荒れた大地

ざああああ。

夕方から降り始めた雨は、いつの間にか、豪雨になっていたらしい。
恵みの雨、と人は云うが、今の自分には災厄の雨だとアルセイドは感じた。あふれ出る血をさらに流させ、命をともす温もりを奪う雨だ。頬を叩きつけ流れていく雨粒がわずらわしくてまぶたを閉じた。すると意識が闇の底に沈みそうになる。とっさに唇を噛んだ。ちり、とした痛みが、あわてたように意識を引き戻す。

死にたくはない、まだ。

反射的に強く思ってしまって、そして自嘲する。いったい、何のために。
雫にかまわず、まぶたを開けた。
視界に映る街は闇に沈もうとしている。それでも目を凝らして、馴染んだ街を刻み込もうとした。崩れた街壁、すすけた建物、倒れた人々、――今日は年に1度の祭りがある日だったのだ。

それがなぜこんなことに。その問いは無意味だった。職務上、多くの情報に接することができる彼は、いくつもの事態を予測していた。だからこそその理由を察している。

そのうち、最悪のシナリオが現実になっただけだ。そう心の内で呟くが、醒めきってはいない。
何もかも放棄するには胸部の痛みはあまりに強く、そして視界の景色は残酷に過ぎた。

死ぬのか、このまま。

先程までは確かにうめく声が聞こえていたのだ。助けを求める声があちらこちらから聞こえていた。
けれど彼が気を失ってる間に雨はひどくなり、街は静かになってしまっていた。

馬鹿な、と、せめてアルセイドは唇を開いた。何を云おうとしたのか、とにかく声を出そうとした。反応を引き出そうとしたのだ。
生きていてくれるだろう誰かの。

ところが唇は動いても声帯は動いてくれず、ただ荒い息を吐き出すだけの結果に終わってしまった。再びまぶたを閉じる。
漆黒の闇、それが今では心地良いものに感じられる。

「見つけた」

涼やかな少女の声が、地面を叩く雨音をぬって響いた。わずかに低く、わずかに甘く。
だが何よりもあざやかな声だった。激しい雨音も身体の痛みもかすませるほど印象的な声だった。

ぱしゃぱしゃと地面を歩く音が続いて、彼の前髪をかきあげる感触があった。うっとりするほど温かな手だった。
たまらずアルセイドはまぶたを開けていた。

するとひとりの少女が、彼を覗き込んでいた。闇に映える白い髪、力強く輝いている金緑の瞳。
うつくしい。こんな状況であるにもかかわらず、アルセイドは素直に感じた。淡紅色の唇が安堵したようにほころぶ。

「生きているのだな、……良かった」
(いいや、じきに死ぬ)

声にならぬ声、今度こそ醒めた意識が少女の声に応えていた。唇すら動かない。指先はもう冷たい。温かいのは少女が触れる額だけだ。それとて、徐々に温度を低めていっている。彼女もまた彼と共に豪雨にさらされているためだ。白い髪も華奢な体も濡れそぼっていく。それなのに少女は身動きもせずにアルセイドを見つめ続けているのだ。たまらない心地がした。

力を振り絞って、右の指先を動かそうとした。幾度か挑戦して、ようやく動かせる。そして少女の手を払った。温もりが去り、震えがこみ上げた。これほどの寒さに気づかされる。だが少女を立ち去らせるべきだという判断には揺らぎがない。ところが温かな手は再び彼に触れてくるのだ。包まれた右手を振りほどこうとした時、その声は聞こえた。

(死にたいのか?)

彼女の声だとすぐに理解できていた。不思議なことに脳裏で響いている。
だから自らの声と交じり合って、自問自答の形となった。

死にたいのか、自分は。
いいや、死にたくない。

その応えだけはやけに明確だった。それなのに、なぜ、という問いかけには無言を貫く。
唇が微笑の形に動いていた。快い微笑ではなかった。

わずかに目を動かして、すぐ近くの地面を見つめた。暗くてほとんど見えない。
それでもそこに白い花が落ちているはずだった。彼が家族のために購入した花。白く可憐な、幸運を招く花。
跡形もないほど踏み潰されただろう花は、今日、街の人々が多く購入していっただろう花だ。
彼の家族もその1人だっただろう。はにかんだ笑顔と共に渡してくれただろう。自分もこの花を渡すことができただろう。

――何のために、生きる。

死にたくない。生きていたい。主張だけは明確だ。
だが生き延びたとして、それが何になるというのか。何のために生きろというのか。
彼にはもう何もない。じきに命も失う。
だからそのままにしておけばいい。アルセイドはさらに少女の手を振りほどいた。
少女は再び触れることはなく、だがなおも彼の傍らに居続けた。

「ならば」

傲然といっても良いほど、凛と響く声だった。

「選択するために、生きるがいい」

雨に濡れた顔は青白く、それでも鋭さを失いやしない。

「意味などなくても、大切なものなどなにひとつなくても、おまえには意思がある。その意思を以って、この先の道を選んでゆけ。その歩みこそがおまえを形作り、世界をも動かすだろう」
(世界、などと)

大仰な単語は、彼の嘲笑を誘った。今、守るべきすべてを失い、そして命までも失おうとしている自分に、少女が語りかける言葉はあまりにも滑稽だった。第一、この傷でどう生き延びろというのか。

「契約を交わそう」

少女は根気強く言葉を続ける。

「おまえに命をあげる。その代わり、おまえは自らの意思で歩み続けろ。その様をわたしに見せ続けろ。何もかも失っても、死にたくないと叫んでしまうおまえ自身を始めてみろ。それこそがこの契約の条件、取引材料だ」
「ま、るで……」

思いがけず言葉となっていた。力のこもった彼女の言葉が、彼自身に力を分け与えたかのように。
意思はおぼつかないまでも、確かな音色となる。

「見世物だな」

彼女はにやりと笑う。

「そうだよ。気づかなかったのか?」

アルセイドは少しだけ笑い、改めて少女を見つめた。きれいな娘だ。
まだあどけなさも残る年頃なのに、華と艶を漂わせるほどの美貌の主でもある。つるりとした肌には、日焼けの跡すらない。
唐突に出現したとしか考えられない花のような娘、――彼女こそ見世物にふさわしいのではないか。

脳裏に過ぎる、白く可憐な、花一輪。

理不尽な力に蹂躙されてしまった花、だがこちらの花はおとなしく蹂躙されたりはしないだろう。
こちらの花には、ふてぶてしさに通じる輝かしい力強さがある。

そう、アルセイドの意思に炎を灯すほど。

いいだろう。告げようとした言葉は、だが言葉にするよりも先に伝わっていることがわかる。えたり、と少女が笑む。
そうかと思えば、上体を傾けてきた。ついばむような口づけを受け、胸を走る傷がうずいた。否、これは信じられないほどの速度で治っていこうとしているのだ。白い髪から、華奢な身体から次々と雫が落ちる。意識がくらりとかすむ。

それでも唇の温もりは消えない。

ざああああ。降り止まない雨音を聴きながら、アルセイドは意識を失った。

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