呪い
ひと通り少女を診察した医師は、細い手首をシーツの下におさめた。難しい顔で離れた位置に立つアルセイドに向き直る。
「なんですかな、これは?」
「なに?」
組んでいた腕を解いて、意外な感で応えたアルセイドだった。唇を引き結んだ初老の医師にからかいの気配はない。単純に事態をいぶかしく思っている様子だった。
「身体中、どこを調べても異常はありません。すべて正常に動いている。けれど、」
まぶたを閉じて、荒々しい呼吸を繰り返している少女を顧みる。
「確かに意識を失っているし、顔色も尋常ではない。なんですかな、これは」
「……むしろ、それを訊きたいから、あなたを呼んだのだが?」
困惑して応える。医師は苦笑した。
「あなたはこの娘さんとはどういう御関係で? ご兄妹か?」
「まさか。――ただ、同じ街の出身者だというだけの関係だ。たまたま生き残っていた者同士、一緒にこの街に避難してきただけなんだが」
堂々と嘘をついていた。
少女との関係――他人に云われてはじめて意識した言葉である。
同行者。それが最も似つかわしい言葉だろうか。だが本来、アルセイドと少女がこの先、一緒に旅をする理由などない。当たり前のように共にここまで来てしまったが、唐突にその事実に気付かされてしまった。
「とすると、娘さんの体質もご存じないと?」
「ああ。お役に立てなくて悪いな」
「いえ。そういう事情なら仕方ありませんよ」
こちらの気を楽にするための笑顔を浮かべ、医師は出来る限りのことをする、と約束してくれた。ありがたく思いながら見送り、寝台の上に横たわる少女を振り返る。
ただし、近寄らない。
あの時、少女の髪に触れた右手を見つめる。ぞっとするほど悪意に満ちた、年老いた男の声を感じ取った手である。アルセイドは、何があった、と倒れている少女自身に問いただしたい。正直なところを云えば、ただの病のわけがないのだ。
それに。
(おまえはまだ、おれの何も見ていないだろう)
生きることを強いた娘に対する感情値は存外低い。しかし得体のしれない少女であっても、それでも命を戻してくれたという認識はある。
他者には理解できないだろうが、だからこそ恋人でもなければ家族でもない、少女を傍においているのだ。
興味も関心もない。ただ少女が告げた報酬通りに、好き勝手に自分を眺めていればいい。アルセイドはそう思っている。
「アル」
唐突に少女の声が響いた。
はっと視線を向ければ、うつろながらに瞳を開いている。気がついたのか。そう声をかけようとして、続けられた言葉に動きを止めていた。
「アルシード。どうして、侵略など始めたのだ……」
(な、に?)
決して聞き逃せない言葉だった。
アルシード・ド・メディシエ。先の帝国皇帝にして、侵略を始めた人物である。
アルセイドの故郷を滅ぼした人物の名を、今、この少女は知己に対するように呼びかけた。
(どういうことだ)
ためらいなど消えていた。大きな歩幅で歩み寄り、ぐい、と横たわる少女の襟首をつかみ上げていた。
うつろな金緑を覗き込む。アルセイドの姿は映っていない。それでも頬を軽く叩き、言葉をぶつけていた。
「起きろ。おまえは帝国皇帝を知っているのかっ」
ならば赦せない。
低いと思っていた感情値はたちまち高くなっていった。沸騰していく。もしかしたら。はかない可能性と知りつつ、この娘ならば故郷の滅亡を防ぐことが出来たのではないか、と、そんなことを考えてしまう。すると、ひと筋、こぼれおちるものがある。
涙だ。
さすがに動揺し、少女から手を放していた。うつろな、大きな瞳から、次々とあふれ出る哀しみの滴は目尻からそのまま枕にしみていく。まつ毛をぬらすほどあふれ、淡い色合いの布地を濡らしていく。
「……泣くな」
ぽつりとつぶやいていた。
いまはうつろに、人形のようなありさまを見せている少女が、そうして涙を流している様は胸に迫るものがあった。打ち捨てられた人形――そんな連想すらしてしまって、心から愕然とする。再び少女に近づき、乱れた様子を整えてやった。
うつろだからこそ、埋まらない穴の存在を感じさせる。
(馬鹿な!)
