中から手伝おうとしたのだ。でもその度に、オリヴァーはとても冷やかにわたしを睨むのだ。

「勘違いしてないかい? きみの仕事はオルグ氏の調理を覚えること。明日からきみが調理するんだ。それを忘れているなら、僕は前言撤回して、アヴァロンには二度と関わらないことにするよ」

ぐうの音も出なかった。

それにオリヴァーの仕事ぶりにはまったく文句のつけどころがなかった。場慣れしている。大学に入学して以来、接客バイトをしていた程度のわたしではとても追いつかないほど。だから素直に甘えて、オルグさんの指示に忠実に動くことだけを考えた。

やがて、お客さまも残り少なくなったころだ。

すっかり指は水でふやけてしまった。屈んでいることが多かったから、腰がジンジンと痛んでいる。余裕が出てきたのか、眠気がまぶたをしょぼしょぼとさせる。でもどんなに眠くても、まぶたをこすらないように神経を使った。食材を扱っていて、そんなことをしてはいけない。衛生的にも大問題だ。

「大丈夫ですか」

調理しながら、オルグさんがちらりと視線を飛ばしてくる。大丈夫です。慌てて笑顔を浮かべて応える。オリヴァーも案じるような視線を寄こしてきた。大丈夫だってば。わたしは笑顔を浮かべて手を振った。

扉が開く。振り返って、目を丸くした。

そこには見たことがある人が立っていた。オレンジ色の髪が印象的な、軍服をまとっている人だ。シャルマンが主催した食事会でアヴァロンにやってきた、東南をおさめるご領主さまである。

「がんばってるな、お嬢さん」
「ウィレース」

そう呼びかければ、男らしい顔に全開の笑顔を浮かべる。オリヴァーがカウンターに入ってきた。そっとわたしの肩に触れて、カウンターの外に押しやる。不思議に思って見つめると、口端を持ち上げて笑った。

「交替。彼はきみに話があるようだから」

まあ、たしかにそうなんだろうけど。

それでもためらいを覚えながら、わたしはウィレースの前に向かう。とても長身な彼は、身体を屈めて、わたしの顔をのぞき込んできた。ふっと眉を寄せた彼は、なぜかわたしの頭を撫でる。

……子供認識?

「少し俺の相手をしてくれないか。この時期に邪魔だとはわかっているが、どうしても話したいことがあるんでね」

いたわるようなやさしい声だった。
促されるように、わたしは彼のエスコートを受けて、椅子に座り込んだ。

どしっと疲れが身体の重みを増やしている気がする。
背中が曲がって、背もたれにもたれかかりそうになった。でもすぐに我に返って、背中を伸ばす。いまは接客中だ。ところがウィレースは苦笑して首を振る。

「楽にしていい。そんなに小さな体で、エマと同じように働くのは大変だろう」
「大丈夫です、祖母がしていたことならなおさら」
「いいから、彼の言葉に従いなさい」

グラスをもったオリヴァーが割りこんでくる。そういうわけにはいかない、と口を開こうとしたわたしをじろりと睨んで黙らせる。ウィレースは楽しそうに目を細めた。ご注文は、とオリヴァーが問いかけると、ウィレースはすらすらっと料理の名前を云う。

「こちらのお嬢さんにも、なにか、簡単なものを用意してやってくれ。顔色が悪くて、倒れそうだ」
「もちろんです」

不遜な接客だな、オリヴァー。

とはいえ、2人の態度にびっくりした。
つるりと顔を撫でてみる。確かに疲れているけど、そんなにあからさまだったのだろうか。

とりあえずミネラルウォーターの入ったグラスを取り上げた。ひと口飲む。思いがけないほどはっきりとした感触で、冷たいレモン水が喉を通っていくのがわかる。身体、ほてってたんだ。

「勝負の話には驚いたよ」

通りのよい声が、わたしの意識を惹いた。

いけない。慌てて意識を目の前のご領主に向ける。気にしなくていい、と云わんばかりに、軽く首を振る。安心した。

「だが、俺はきみに期待している。ぜひともエクレールに、あの男に勝ってやってくれ」
「ありがとうございます」

戸惑いながら、そう応えた。だってそうだろう。わたしは東條さんと勝負するけど、エクレールさんと勝負するわけじゃない。彼の言葉がいまいちつかめなくて、わずかに眉を寄せてウィレースを見返した。沈黙が返ってくる。そのまま黙って見つめ続けていたら、呟くような声が聞こえた。

「エクレールはすでにいない人間に、競争心を駆り立てられている。いまとなっては永遠にかなわない存在、エマ・ウィルソンに。きみとあの男の勝負を許可したのもそのためだ。だが、あいつが抱えているのは無駄な競争心だと気づかせてやってほしい。どんなにじたばたしても世界になってしまった存在に勝てはしないのだと」
「……祖母に、ですか」
「エマの血統であるきみを、自分が選んだ料理人に勝たせることによって、自らを主張したいのさ。正確には、あの漂流の貴公子どのにね」

