太陽と月
毒など入っておりませんからご安心くださいませ。
そう云われた薫り高い紅茶を飲みながら、アルセイドは戸惑いを隠せないでいる。テーブルの向こうに腰掛けるのは帝国皇帝アルテミシア。少なくともレジスタンスに所属するアルセイドにとっては不倶戴天の敵であるはずだ。このように歓待される覚えなどない。なによりも前回との待遇との差に、馬鹿にされているのか、という疑いまでもが生まれてくる。
だが恐るべし、帝国皇帝アルテミシア。にこにこと微笑む姿からは、アルセイドたちを馬鹿にした様子はうかがえない。それどころか、心からの賓客と扱っていることが分かる。
「解せぬな」
隣に腰掛ける魔女がぼそりと呟いたが、アルセイドもまったく同意ではあった。
そういえば先に会ったのは、先代皇帝の人格に取りつかれた帝国皇帝だったか。こちらが本来の彼女であると? だがそうだとしても、あれから激しくなった帝国の侵略は目の前に座る女性の命令によるものだと既にアルセイドたちは知っている。あるいは、この女性の名前を借りた、フィリニア・イストールの命であると。
「なにがでしょう?」
「おぬしだ、アルテミシア皇帝。なぜ、我らに対して、そうも好意的に接することが出来る?」
「だってあなた方は、スティグマの和を成すために行動されているのでしょう?」
ちらりと魔女の視線がアルセイドに流れた。
そうだ、とためらいがちに呟くと、アルテミシアは嬉しそうに微笑む。
「ならばわたくしたちは同志と云うことになります。だからですわ」
「!」
息を呑んだのは、アルセイドと魔女、2人とも同時だった。
特にアルセイドは険しさを増したまなざしを皇帝にすえた。
その様を実際に眺めたわけではない。だが草一本残らない侵攻をさせている帝国皇帝に同志扱いされる覚えはない、そう云おうとしたのだが、魔女の右手がアルセイドの口を閉じさせた。とん、とん。なだめるように2回、アルセイドの左ひざをたたく。
そして魔女は深く溜息をついた。いまの言葉で、彼女はずっと疲れたようにも見える。いぶかしく思って眺めていると、魔女はこの上ない憐れみを込めた眼差しで帝国皇帝を見つめていた。帝国皇帝は、先ほどまでとは違い、表情を殺した顔でその視線を受け止めている。
「おまえは、――世界中の憎しみを集めることにしたのだな」
「なに?」
「考えてみるがよい、アルセイド。欲にまみれた人の世界をひとつにまとめるに最も強力な方法は、共通の敵を与えることではないか?」
はっとその言葉で、魔女が考え付いたことを察した。
まさか、そんな。
繊細で壊れそうな外見の帝国皇帝を見直す。華奢でうつくしい容貌の姫君は、とてもではないが、そんなすさまじい覚悟を秘めているようには見えない。ところが、帝国皇帝は微笑んで魔女に向き直るのだ。
「理解が早いのですね。なにか、ご経験でも?」
「――わたしに対しても、義兄上たちの行動は一貫していたからな。いわく、あの不気味な娘を消し去れ」
その言葉を告げる時だけ、魔女も表情を消しているようだった。今度、憐れみを浮かべたのは帝国皇帝の方だった。いたわりと慈しみを込めて、魔女を見つめて呟く。
「そうしてあなたは、人でもなければ竜族でもない身となって、長い時間を超えてこられたのですね」
「おまえは、」
そして魔女は口ごもったようだった。珍しい様子にアルセイドは、目をみはる。
だが目をみはるのはまだ早かったのだ。魔女はがたんと立ち上がり、帝国皇帝に手を差し伸べたのだから。
「わたしと共に行こう。おまえは、亡き皇帝の人格に操られ侵略を進めてしまっただけだ。わたしが証明する」
「いいえ」
凛と伸びる声で告げた帝国皇帝は、いっそ冷ややかなまでの眼差しで魔女の言葉を否定した。
「わたくしが、命令を下したのです。侵略行為に、一切の手心を加えてはならぬと。――全軍に」
「だがきっかけは、あの男の人格だろう?」
