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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

聖杯

洞窟から出ると、すでに陽は暮れていた。満天の星空に銀色の月が浮かぶ。

うつくしかった。

アルセイドはしばし目を細めて、そして歩き出す。続く足音はない。
左手をあげて、頬を抑えた。叩かれた感触は軽く、痛みはほとんどない。その事実が心を痛めつける。
強気な金緑に浮かぶ水滴――なぜそんなものを見なければならなくなったのだろう。
振り返りかけて、けれども唇をかみしめてこらえた。時間は戻らない。ざくざくと歩き続ける。

やがて風に乗って明るい喧騒が聞こえてきた。
惹かれるままにその方向に向かう。続く足音はない。溜息をこらえ、木々をかき分け、草を踏む。
やがて海岸に出た。目を細める。明々と燃える焚火のまわりに船員たちが座っていた。
どうやら酒が入っているようで、陽気な笑い声が聞こえる。思わず微笑んでいた。
歩み寄るアルセイドに気付いた船員たちは声を上げる。ドゥマが立ちあがり、酒袋を放ってきた。

「祝杯だ。飲みな」
「祝杯?」

訊きながらも口をつける。そして咳き込んでいた。笑い声が沸き起こる。
それほど強い酒だったのだ。武骨な手が背中をたたく。

「悪かったな、陸育ちの坊主には強すぎたか」
「……驚いただけだ。坊主扱いはやめてくれ」
「そうか?」
「お嬢は平然と飲んでいたがなあ」

別の船乗りが声をあげ、アルセイドはピクリと肩を揺らしていた。

アルセイドの背中に手を当てたままのドゥマは何事かを感じ取ったらしい。無言のまま焚火から少し離れた場所にアルセイドを促す。温もりはそれでも伝わってきた。潮風は吹いていたが、火を消すほどのものではない。車座になっている船員たちは、ここにはいない魔女の話題で盛り上がり、風に乗って聞こえてくる。

「お嬢が強いのは酒だけじゃないぜ。勝負事にもだ!」
「おお、サイコロ勝負だって、イカサマしてませんか、と云いたくなるほど勝ってたよなあ」
「ばぁか、どこにイカサマする間があったんだよ。ありゃあ、お嬢の実力だよ。ジ・ツ・リョ・ク」
「なんでおまえが得意そうなんだ。惚れたかー?」
「うーん、あと10年育ってりゃあなあ。女はやっぱり、ボン、キュッ、ボンでないと」

ざわざわと楽しげな船乗りたちは、それでもアルセイドに魔女のことを訊いてこない。
傍にいるドゥマもそうだった。黙って酒を飲み続けている。砂浜に腰をおろし、膝の上に立てた手の上に顔を伏せた。

「島の探索の結果は?」
「悪かねえ。水もあるし、適度な広さもある。ただ竜が住む島だからな。お頭たちとそのあたりはじっくり話し合う予定さ」
「それに、潮流をおさめるにはあいつが必要かもしれない、と?」

今度の言葉に応えは返らない。顔を隠したまま、唇が苦い笑みを浮かべていた。

「……誰も訊かないんだな、あいつがここに来ない理由」

グイと、酒を飲み、ドゥマは応える。

「人にはいろいろな事情がある。皆、それを知っているだけさ」

思わずアルセイドは顔をあげ、唇を開きかけた。けれど結局力なく閉じる。
制止したのは、生き生きとした瞳に浮かぶ涙、そして胸をはしる痛みだ。

ドゥマは何も云わない。ただ船乗りたちの元に戻ることはなかった。
その義理はないのに、黙ってアルセイドの傍に居続ける。

「もし」

長い時間をかけてしぼりだした声は、情けないほど掠れていた。

「間違えてしまった時はどうすればいい?」
「状況にもよるな」

もっともな答えだった。だがためらうより先に続けられた。

「だが間違えない奴なんざ、この世にはいない。だから一緒にいられるのさ」
「一緒にいたくないと思われていても?」

ドゥマはようやくまっすぐにアルセイドを見つめた。

「それがおまえの気持か?」
「っ」

まっすぐに訊かれて言葉につまった。

一緒にいたくない?

そういえば命を戻されてから一度も、あの魔女と一緒にいたくないと思ったことはなかった。

変な娘だと思っていた。不思議の力を持っている娘だとも思っていた。
だがそれでも、悪い存在とは思えなかった。感じなかった。

それがわかっていたのに、なぜ、あんな言葉をぶつけてしまったのだろう。

「違う」

それだけを云いきることに、ずいぶん気力を使った気がした。
短くも濃い時間、それでもあの魔女から離れたい。――そう思ったことは結局、一度もなくて。

「……でもあいつはそう思っていないだろう」

涙の浮かんだ瞳。頬を叩く動作。
いずれもアルセイドに向けられたことがないものである。そしてアルセイドはそれにふさわしい言葉をぶつけてしまったのだ。

――ならばこのセレネは、おまえが俺を長針として選んだからこそ滅びに向かうのか!!

混乱していたのだ。せめてもの云い訳はもはやアルセイド自身が赦せない。

夢から覚めてもしゃがみこんだままのアルセイドを気遣ってきた、ちいさな魔女にそう叫んでいた。魔女は凍りついたように動きを止め、長い間沈黙していた。やがてそうだ、と短く応えた。それが遥か古に定められた約定なのだ、と。

――いつもより表情を消した様子に、どうして気付いてやれなかったのだろう。

どこが善き魔女だ、激しい調子で言葉を続けてしまった自分にたまりかねたように頬を叩いてきた魔女。
その様は年相応の、泣き出しそうな少女に見えて。

はっと自分を取り戻したとて、いまさらだった。
魔女はくるりと背中を向け、夫たる竜の影にすがるように隠れてしまった。

この自分から、まるで逃げるように。

ぐい、と、口元に酒袋を押しつけられる。ぷん、と、強い酒の匂いが鼻をついた。

「飲みな。何があったか知らねえが、いまのおまえは考えてもムダだ。同じところをぐるぐる回ってる目をしてやがる」

云われるままに酒袋を受け取った。両手を使い、ぐいぐいと飲み干す。頬にこぼれ流れたが、それでも飲み続けた。ぐらりと酔いが回り、砂浜に倒れこむ。細かな砂の感触が、固くアルセイドを受け止める。じゃりと響く感触、それでも痛くない。

手のひらに触れる砂を握りしめ、ドゥマ、と呼びかけていた。

「なんだ」
「軽かったんだ」
「あ?」

いまは砂まみれになっている左頬、少女に叩かれた頬に痛みはない。
手加減したのか、それともその時の精一杯が、あの程度の力だったのか?

アルセイドはまぶたをつぶる。
そんな彼を、飲み干した強い酒が、どろどろとした眠りに引きずり込んでいった。

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