(シャルマン)

今日はここにいない、美麗な貴公子を思い出す。

重要な用事があるとかで、こちらに来られなかったのだ。勝負の日に会えることを楽しみにしている、というメッセージがあったものだから、がっかりもした。だってそれは、勝負の日まで来られないということだもの。

口を開いて、わたしはためらい、そして云った。

「エクレールさんは、シャルマンが好きなんですね」
「ああ。初めて逢ったときからね」

おそるおそる口にした言葉は、あっさりと受け入れられた。
じっと向かいのご領主さまを見る。あなたは?
そう続けたかったけど、さすがに云わない方がいいと感じて、グラスを口元に運んだ。

「まったく、エクレールは物好きだと思うよ。あんなに性格の悪い男の、どこがいいんだか」
(それはやっぱり)

何気なく応えかけて、わたしは口をつぐんだ。きわめて軽い、呆れたような調子だったけど、瞳はどこか寂しげな調子だ。なにも確信できない。でも相手に合わせた方がいい気がして、別の言葉をひねり出した。

「性格、悪いんですかシャルマン」
「悪い悪い。お嬢さんは気づかないかもしれないが、好き嫌いが激しくて、その判断を撤回しない。一度嫌ったら、どこまでも徹底的に嫌うのさ」
「そういうことなら、性格が悪いと云うより、偏食している子供のようですけど?」
「なるほど? そこに母性本能をくすぐられるってわけか。お嬢さんもそうかい?」
「いえまさか」

即答したら、云うねえ、と愉快そうに笑う。少し、空気が和らいだ。安心していると、オリヴァーがやってきて、ことんことんと料理をテーブルに置く。

「お待たせしました。サングィスのカピレです。こちらのパンとご一緒にどうぞ」
「ああ、ありがとう。お嬢さんにはリーデーレか。それを食べ終わるまで席を立つなよ?」

蒼氷色の瞳がくるりと魅惑的にきらめく。
わたしは苦笑して、オリヴァーを見上げて礼を云った。まったく疲れた様子がないオリヴァーはちらりと笑って、「ごゆっくり」と告げる。ウィレースに向けた言葉だったけど、わたしにも向けた言葉だったんだろう。おかげで後ろめたい気持ちが消えた。ふくらむような温かい気持ちを抱きしめ、スプーンを取り上げる。

リーデーレ、という料理は、一見したところ、おかゆのように見えた。
ふわふわと温かい、牛乳に似た匂いが漂っている。かすかに甘い匂いなのだ。

そうっとスプーンをくぐらせて、ひと口分、すくう。甘い。あっという間にそのやわらかな甘さが喉を通りぬけていくものだから、驚いてわずかに舌を鳴らした。もう一度すくう。今度はざらっとした感触が口内に広がった。歯で噛みしめれば、かしかし、という軽い感触が伝わってくる。そしてさまざまな甘さが広がる。酸っぱいような甘さ、しっとりしたような甘さ、空気のような甘さ。こくんと呑みこんで、また口に運ぶ。

すごくすごく、美味しい。

「ああ、懐かしい味だな」

向かいからそんな言葉が聞こえてきて、思わず顔をあげていた。気づいたウィレースが、食べてみるかい、と訊ねてくる。ためらったけど、思い切って頷いてみた。

すると一口サイズのパンに、その茶色の煮込み料理をのせて、差し出してきた。口元に運ばれたものだから、かなり恥ずかしかったけど、思い切ってぱくんと食む。もぐもぐと口を動かして飲み込む。

そのときは味が濃いかなと思った程度だった。でもしばらくしたらカーッと燃えあがるような辛さが広がってきたものだから、慌ててミネラルウォーターを呑んだ。ちょっとむせる。かすかな笑声が響いた。

「悪かったな。初めてのお嬢さんにはきつかったか」
「いえ。……辛いのがお好きなんですね」
「俺はな。エクレールやフィレスは苦手だ。サピエンティアは平然と食べるんだが、あれは例外だろうな」

ふむふむ。八大諸侯の好みもあれこれ違うんだ。

頭の中のメモにそう書きつけながら、さらにリーデーレを食べる。ああ、こちらの方がずっと好きだ。疲れている身体に、じんわりと効いてくるような、本当にやさしい味だから。スプーンが早いスピードで動く。あっという間に食べ終えてしまった。

食べ終わるまで席を立つな、ということだったけど。

この場合、ウィレースが食べ終わるのを待った方がいいだろう。
ゆっくりと彼は味わう。匂いを楽しんで、食感を楽しんで、余韻も楽しむ。
楽しいひとだな。食事を心から楽しんでいることが分かる。一緒に食事をすることが、とても心地よい。

