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公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

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茶道部のおもてなし 序章

目次

序章

 午後から雨になると天気予報は言っていたけれど、転入試験を終えた乃梨子が私立苑樹学園中等部の校舎を出たとき、空はまだ青く晴れわたっていた。

 あーあ、と思う。

(雨、降っちゃえばよかったのに)

 そうしたら、新しい家の庭掃除をサボっても、怒られたりしない。しかたないわねえ、と仕事から帰ってきた母親は言ってくれるだろう。リビングでゴロゴロしたって怒られないはず。

 でも乃梨子の期待に反して、空は少しも曇ってくれない。

 乃梨子はひとつ息を吐いて、歩き始めた。

 コンクリートで舗装された道路の両脇には、こんもりとした樹木が続いている。その植木越しに、校庭が見えた。部活動をしている生徒も見える。春休みなのにおつかれさま、と考えてしまいながら、長い坂道を下って校門へと向かう。

 校舎は山の上にあるから、校門まで距離があるのだ。もし本当にこの学校へ通うなら、この通学路にも慣れなくちゃいけないんだ、と思いついて、ゆううつな気持ちになる。

(星岬学校は通いやすかったなあ)

 乃梨子が中学受験して一年通っていた学校を思い出す。なにせ校舎は繁華街のど真ん中にあった。バス停は近くにあり、本数も多かった。だからギリギリまで寝ていられた。

 それだけじゃない。有名デザイナーに依頼したという制服は近隣の女生徒にうらやましがられるほどかわいかったし、名門校のわりには校則もゆるかった。高等部になればバイトも可能だったため、乃梨子はこれから先の学校生活を本当に楽しみにしていたのだ。

 わかってる。もう、過去の話だ。

 肩にかかってる鞄の紐をギュッと握りしめて、乃梨子は顔を上げた。校門が見える。同じ坂道を登ってくる人の姿も見えたから、余計に唇を引き締めた。睨むように前を見つめて、----ぽかんと口を開けた。近づいてきた人の姿が、見えてしまったからだ。

 その人は、春の気候にぴったりな抹茶色の着物と少し薄い淡黄色の羽織を着ていた。白く長い髪を背中でまとめているから、はじめは老人だと思ったのだけど、近づくにつれて、乃梨子よりもわずかに年上の青年だとわかる。これらの特徴だけでもびっくりだが、乃梨子がいちばん驚いた特徴は、その青年の頭上にピンと立っている獣耳だ。

 えええ、と声に出してしまいたいほど驚いたが、乃梨子の視線に気づいた青年と眼差しがあってしまったから、口を閉じた。乃梨子を不思議そうに見返した紅い瞳が丸くなる。

「なんと、これは驚いた」

 はっきりとよく通る声でそう言った青年は、にっこりと乃梨子に笑いかけてきた。

 うわ、と、乃梨子はたじろいだ。

 冷たい印象を与えるほど、顔立ちの整った青年だと気づいていた。

 だが、いま、乃梨子に向けてきた笑顔はとても温かみのある笑顔だったのだ。紅い瞳がくるむように微笑んでいる。そんなふうに見つめられる心当たりがないから、乃梨子は思わず足を止めた。

「新入生、ではないな。転入生か」

 青年は微笑みながら話しかけてくる。乃梨子は戸惑いながら、軽く訂正をしてみた。

「転入試験を受けただけですから、まだ、結果はわかりませんけど」
「なに、このわたしと出会ったのだ。そなたは間違いなくこの学園と縁がある」

 不思議な論理で言い切られてしまったから、乃梨子はあいまいに微笑んだ。微笑む以外、どうしたらいいのか、わからない。困惑していると、青年の獣耳がぺたんと折れる。

「む、すまぬ。困らせてしまったか」

 青年がそう謝ってきたが、乃梨子の注意は獣耳に向かった。

(その耳、動くんだ)

 コスプレの仮装道具という可能性は、これで完全に消えてしまった。

 では青年は何者なのか。遅ればせながら、人間ではない可能性を思いついた。

 まさか、と狼狽える。すぐ近くまで近づいた校門の外では、自動車や自転車が行き来している。ありふれた日常を身近にして、人間ではない存在と会話するなんてことがあるのだろうか。

 子供じゃないのだ、そんなことを思いつくなんて、どうかしている。

 乃梨子は軽く首を振った。たぶんきっと、最新型の獣耳だから動くんだ。目の前の青年は普通の青年。だからしょんぼりと眉を下げた青年を、どうにか慰めたい気持ちになるのも無理はない。「いえ」と、とっさに言って、うろうろと言葉を探す。やがて、敗北感を覚えながら、言った。

「わたしもこの学園とは縁がある、と思います」

 敗北感を覚えた理由は、そんな事実を認めたくなかったからだ。まだ、転校前の学校に戻りたい気持ちが強く残ってる。

 でも乃梨子はこの地に引っ越してきたのだ。転入試験だって受けてしまったし、手応えも感じている。だからもう前の学校には戻れない。

(しかたないんだ)

 青年を慰めるための言葉は、乃梨子に諦めを促した。

 乃梨子はこの学園と縁がある。そして前の学校とは縁がなかった。口にした言葉をきっかけに、そう思いついてしまえば、奇妙な清々しさを覚えた。すっきりと笑えば、青年の獣耳がピンと立った。青年が落胆から脱したのだ。そのわかりやすい反応に、乃梨子が浮かべた笑みが深くなる。乃梨子の言葉に対し、「そうか」と青年は嬉しそうに言う。

「きっとそなたはこの学園で知るだろう。縁ある者との出会いや、その出会いによる喜びを。進むべき道を見出したときの心強さを。ときには心通わぬ者との衝突に怒り、思い悩む瞬間があったとしても、それでも一人ではいられない現実を知るだろう」

 そうして青年はおおらかに微笑んだ。

「ようこそ、私立苑樹学園へ」
「……ありがとうございます」

 浮かべていた笑みが苦笑になった理由は、気が早いなあ、と考えたからだ。

 繰り返しになるが、転入試験を受けただけなのだ。確かに手応えを感じているけれど、転入が許されるかどうかなんて、今の時点ではわかりやしない。

 それでも礼を言った理由は、青年が告げた言葉を心地よく感じたからだ。面白くないと感じていた、期待もしてなかった、この学園での生活を想像して、ワクワクした。

 これからの生活にも、きっといいことが待ってる。

 幼い子供のように無邪気に、このときの乃梨子はそう信じられた。

 

 それは、まだ冬の寒さが残る三月の出来事。

 始業式までの春休みに、くり返して何度も思い出してしまう、印象強い出来事だった。

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