ゆらり、ゆらり。身体が揺れている。

 力強い腕に抱えられ、運ばれていく感触があった。温かい鼓動が頬に触れていて、なぜだろう、すごく安心する。やがてやわらかいところにそっと落とされたとき、離れていく感触が名残惜しくて、思わず顔をしかめてしまったほどだ。するとあやすような感触で髪を撫でられたから、しぶしぶ機嫌を直すことにした。ちいさな笑声が遠くから聞こえる。

「まるで子供だ。そうは思わないかい、王子さま」
「その子供を、ここまで思い悩ませる言動をした自覚はおありですか」
「あるよ。でも必要だったと思うから、僕に後悔はないな。それに、きみも同じ意見だろ?」
「さあ。正直に申し上げれば、あなたと意見が同じだなんて、ごめんなんですけどね」

 辛辣さを含みながら、やさしい会話がだんだんと遠ざかっていく。待って、と云いたかったけど、身体がじっとりと重くて動けない。なにより安心感はゆるぎなくて、キーラは深いところに潜り込んでしまった。大丈夫、休んでいていい。そんな気がしていたから。

 ――――ピチョン、と、額にしずくが落ちた。

 ぱちり、と、目が覚めた。まったくなにも見えない暗闇があたりを取り巻いていたから、キーラはひどく驚いた。力を集めて、光を灯す。ぼおっと明るくなって、眉を寄せた。

「どこ、ここ」

 まったく見知らぬ場所だ。天井が高く、空気がやけにじめじめしている。なんだろ、と、ゆっくりと身体を起こした。固い床に横たわっていたらしく、頭が疑問符でいっぱいになる。こめかみを撫でながら、記憶を探った。たしか、サルワーティオーに入ったのだ。

(それからローザに会って、アリアに、……会って混乱して、)

 う、と、眉を寄せた。もしかしなくとも、連日の睡眠不足がたたって倒れた、と云う次第だろうか。情けない、と、キーラはうめいた。ギルド長もアレクセイも、さぞかし失望しただろうと考えて、ふいっと心に過ぎったやさしい感触に戸惑った。やわらかな会話を聞いたような気がする。にわかに鼓動が早くなったが、唐突に、空気が強く動いた。

 ざわり、と、首筋が総毛だった。

 いやな感触がある。集めた光を目の前に移動させた。壁が見えた。鱗が生えている。

(っ、ちがうっ)

 なにもかも、いっきにわかってしまって、キーラは退いた。ひゅ、と頭の上で空気が動く。もはや感覚だけが頼りだ。とっさに大きく、後ろに跳んでいた。がしゅん、と、床になにかがぶつかる、すさまじい音が響いた。ぴっと、なにかの欠片が頬を突っ切る。

立ち上がろうとして、地面に手をつけば、地面は消えて、勢い込んでさらに倒れ込んだ。ばしゃん! と、水に飛び込む羽目になった。ごぼごぼと沈んでいきながら、キーラは力を集める。途中、手のひらに物体がぶつかった。なんだろう、と考えたが、かまっていられない。とにかく自分のまわりに、結界を作り出した。同時に、ぶわん、と、結界越しに水が揺れる。あれが、飛び込んできたのだ。光はまだ維持している。ぐわ、と開いた、赤黒い口が迫ってきて、キーラはびくりと身体をすくませた。がつん、と、結界が阻んでくれた。でも、がつがつ、と結界にぶつかる音が響く。本能に任せた、獰猛な動きだ。

(これが、災い――――っ)

 相対しているものがなにか、キーラはすでに分かっていた。  永続魔道をかけられた、黄金きんの女帝の肉体だ。ロジオンの記憶通り、竜族本来の姿で、水の中にいる。魔道の光を跳ね返している黄金の竜は、しかし、うつろな瞳をしていた。そうだ、と、改めて実感する。女帝はすでに亡くなっている、意志などないのだ。これは、永続魔道に操られている、哀れな物質だ。永続するため、必要な魔道能力を得ようと、猛々しく、キーラを求めている。こくり、と喉が動いた。それでも、こわい。

(どうして、あたしは災いと対決するはめになってるの。しかもたったひとりで)

 混乱しながらも、結界を必死に維持しながら考える。おそらく意識を失った自分は、王宮に運ばれたのだ。それがなぜか、災いが封じられた地下施設にいる。もしかしなくても。

(……あたし、だれかに陥れられた?)

 意識を失ったキーラを、だれかが地下施設に運んだのではないか、と閃いた。スキターリェツの指示かしら、と考えて、すぐにちがうと閃く。あのひとはそんなことをしない。ならだれが、と考えたとき、結界に起こりつつある変化に気づいた。力の流れだ。気づいたとたん、ぞっとした。災いに向かって力が流れている。結界が少しずつ、削られている。

 ――――魔道の力を喰らう、災い。

 ロジオンの記憶もよみがえっていた。そうだ、相手は魔道を喰らうのだ。結界も無効だった事実を思い出して、キーラは慌てて移動を試みた。ところが結界はがっちり災いに捕らえられていて、動き出せそうにない。冷静になれ。云い聞かせながら、結界の大きさをきゅっと縮めた。がくん、と、災いの口が閉じそうになる。寸前で、力の塊をぶつけて、なんとか災いのあぎとから逃れた。水の中で向かい合って、ふい、と流れる物体に気づいた。目を閉じた、精霊だ。一人ではない、たくさん水の中に存在している。生きているのか、死んでいるのか、わからない。だが、精霊から力が流れて、災いに注ぎ込まれているさまが見えた。なるほど、精霊たちの魔道能力を捧げて、災いを鎮めようとしていたのか。災いが水のなか、無造作に精霊を押しのける。思わず押しのけられた精霊を見守った。いまの衝撃で身体をどこか痛めていないだろうか。だが、それよりキーラ自身だ。

 力をさらに集めて、水中から飛び出す。空中に留まって、いままでいた場所がプールだったと気づいた。たくさんの精霊たちが沈められたプールから、災いが上がってくる。ぶるる、と翼がうごめいた。ばっさ、と翼をはためかせた災いに、空中も安全な場所ではないと気づいた。力を解いて、地面に降り立つ。飛び出そうとした災いは、ゆっくりとキーラを振り返る。災いは完全に、キーラを標的とみなしているらしい。唇が震えている。

 だがこのまま、おとなしくしているわけにはいかない。

 意外なほど俊敏な動きで襲いかかってくる災いに向かって、炎の形を与えた力をぶつけた。結構な威力を込めたつもりだが、ばくん、と、飲み込まれた。食べたのだ。心なし、満足そうな災いは、しかしキーラに向かって走り出す。キーラも走り出した。有効な攻撃手段が思いつかない。走り出しながら屈んで、靴から隠しナイフを取り出した。ささやかな武器だ。でも、魔道がだめなら物理攻撃するしかない。すぐに追いつかれる。災いの前脚が、キーラを捕らえた。ちいさく悲鳴をあげた。前脚をつかんで、腕を振り回す。ナイフは当然、災いの身体をかすめたはずだ。傷つけたはずだ。たしかに傷つけた感触はあるのに、でも災いの動きに乱れはない。前脚につかまれたまま、ゆっくりキーラは災いに近づいていく。からん、と、ナイフが震える手から離れて落ちていった。だめだ、有効な反撃が思いつかない。冷静さをついに失い、逃れようもないほど混乱し、たまらない恐怖に、キーラは悲鳴をあげていた。

「いやああああっ」

 はぎゅう、と奇妙なほどやわらかい感触で、キーラは災いに喰われた。