「ごちそうさま」
「こちらこそ、ありがとうございます」

時間を見ると、もう夜明けが近い。わたしたちが食べている間に、他のお客さまはお帰りになっていたようだ。視線を飛ばせば、カウンター内のキッチンも綺麗に片づけられていて、オルグさんは帰る支度を整えている。うわ、本当にのんびりさせていただいていたなあ。でもおかげで身体全体をおおっていた疲れは消えている。眠気も退散だ。これからさらに動けと云われても、きっとできるだろう。

そう考えながら、カウンターを出てきたオルグさんやオリヴァーと並んでウィレースを送る態勢になる。1人1人に声をかけている彼は、最後にわたしに目を止め、やや神妙な様子で告げたのだ。

「これからシャルマンに会う予定はあるかい?」
「いいえ?」
「会えるものなら会っておいた方がいい」

え。
思いがけない言葉に、目を見開く。
なんだろう、その言い草。まるで会わないでいたら何か問題があるようないい方じゃないか。

「シャルマンに、なにか?」

同じく不審そうな表情を浮かべたオリヴァーが問いかける。
沈黙でためらいを示して、ウィレースは首を振った。気にしなくていい、ということだろうか。でもこんなことを云われて、こんな態度を取られて気にならないはずがない。

わずかな抗議を含めて見ても、ウィレースは何も答えない。ばさり、と瞬きの間に大鷲になって、かなたの空に向かって飛び立つ。もう声は届かない。

「旦那さまは大丈夫ですよ」

同じように立ち去ろうとしていたオルグさんがそう云ってくれた。

安心しても、いいのだろうか。
いずれにせよ、わたしはシャルマンに会うことはできない。

彼が住んでいる場所を知らないし、なにより勝負対策を放り出して行こうものなら、さぞかし盛大に怒るだろう。まだ出会って間もないひととはいえ、その程度の予測はつくのだ。寄こしてきたメッセージ通り、シャルマンに会えるとしたらそれは勝負の日しかありえない。

(大丈夫、だよね?)

ここにいない貴公子に語りかけるように、心の中で呟いていた。
あの美麗な微笑が、脳内に浮かんで、そして消える。それは奇妙なほど胸騒ぎを覚えさせる感触だった。

ぴぴぴ、と鳴り響く音が、わたしの意識を叩く。

少しぼーっとして、腕を伸ばした。携帯電話のアラームが鳴り響いている。ボタンを押して、しばらくそのまま動かない。でもふんぬっと気合を入れて起きる。携帯電話の時刻は、ちょうど正午を示している。ちょっと眠り過ぎかな、と思うけど、気分はすっきりだ。

この修行期間の要は夜だけど、<こちら>にいるとき、つまり昼間にもキッチンに立つことに決めた。

なぜならわたしは料理の天才じゃない。達人でもない。それどころか、ただの料理人志望の学生でしかない。そのわたしが、仮にもレストランを経営していた東條さんとの料理勝負に勝つなら、それはひたすら料理を作り続けるしかないだろうと思うのだ。

ベッドから降りて、服を着替える。髪の毛を邪魔にならないようにまとめて、部屋を出る。居住部には部屋が三つある。わたしが使っている寝室と母さんが使っている寝室、そしてリビングだ。そのリビングに眼鏡をかけて新聞を読んでいる母さんの姿があった。

「おはよう」
「おそよう。今日はなにを作る?」
「なにを食べたい?」

逆に問いかければ、そうねえ、と考え込むものだから、わたしはテーブルに置いていたレシピ集をめくる。解読書を取り出して、ぱらりと広げた。けれど母さんはそちらに目を向けずに、たっぷり、とだけ告げた。

(たっぷりね)

ゆるみそうになる唇を、わたしは抑えつける。

たっぷり、だなんて、この時期にはとても嬉しいリクエストだ。それだけたくさんの料理を作ることが出来るんだもの。わかって、云ってくれたのだろう。

ちらりと気づかれないように母さんを見る。今日も化粧が濃い。といってもそれほど化粧に詳しいわけじゃないけど、ファンデーションがいつもより厚めに塗ってあるくらいは気づけるのだ。なら、美容によいもの、というより、疲労回復に効果がある料理にしよう。

(豚肉とトマトときゅうりのオープンサンドなんて、栄養的にはよさそうなんだけど)

ただ、いま、こちらにある食材は<あちら>のものが多いことが問題だ。栄養成分が不明である。
買い物行ってこようかなあ。そんなことまで考えていると、ばさばさと新聞を閉じて母さんが口を開いた。

「それで、あなたは勝負に勝ったらどうしたいの」

静かな口調だった。

わたしはゆっくりと顔をあげて、母さんを見つめる。まっすぐに見つめ返してくる瞳は、決して感情的なものではなく、ただ、わたしの意思を問い質そうとしているシンプルなありさまだった。閉じた唇から息がこぼれない。しばらく見つめ合って、ふいに唇から力が抜けた。ふっと息がこぼれる。

「おばあちゃんみたいに、このアヴァロンで料理を作っていきたい」

ひと息に云ってしまったけど、もちろん緊張していた。
足から力が抜けてしまいそうだったし、指先は震えてしまうんじゃないかってほど力が入っていた。

でも云ってしまったことに、後悔はなかった。
反対されたらどうしよう。そんな考えすらなかった。

わたしはただ、このアヴァロンを続けたい。明晰な願望がどんと心の中に居座っていた。
それをあからさまにして、いま、この瞬間に明言する。それは母さんの変化がもたらした変化だろう。
こうして向かい合っていて、伝わってくるものがある。いつもより、ずっと落ちついて話を聞いてくれる様子だ。

(なにがあったんだろう?)

