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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

滲んだインク

髪をすいていく感触は、こんなときでも心地よかった。
アルテミシアの髪質は少し厄介で、洗ったばかりでももつれてしまう。鏡で見ると緊張しているらしい新入りの侍女は、そんな厄介な髪を丁寧に丁寧にすいてくれている。つい、微笑んでいた自分に気付いたのは、不思議そうな呼びかけを耳にしたからだ。

「姫さま?」

はっと我に返ると、やや不安そうに首をかしげている。今度は意識して、もう一度微笑んだ。

「ありがとう、マヤ。もう充分よ」

鏡の中の自分は、決して無理をしていない。

かすかな疲れを漂わせているもののの、穏やかな雰囲気を漂わせながら侍女に話しかけている。いつも通りの皇女の姿だ。その姿に安堵したのか、侍女は可愛らしく頬を赤らめた。その微笑ましい様子に、真実、少しだけ心が慰められた。

ぺこり、と一礼して出ていく。

本当にひとりきりになって、ふう、と息を吐き出した。
疲れている。心が、より深く。
ベッドに向かうほどの気力すらなく、しばらくぼんやりとしていた。

鏡に映る自分はひどい顔をしていた。
こんな顔、彼には見せられない。
何気なくそう考えて、そういえば、と思いだした。

ゆっくりと立ち上がり、書物机に向かう。乳兄弟であるミカドから手紙が、昼間に届いていたのだ。
蝋で封じてある手紙をペーパーナイフで切り、そっと注意深く開く。

『敬愛なるアルテミシアさま』

堅苦しい書き出しが、まず唇をほころばせていた。彼自身に向き合うように、慎重に読み進めていく。
騎士である彼は、いまだ戦地にある。急変しつつあるだろう戦況のことは、何ひとつ書かれてはいない。
ただ、砂漠の薔薇と呼ばれる珍しい石を手に入れたので持ち帰る、と書いてある。
その石のことは知っていた。
他ならぬ、彼自身が教えてくれたのだ。皇女であっても、実物を目にするのは初めてになる。
心が浮き立ち、くつろいだ息を吐く。微笑みかけて、唐突に我に返った。

――それでも彼を、戦地から引き戻すことは叶わないのだ。

「……それしか方法はないのですか」

ぽつりとつぶやいた独り言が、結局はすべての疲れの源だった。

次の皇帝となるアルテミシアはその為の講義を受けている最中である。
教師は父皇帝の死と同時に宰相の地位を退いたイストールだ。即位するまでの1年間の政務は、貴族議会が代行する。

そういう決まりなのである。アルテミシアは、次期皇帝として議会に出席を許されている。

第一回目の議会に出席を許された彼女は、さっそく侵略を終わらせることを提案した。ところが返ってきたのは、アルテミシアを軽んじる笑いである。後でイストールに叱られた。

この侵略戦争は、いずれ訪れる災厄に対抗するためのものなのだ、と彼らは云う。

古き種族、その代表格たる竜たちを率い、人類を滅さんとする裏切りの魔女。白き髪、金緑の瞳の――

「時を進める魔女」

それが諸悪の原因だとも云う。魔女の目覚めは遥か昔より予言されていた。そしてその兆候はアルテミシアが生まれる前からあったと云う。だからこそ侵略をはじめ、セレネをまとめあげようとした。セレネをひとつにまとめ、人類を守りきるために戦う。

それが帝国皇帝の、アルテミシアの使命だと。

そして、ついにその時が訪れた。父が亡くなったのはその為だと云う。
時を稼ぐために、魔女に呪いをかけたのだ、とイストールは教えた。

信じがたい話だった。魔女だの、呪いだの、馬鹿げている。

だがおそろしいことに、重鎮たちは信じているのだ。
国を預かるべき重鎮たちがである。現実にはあり得ない絵空事を信じ、実際にその為に行動している。
他国を侵略している。その文化を破壊している。……あの優しい乳兄弟に、人殺しをさせている。

おそろしかった。
だがもっとおそろしいのは、その狂信に逆らえない自分である。

この帝国は、セレネでは最も古い歴史を誇る国であり、中央であり、だからこそセレネ全体の幸福を考えなければならない。自国だけの幸福を守っていればよいのではないのだと皆は云う。では侵略がその手段かと問えば、皆はためらいなく頷く。

(……助けてください、ミカド)

まぶたに重みが加わり、ぽたり、と手紙に落ちた。
いけない、と思った頃には、すでに手紙の文字が滲んでいる。

慌てて手紙を書物机に置いて、遠ざかるように後ずさった。膝裏にベッドが触れる。あっと思った時には、背後から倒れこんでいた。後頭部に衝撃がある。ごく軽い衝撃ではあったが、刺激にはなった。それがきっかけとなり、次々と涙があふれた。泣き声がこぼれそうになり、両手で口をおおう。

いまも部屋の外には、警備の人間が立っているのだ。
皇女が泣いているなどと、決して悟らせたくはなかった。

真実は誰にも明かせない。だから講義がつらくて泣いているのだと思われてしまうだろう。それは自尊心にかけて許せない。

なにより、皇女が嘆いてもよいのは、すべての民を憐れむ時だけだ。

真実の感情に嘆くのならば、涙も流さず声もあげずに成さねばならなかった。それが出来ない自分がたまらなく悔しく力不足に感じる。イストールたちの云う通りに。

「なぜ、わたくしたちの時代に目覚めたの」

かすれた声で呟いたのは、自尊心を傷つける恨みごとだった。
会ったこともない、ましてや重鎮たちの妄想の産物としか思えない少女への恨みごとなのである。魔女などいるはずがない。

けれどまわりの者を変えられないもどかしさが、原因となっている存在への苛立ちに変換されてしまうのだ。
自らを責めることはたやすい。だが自責の念だけでは、その妄想を捨てさせることは出来ないと悟っているからこそ。

(いけない)

意志の力で涙を止め、アルテミシアは起き上がる。
サイドテーブルからハンカチを取り出し、水差しの水を湿らせた。まぶたの上に置いて冷やす。そうすれば翌朝には、涙の痕跡を薄めることが可能なはずだった。父の死を思い出した、と、云い繕うことが出来る程度に。

――時は満ち、地の利は整った。だからこそ魔女は、人の乱を求めるのですよ。

イストールはそう告げたが、アルテミシアは違和感を覚えている。
なにの時が満ちたと云うのか。どの地の利が整ったと云うのか。だから人の乱を求めるとはどういう意味なのか。

何ひとつわからない。けれど軽んじられている気配は感じている。
だから直接問いただすことは出来なかった。直感に過ぎないのかもしれない。けれども沈黙しておいた方がよい気がした。重鎮たちの様子を見たのなら、なおさら。

(ミカド)

先程までとは違い、確かに自らを取り戻した感触で、アルテミシアはこの世で最も信頼している彼を想う。
いま、この皇宮を離れている彼にこそ、自らの目となり耳となり、この世界の真実を確かめてもらいたかった。

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