「気軽に仰らないでください。あれでもわたくしの父親です」
ふいをつかれたように魔女は言葉を失った。帝国皇帝はふわりと微笑む。
その儚い様がまるで月のようだとアルセイドに感じさせた。
ならば対する魔女は太陽か。皮肉に考えて、アルセイドは、あながち外れてもいないことに気付いた。
少なくとも、自分の中で燦然と輝く太陽は魔女であり、その影響を受けて行動しているのは帝国皇帝である。そのはずだった。
だがこの時、魔女は明らかに帝国皇帝に押されている。覚悟の違い、そう簡単に云っても良いものか。
「どんな理由があれ、わたくしは自らの身体をもって侵略の命を下しました。あろうことか、関係のないあなたを標的にする命令まで下しました。その咎は、帝国皇帝だからこそ、消えることがないのです」
「だがおまえは、」
「たとえ父の疑似人格が行ったことでも。その後のことはわたくしが決め、実行したことです。手を差し伸べられる資格はありません」
「宰相がお越しになりました」との声が、扉の外に開く。
お通しして、とアルテミシアは澄んだ声を張り上げた。扉が開き、現れたイストールはアルセイドたちを見て、緊迫した表情となる。帝国皇帝はすらりと立ちあがった。
「命を下します、帝国宰相。フィリニア・イストール」
「はっ」
「今すぐここにいる者たちと共に、エルフの街に赴きなさい」
「……なっ」
驚きに声を失うイストールから視線を外して、アルテミシアはにっこりと魔女に微笑みかける。
「これであなた方の望みの一部は叶いますね」
「お待ちください、陛下。なにゆえにわたくしが、エルフなどの街になど……!」
「命令です。刃向かうのであれば、帝国宰相の地位をあなたから取り上げますが、いかが」
横暴な言葉を連ねて、アルテミシアは引き締まった表情のまま、イストールを見つめる。イストールは言葉を失い、唇を屈辱に震わせる。アルセイドは立ち上がり、その肩に手をのせる。
振り向いたそのあごに一発、そして腹に一発叩きこんだ。くたり、と倒れこんだ男を、肩で支えて、2人の少女を見つめる。魔女は帝国皇帝を、帝国皇帝は魔女を、ただ見つめていた。
「これでスティグマの和に近づきますか」
「アルテミシア、もう一度だけいう。わたしと――」
「おっしゃらないでください」
泣き出しそうな顔でアルテミシアは告げる。魔女ははっと息をのんだ。
涙をこらえる表情で帝国皇帝は続けた。
「わたくしも、本当は怖いのですから。怖くてたまらないのを、決意で引き締めているだけなのですから無になさらないで」
「魔女」
アルセイドはあえて帝国皇帝を見ないまま呼びかけた。用は済んだ。皇宮の主がこの様子ならば、速やかに立ち去ることが出来るだろう。その為に制止し、そして魔女を促したのだ。
立ち尽くしていた魔女は、自分を取り戻すと、きっぱりと帝国皇帝に背中を向けた。アルセイドはずるずるとイストールを引きずる。その部屋を出る、その前に、肩越しに振り返って帝国皇帝を見た。
「俺はあんたたちの侵略によって、家族を失った」
「――ええ、存じています。それでも復讐など意味がないと仰ってくださいましたね」
「だからこそ、あんたのもくろみは失敗するかもしれない、と云っておこう。人は馬鹿じゃない。思い通りにおまえを憎むと思ったら大間違いだ」
ふわり、と花のように、うつくしい姫君は微笑んだ。
「でも、いまのところはわたくしの思い通りに世界は動いているでしょう?」
「一瞬だけだ。すべてをおまえの思い通りにはさせない」
それだけを云い置いて、アルセイドは扉を閉めた。扉の外には魔女が呆然と立ち尽くしている。
唇をゆるめ、アルセイドはその肩を叩いてやった。我を取り戻した魔女は一瞬泣きそうな顔をして、――。それでも凛然とした様子で前を向いて歩き始めた。満足げな笑みを浮かべてアルセイドはその後に続く。少なくともエルフとの取引は守られそうだった。