わたしは不思議に感じている。
アヴァロンは閉鎖する。そう主張して、ひたすら頑なだったときの面影が、いまはまるで見当たらない。
母さんはわたしの言葉を聞いて、眼差しを和らげた。でもその眼差しとは対照的な厳しい言葉が続く。

「それで、大学はどうするの」
「もちろん卒業するまで在籍するつもりだよ。いまのわたしにレストランの経営なんて無理だもの」
「その間、アヴァロンはどうするつもり?」
「休止状態にしておく。東條さんのことが広まるだろうし、少し時間を空けた方がいいと思うんだ。いっそアヴァロンのことを忘れられるくらい、時間をおいて、大学卒業後に開店したい」
「じゃあ、この家を売ることが出来ないわね」

わたしはまっすぐ、母さんを見た。

「わたしに、売って」

はっきりと不快そうに眉をひそめる。

それはそうだろう。母さんはわたしの経済事情を知っている。いまの時点では不可能だと知っているから、現実味のない話として受け取ったのだ。

「いくらくらい、かかると思っているの。本当に払えると思うの。生意気なことを云うのは止めなさい」

でも考えている案のひとつを云う前にそんな言葉が返ってきて、失敗したかな、と感じた。
オリヴァーを思い出す。お金のことなら、僕に相談するように。そう云ってくれた彼だけど、ここで彼の名前を出すわけにはいかないと思った。

ここで話して事後承諾になっても、オリヴァーは苦笑で許してくれるかもしれない。
でもだめだ。そうやって許してくれるからこそ、絶対に許されない行為だ。頼ってもいい。そうとも云ってくれたけれど、わたしは頼ってもよい分量は、すでに頼りきっていると思うのだ。

これは自分の力でやり遂げなければならないところ。

いまのわたしのままで、アヴァロンを手に入れるためにできることを、この瞬間に、必死になって考える。
経済的に母さんを説得することは無理だ。現実味がない。どうしてもやりたいのと駄々をこねることは論外だ。精神論で動かせるほど、母さんは甘いひとじゃない。他にはどんな方法がある。なにもかも面倒を見てもらっている相手に、わたし自身の意思を貫くにはどういう方法が有効なんだろう。

どうしたらいい、どうしたら説得できる?

そもそも、この一回で説得できると思う方が間違いなのかもしれない。
ふっとそんなつぶやきが生まれた。
将来を決することだ、何回にもわたって話し合いをすることが、この場合の常道じゃないだろうか。

その言葉は常識的な分、引力がとても強かった。でもだめだ。
いまを逃してしまったら、母さんはもう話を聞いてくれない。そんな予感がする。
ううん、確信だ。そもそも母さんはそのためにこのイギリスに来たのだから。

日本に帰ってからも説得しよう。そう、のんびり構えていて。
その間に、アヴァロンが売られてしまったら?

可能性がないとは云えない。東條さんが外れたとしても、このアヴァロンはひそやかな名店で、後を継ぎたいと云う人は他にも現れるだろう。今度こそ、母さんはこのアヴァロンの特徴を説明して、受け入れてくれる人を見出すかもしれない。わたし以外の、人に。

(どうしたらいいのか、わからない)

途方に暮れてうつむいた。

自分より経験を重ねた大人をどう説得したらいのか、わからない。心根を見せる。それしかない? でも充分な実績など、いまのわたしにはない。これからの料理勝負に勝ったら考えて? そんなあいまいな根拠に動かされる大人がどこにいる。馬鹿にされるのが、せいぜいだ。

ただ、母さんはわたしを見つめ続けていた。

こういうとき、母さんは決して疲れを見せない。揺らぎもしない。
わずかに細めた眼差しで、じっとわたしに立ち向かっている。

そこに手加減はない。子供だから甘やかしてやろうとか、好きな道を選ばせてやろうと云う気持ちもない。
自分を納得させるだけの根拠を、一人の人間として求めている。
そういうところが母さんの怖いところであり、そして母親として最高の特徴だった。

おかげでわたしは、ここまで覚悟を決めることが出来る。
すうっと感情が鎮まって、どすんと心の真ん中に明快な願望が力強く戻ってきた。

唇をゆるめた。なにを云おうか、頭は真っ白だ。
でも唇が勝手に開いて、素直な気持ちが口からすべり出る。

「わたし、このアヴァロンと結婚したいの」

珍妙な言葉だろう。云ってしまった後で、しまった、とも感じていた。はたして母さんは目を丸くしている。
でも一度すべりだした言葉は止まらない。そもそも止めようと思わない。無茶苦茶な言葉だとわかっている。
それでも突っ走るしかない、下手な細工など考えずに、真っ向からどこまでもわたしらしく。