むしろそう感じた自分自身に腹立ちを覚えた。いま、自分は誰に向かって、何を考えた? 何を感じた。
得体のしれない、それでも命を救ってくれた不可思議な力あふれる娘に向かって!
「起きろ、”善き魔女”」
腹立ちを解消する勢いで、一喝するように呼びかけていた。
ドン、と、両手を小さな頭の横に置く。起きろ、善き魔女。呟くように、噛みしめるように、再び呼びかける。
やがて、ゆっくりと。
まぶたが、動いた。金と緑の瞳が、漆黒の瞳とすぐ間近で見つめ合う。共に強い意志があふれる瞳だ。
淡紅色の唇が、にやりと動いた。
「なんだ、寝込みを襲うつもりか?」
「なっ」
「おまえは良い面相をしているからな。期待に応えないでもないぞ?」
「冗談もたいがいにしろ!」
するりと彼の首筋に腕を回そうとする動きから、あわてて身を引いていた。その動きを見透かしていたような、落ち着き払った仕草で少女は起き上がる。目の端に滲む滴に気付いたのだろう。ピン、と無造作に親指で払っていた。まるで雨の滴をはじくような仕草に、どこか安心してしまう。だがすぐに我に返り、表情を引き締めた。
「善き魔女。おまえは帝国皇帝の近親者か」
すると少女は嬉しそうに笑った。
「礼を云うよ、アルセイド」
「ごまかしているのか?」
「まさか。おまえがわたしの役割を口にしてくれたおかげで危機を脱することが出来た、ということさ」
意味不明である。
だがアルセイドの困惑など知らぬ気に、少女は起き上がり着替え始めた。こういうところが厄介なのだ。
背中を向けてやりつつ、ごまかされた気分を存分に味わう。しゅるり、と衣擦れの音が聞こえた。
「礼代わりに教えてやろう。わたしは帝国皇帝の近親者などではない」
きっぱりとした否定だった。
「ならばなぜ、やつの名を呼んだ?」
「呼んだ記憶などないのだが、……友人だったことはある」
ピクリ、と、指先が反応した。
「だがそれはわたしだけの思い込みだったらしい。なにせ命をかけた呪いをかけられてしまったのだからなあ」
軽やかな声だった。裏切られた、裏切られた、と続ける声もひどく軽妙である。
だからこそ余計に先程の涙を意識させる。アルセイドはそろそろと空気を乱さぬように息を吐き出していた。
少女の言葉は、何一つ信用ならない。
それでも感情は伝わってきた。突然に着替えを始めた理由に思い当たる。
汗ばんでいたこともひとつ。だが。
だが本当は、表情をアルセイドから隠すためだ。
そうでなければ、なぜ軽妙な声が震えるのだ。なぜ衣擦れの音は途絶えがちなのだ。
――なぜ、涙がこぼれたのだ。
わずかに唇を噛んだ。裏切りとまでは呼ばなくても、期待外れの感がある。
アルセイドはこの少女のことを、強い存在だと思っていたのだ。つまらぬ力などに翻弄されぬ娘だと。それがたかがひとりの人間に裏切られたくらいで涙をこぼすとは思わなかった。
「わたしが調子を取り戻せたのは」
ぎし、と、寝台がきしむ。嘆きながらも、それでも着替えを終え、立ち上がったのだろう。
「おまえが”善き魔女”と呼びかけたからだよ」
「ふん。それしか教えられていないからな」
「名前よりも命よりも魂よりも大切な役割なのだもの。充分だろう?」
誇らしげな声で応えながら、少女はアルセイドの前に立つ。精彩に満ちた瞳は、きらきらと回復を示していた。思わずため息をつけば、楽しそうに笑う。
「さあ、出かけよう。アルセイド」
「どこへだ?」
投げやりに告げると、思いがけぬ答えが返ってきた。
「我が夫の元に。きっとおまえを歓待してくれるだろう」
アルセイドは唖然と口を開いてしまった。思いがけない言葉であり過ぎた。