「一生、独身のままでもいい。独りぽっちで暮らすことになっても、独りぽっちで死ぬことになっても、わたしはこのアヴァロンで暮らして、料理を作り続けて、毎日を過ごしたいの。ただ、料理人になりたいんじゃない。わたしは日本でわたしの店を持ちたいんじゃなくて」

言葉を続けていくうちに、次第に力を失っていく。
間違っているかもしれない。この言葉は母さんを動かすものにならないかもしれない。

それでも、わたしの正直な気持ちだった。
どう説得したらいいだろう。そんな惑いは消えている。ただ、真っ向からわたしの気持ちをぶつける。それしか考えていられなかった。

「この、ここに存在しているアヴァロンの料理人、になりたい。だから、」

声が震えている。レシピをもう持っていられなくてテーブルに置いてしまった。指先から力が抜けるようで、床に直接座り込んでしまいそうだ。それでも、まったく知らない他人にお願いするつもりで、わたしは云った。

「力を、貸して下さい」

お願いします、と頭を下げた。

一秒、二秒。沈黙があった。母さんの表情は見えない。でもじっと見られているような気がした。
頭のてっぺんに緊張が集まっている。三秒、四秒。長い時間がさらに過ぎた。

ふうっと息を吐き出す音がする。視界に入っている母さんのハイヒールが動いた。もっとわたしに近づいて、頭のてっぺんあたりに温かな感触がある。

「でもそれなら母さんの、おばあちゃんの名前からずっと逃げられないわよ。あなた自身のアイディアが認められないかもしれない。それでもいいの。あなた自身の、料理を作りたいと思わないの」
「そんなの、」

まず最初に、いかにも母さんらしいだと感じた。

アヴァロンは嫌いじゃない、でも、もっと外の世界を知りたかった。そう云っていた母さんを駆り立てていたものはここにあったのだ、と気づいた。

同時に、母さんなりにわたしを認めていてくれたことにも気付く。わたし自身の、料理。その言葉に含められた、おばあちゃんではなくわたしを見つめる視点に胸を突くように気づかされた。

でも、わたしは顔をあげて、にっこりと笑った。

「わたしが消える、ということじゃないでしょう?」

このアヴァロンに見ていて、改めて想うことがある。
お客さまはただ、美味しいものを食べたくてアヴァロンを訪れるわけじゃない。

料理にまつわる思い出をも味わうために、ひとはアヴァロンに訪れるのだ。

シャルマンがそうであるように、また、おばあちゃんを覚えている他のひとのように。
なら、その思い出を損なわないように、守る。味を変えないでいる。

それは決して、意味がないことじゃない。

「――なら、好きにしなさい」

放り出すような声音が、確かに聞こえた。
はっと目を丸くすると、母さんは身体をひるがえして扉に向かった。

かと思えば、母さんはリビングの入り口から、半身、身体を振り返らせる。
許容の表情ではない。いかにも仕方なさそうに、駄々をこねている子供を見つめるような表情を浮かべて、でも驚きで言葉を失っているわたしをちゃんと見て、さらに言葉を続けた。

「経済的な問題は、ちゃんと具体的に話しあうことにしましょう。そこまで云ったのだから、もうわたしたちに甘えないこと。弟の進学も控えているのだから、むしろ大学の授業料は自分で払うつもりで考えなさい。多少の投資なら、してあげる。ただしこちらも返すつもりで考えること。うやむやにしないから覚悟なさい」

そこまでいっきに告げて、そして苦笑した。

「結局、あなたはおばあちゃんの血が濃いのね。父さんの、おじいちゃんの血ではなくて」

それきり云い残して、居住部を出ていく。

わたしはまだ硬直したままだった。
でもゆるゆると実感が身体の末端に伝わってきて、顔がどうしようもなく全開で、筋力フル活動の笑顔を浮かべてしまう。

いつか母さんの言葉を思い出して、どうしようもなく後悔する瞬間があるかもしれない。
それでも。

ぎゅうっと握りこぶしを作る。にやけていく唇から、息がこぼれる。
それに押しあげられるように、腕を上空に押し突いた。

「やったー!!」

たぶんその声は、アヴァロンの外にも大きく響いてしまったに違いない。

あっという間に、修行期間は過ぎていく。

料理の腕前は上がったかと云えば、それはまったく不明だ。日本にいた頃よりは、食材を扱う動作になれが出てきた。それは確実だと思う。でもそれが、イコール、料理上手かと云えば、また別の問題だと思うのだ。

オルグさんもオリヴァーも、わたしの料理に関してはなにも云わない。ただ、毎日訪れるお客さまが、きちんと代金を支払ってくださることが嬉しかった。お金を払ってもいい、そう考えてくださる方がいる、と云うことだもの。それは確かな自信につながる。

そして迎えた、修行期間の最終日だ。

アヴァロンの今回の開店が、期間限定であることはすでに通達済みだ。すると多くのお客さまが、最終日には必ず訪れる、とおっしゃってくださった。すなわち混雑されることが予想された。

だからわたしたちの世界に留まっているこの時刻、わたしはキッチンに立って、料理の下準備を進めている。オルグさんが調理していたときにはお客さまの注文通りに料理出来たけど、わたしが調理するようになってからは、その日までに用意した料理から選んでいただく、という形式になった。もちろん最初は不満も出たけれど、それは代金と云う形で反映されていた。つまり、料金を支払って帰らない人もいる、ということだ。

でもそんな人に限って毎日やってきてくれて、さらに文句を云いながら、少しずつ、代金を払ってくれるようになった。エマには及ばない。そう云うのだけど。

(そういえば、シャルマンもそう云っていたなあ)

しゃりしゃり。ゲムマ、と呼ばれる食材の皮をむきながら、唇をゆるめた。

このゲムマは1色に留まらず、たくさんの色をしている。味もそれぞれ違っており、全体的に果物のようなさやかな甘さとみずみずしさを保っている。

今日のわたしは、これを丸くくりぬいて、フルーツカクテルのように調理しようかな、と考えている。他におばあちゃんのレシピ集にあった、パブロバというデザートも作ろうかな。卵白を泡立てて、オーブンで焼き上げる軽いおやつなのだ。白いメレンゲに生クリームとゲムマを飾ったらさぞかしきれいだろう。もっとも早くに作ったら、その分まずくなるということなので、もう少し後に作り始めるつもりだ。

メインの料理としては、すでにテーストゥードーの塊を使った、煮込み料理を用意している。テーストゥードーとは、<あちら>の海に住まう動物のことだ。話に聞く限りには、亀に似ている生体のようだ。まだ白々とした肉塊でしか見たことはないけれど、いつか生きている姿を見てみたいなあと感じている。

左腕にしている腕時計を見た。右側にも目を向けて、窓の外の色合いを確かめる。そろそろ日が沈むころだ。オリヴァーは今日、来られない。だから彼がいなくても大丈夫なように心構えをしっかりしておこう。
さらに指を動かして、他にも数品、用意していると、世界はあっという間にその姿を変える。

ぽう、と灯りだした明かりは、やはり温かな印象がある。明るさと云う点では、わたしたちの世界の灯りには劣っている。でもこの温かくやさしい印象は、こちらの方が数倍も優れている気がする。

まだオルグさんは来ていない。でも扉の札を変えなくちゃ。

アヴァロンを探って見つけ出した、異世界の言語で書かれている札を取り出した。木目に緑色の文字が描かれている。それは、開店、という意味だと教わった。何年も、いいやきっと何十年も使われてきた、その札を取り上げて、アヴァロンの扉を開けた。

がらがらがら。すると高らかに響いた音がある。馴染みのある音に、唇がゆるんだ。もしかしたら。顔を上げると同時に、目の前に馬車が止まる。クルラホーンとオリヴァーが呼んだ御者が、軽く帽子を持ち上げて、降り立った。扉を開けば、中から、まずはオルグさんが降り立つ。

「今日は楽をしてしまいましたよ」
「たまにはいいじゃないですか。むしろ遠い場所にお住まいなんですから、馬車をもっとご利用になったらいいのに、と思います」
「いぃええ。そうしたらこちらを(と云って、酒瓶を振った)楽しむことが出来なくなる。御者に悪いから、遠慮しているのですよ」

それは意外だ。生徒役のオリヴァーが顔をしかめていても、まったく気にしていなかったようなのに。

次にシャルマンが降り立つ。わたしは笑いかけていた。
相変わらずどこにも隙がない、貴公子ぶりだ。ステッキを持って降り立ち、美麗に微笑む。

「精進を重ねているようだな、エマの血統」
「おかげさまでね」

そう云いながら、わたしはさりげなくシャルマンの全身をチェックした。すらりとした長身を包むテールコートに無駄なたるみはない。白く秀麗な顔立ちにも、不健康なところはない。ウィレースの言葉は、シャルマンの身体的な不調を示すものではないと確信した。安心していると、彼はわずかに首を傾げて、笑う。

「ご無沙汰だったから怒っているのか? いつもよりもまとわりつくような視線を感じるが」
「まとわり、……本当に元気か、心配しただけですっ」
「おやおや。エマの血統は心配症であるらしい」

軽妙に笑って、シャルマンは先にアヴァロンに入る。オルグさんが続いた。わたしは札を変えて、並んでいたお客さまたちに声をかける。中に入れば、シャルマンはすでにいつもの席に座っており、他の方々はオルグさんに案内を受けているところだった。慌てて交替し、下準備を済ませている料理の味を見てもらった。

次々に声をかけられる。どんなものがあるのか、という問いだ。
用意したメニューをお知らせする。歓声が上がった。

「ほう。テーストゥードーまで調理できるようになったか」

まずは前菜として、じゃがいものオーブン焼きを出していく。塩コショウを多めにつけたから、喉が渇く味付けだ。だからお酒ではないけれど、クヴァースという飲み物を注いでいった。これはさわやかな香りのある、いわば清涼飲料水だ。炭酸が入っているけど、本当にわずかだから、面白い感覚で呑み続けることが出来る。

味のチェックを済ませたオルグさんが、今日はオリヴァーの代わりに接客に向かってくれた。たぶん、雇い主でもあるシャルマンに気を遣ったのだろう。シャルマンはなんとなく、わたしと会話したいようだった。

「海のもの、という話だからね。料理勝負に何が出てくるかわからないけど、覚えていて損はない。オルグさんはそう云ってくれたよ」

料理勝負の食材は、誰が選ぶのか、当日まで不明だ。

ただ、場所はすでに決まっている。八大諸侯の領地からそれぞれ均等な距離を保った場所にある建物、――すなわち王宮だ。不死の呪いをかけられた王さまが眠る場所でもある。

よりにもよってそんな場所で、と最初はたじろいだけれど、<こちら>の世界の認識では、王宮はいわばイベントホールに近いのだ。王さま、敬われてない? とも思ったけれど、よくよく話を聞いてみたら、眠りについている王さまの居城だから、機会を設けなければ集うことも出来ないらしい。一般的な執務は各領主の城で行われているし、それを考えたら王さまは慕われているなあと思う。

「あの男に、会ったぞ。この店の経営者だった男だ」

面白がるような声音で、シャルマンは告げた。
ぎくりとしてわたしは動きを止める。それは、この7日間、気になってしかたないことだった。

彼は料理勝負を受けてくれた。でもそれは、わたしが強くお願いしたからだ。彼にそれを受ける理由はどこにもなかったし、ましてや受けたとしても真面目に挑む理由もない。

頑張る理由が、あの男、――東條さんにはないのだ。

「同じように、料理に励んでいるようだった」

だから、その言葉を聞いてわたしは安心した。

もちろん勝負を突き詰めれば、それは安心するべきところじゃないだろう。でもこの勝負の目的は、わたしが堂々とアヴァロンを継承すること以上に、東條さんの気力を引き出すことにあるのだ。その効果があったことに安心する。そんなわたしを見て、シャルマンは微笑んでクヴァースを呑む。

閃いた。

「シャルマン、……東條さんになにか云った?」

ひょい、と面白がるように眉が上がる。

「たとえば、なにを?」

なにも思いつかないけど、わたしの言葉とエクレールさんの許容だけで、あの東條さんが動き出すとは思えなかったのだ。
くつくつとシャルマンが笑う。

「エマの料理が食べたい、と、云いはしたがな」

わたしは目を丸くする。まじまじと彼を見つめて、そっか、と呟くように告げた。
それは思いつく限り、最高に、東條さんを奮い立たせる言葉だろう。

最後に会ったあのひとは、とても無気力な状態に陥っていた。

それでも本来は、おばあちゃんの味に惚れ込んで弟子入りし、アヴァロンを経営していたひとなんだから。

「もちろんおまえに対しても同じ言葉を云うぞ。わたしはエマの料理を食べたい。不味い料理は食べない」
「素敵な激励、ありがとうございます」

澄まして応えて、わたしはにっこり笑う。

「あのね。母さんを説得することが出来たよ」

あの反応を説得できたと云ってもいいのか、微妙なためらいがあるけれど、許可が下りたことは事実だ。
さぞや驚くだろうと思っていたシャルマンは、ゆったりと微笑んで、「そうだろうな」とだけ云った。その反応を少々不満に感じて、わたしは唇をとがらせる。

「驚かないの? 母さんの反応、知ってたでしょ」
「おまえの母親とは、あれから話す機会があった。そのときの言葉を思い出したら、想像できるものがある」

なに、それ。
率直に疑問を浮かべたのだけど、シャルマンは含み笑うばかりで何も答えない。

オリヴァーは驚いて、喜んでくれたのになあ。
なにげなくそう考えて、わたしは思わず頬を叩いた。って、はっ、手を洗わなくちゃ。

「これであとは、おまえが勝負に勝つだけだ」

呟くようなかすかな声音に、手を洗っていたわたしは思わず振り返っていた。

なんだろ、いまのニュアンス。なんだかとても、不安になった。
言葉自体におかしなところは無いんだけど、でも、胸騒ぎがする。
どうしようもなく。

唐突に、ウィレースの言葉を思い出していた。
シャルマンに、会えるものなら会っておいた方がいい。
彼はそう云った。

わたしはいま、こうして会えている。だから胸騒ぎはおさまっていいはずなんだけど。
そう考えたときに、気づいていなかった可能性が、頭の中ではじけた。

――その閃きは、天啓としか云いようがない。

「シャルマン。……魔法陣の調子がおかしいの?」

まさかと思いながら、その閃きを形にしていた。言葉にして改めてその可能性が迫ってくる。
シャルマンにはその可能性があった。唐突にこの場所からいなくなってしまう可能性が。

わたしの言葉を受けて、シャルマンはぴたりと動きを止める。
珍しく言葉を探す様子が、すとんと胸に落ちた。

ああ、そうだったんだ。
静かに、沁み入るような気持ちで心の中で呟く。わたしの閃きは当たっているのだ。

まじまじとシャルマンはわたしを見て、ふっと笑った。
誤魔化しきれないことを悟った微笑は、見ていて胸が痛くなるほどだった。
きれいな微笑みなのだ。でも、いままでに覚えがないほど、哀しい気持ちになる。

「魔道士たちが調整をしてくれている。ただ、この紋様は魔法であるから、彼らに出来ることは少ない」

困ったように、シャルマンは笑う。

「そんな顔をするな、エマの血統。まだ、わたしはここにいられる。エマが生きていた時代より、いまは魔道の技術が発達してきた時代だから、おまえの勝負を見ていてやれる。だから、」

ぱしぱしと強くまぶたを動かした。浮かび上がるものを流したくなかったからだ。
口端をきゅっと持ち上げて、笑ってみせた。すん、と鼻をすすってしまったのは、愛嬌だと押し通そう。
だってほら、わたしは笑っているのだから。

わたしが涙を流す理由はない。どこにも、ない。
本当に悲しいのは、シャルマンだ。本当に寂しいのは、シャルマンなのだ。

わたしはなにかを奪われるわけじゃない。
こ れから挑む料理勝負に勝ちさえすれば、望みが叶う可能性すらある。
そんなわたし自身に、哀しむべき余地はない。

(……でも)

心が呟いた反撥は、小さくて、でも力強かった。

(シャルマンがいたから、)

違う。シャルマンだけのおかげじゃない。

確かに、彼のおかげでもある。

でもいま、わたしがここにこうしていられるのは、さまざまな要因が積み重なった結果だ。

複雑な原因を、ただ感傷的に、シャルマン1人にまとめてしまってはいけない。彼の精神的負担を増やしては、いけない。

――なにが、できるだろう?

それでも収まらない気持ちが、そんな呟きを生み出した。
なにが、できるだろう。なにかをしておきたい。彼に。

まもなくここを去ろうとしている、シャルマン、に。

ううん、せっかく馴染んだこの場所を、奪われようとしているこの人に、わたしはなにを出来るだろう。
たくさんの感謝を込めて。
それだけを考えて、シャルマンをじっと見つめていた。

困ったように笑っていたシャルマンは、いまはわかりやすい安堵の微笑みを浮かべている。わたしが泣き出さなかったからだろう。それでも気遣うようなまなざしを注がれた。温かな、肉親のようなその眼差しを受けると、告げてしまいたい言葉が心に芽生え、そしてこの唇を動かした。

「わたしはここで料理を作っていくの」

わずかに驚いて、シャルマンは曖昧に頷く。唐突な言葉だからだろう。
伝わっていないことが分かる。ああ、これだけじゃ伝わらないのだ。

「ずっとずっと、変わらずに作り続けていく。ここに居る。だから、気が向いたらここに来てね」

いつでも。あなたの都合の良いときに。

あなたがアヴァロンを訪れたいと思ったときに、おばあちゃんの味を食べたいと思ったときに、わたしはその味を食べさせてあげる。
わたしがいなくなっても、それが可能なように、出来ることをしておくから。

「24時間、どんなときでも、シャルマンの食べたい料理を作るから」

金と緑の、希有な色合いをした瞳が愕然と丸くなった。本当に純粋な驚きだけをたたえる。

伝わった、だろうか? どれだけ世界を移動しても、ここに、変わらないものを残しておくというわたしの意思は。

わたしは魔法使いじゃない。ただの、料理人志望だ。
だからシャルマンの運命を変えることはできない。あちらこちらの世界を移動する、その哀しい運命を断つことはできない。
それでも。

太陽が沈み、月は移り変わる。
土地はその姿を変え、人々は世界に溶け込んでいく。
それでも受け継がれるものがあるのだ。
命をつなぐように、想いはつながれる。

世界に溶けゆく日は必ず訪れるとしても、つながれた想いは世界から隔てられたままでいるだろう。

ここに。このアヴァロンに。

存在し続ける彼に寄り添うことはできなくても、大切な記憶をたどるよすがくらいにはなれるのではないだろうか。

シャルマンはずっと沈黙したままだった。

驚愕を浮かべていた眼差しは、伏せたまつげに隠されてしまった。
形の良い指が額に触れ、震えるように吐息がこぼれる。

そのまま動かずにいた。わたしは、ただ、シャルマンを見つめていた。
やがてシャルマンは顔をあげて、本当にきれいに、木々の翠から差し込む光のように微笑んだ。

「ありがとう。――橙子」

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