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「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

スティグマ

竜の居る島は、だんだんと遠ざかっていく。船尾からその姿を眺めて、アルセイドは踵を返した。 途中、行き過ぎる船員たちに手をあげて、ひとつの客室にたどりつく。一級船室にあたるその場所は、少女が与えられた客室だ。すうっと息を呑み、こぶしで扉を叩いた。微かな応えがあり、扉を開ける。

典雅な貴族風の装飾としてまとめられた客室の中に、クッションを抱きしめた少女がソファに腰掛けている。 ぼんやりと窓の方向を向いていたが、アルセイドを見て惰性の笑みを浮かべた。精彩に乏しい様子である。 疼く感情を意識しながら、その近くに腰掛けた。

「おまえはこれからどうするつもりなんだ?」

少女は沈黙したままだったが、やがて、わずかにしっかりとした眼差しでアルセイドを見る。

「おまえもこれからどうするつもりなのだ?」
「選択していく」

端的に返すと、金緑の瞳がわずかに細められた。

「俺に長針という役割が与えられたことは理解できた。否定しようもない、出来もしない役割だともな。ならば真っ向からその役目に立ち向かってやる。セレネを滅びに導く役目であろうと、知ったことではないし怯むつもりもない。それが俺の選択だ」

すると少女は静かに微笑んだ。それまでとは違う、芯の通った微笑である。 その笑みに感情が落ち着いていくことを近くしながら、アルセイドは淡紅色の唇が開くさまを見た。

「ならば少しでも正確な知識を授けねばな。長針とはこのセレネを滅びに導く存在ではない。このわたし、短針と同様に」

抱えていたクッションを放り投げ、魔女は窓に近づいてこんと叩く。そこに映るのは青き月――ガイアだ。

「かつて、我々はガイアに暮らしていた」
「それは……」

アルセイドは昔に聞いた伝承を思い出していた。 ガイアとセレネとで人々は親しく行き来していたという伝承だ。 口に出すと、魔女は首を否定の形に振る。

「本来のセレネは、人類など住めない世界だった。だからもっとも近い存在としてセレネに興味を持ってはいたが、それだけで終わっていた。居住しようとは、夢にも思わなかったのさ。ところが、人々の文明の蹂躙を受け、ガイアは深く傷ついた。毒となる雨が降り、氷の大地は溶け、人の住む大地は海に沈み――」

そこで魔女は悲嘆を込めて眼を伏せる。

「多くの人々が亡くなった。それでも人は生き残るための手段を模索した。そしてこのセレネに目をつけた」
「だが、ルナは人類が住めない世界だったのだろう?」

思わず口をはさめば、魔女は然りと頷く。

「可能となったのは、月に住む種族・竜族と交渉したためだ。以前よりガイアと行き来し、愚かな人類にそれでも親愛の情を抱いていた竜族は、行き場を失おうとしている人々のために期間限定の魔法をこのセレネにかけた。期間限定となしたのは、ほかの種族が人類の居住を受け入れなかったためでもある。それでもガイアが回復するまで人々はセレネへの居住を許された。――そして、ガイア回復の兆しがあらわになった」
「どんな兆しだ?」

問いかけると、誇らしそうに自分の胸を抑える。

「わたしだよ。かつてガイアにある時には魔女として罵られ追われていたのは、ガイアと同調しやすい体質を持っていたがためだ。泣けば雨が降る。笑えば太陽が照る。だからこそ迫害されていたわたしは、竜の長に救われていたがためにな、その体質を利用してガイアの回復を測る装置となることに同意した。そしてわたしは永き眠りについた。ガイアの回復を図る時計として」
「そして、そのおまえが目覚めたからこそ」

自らの身体をまるで道具のように扱う物言いには腹が立ったが、話の腰を折るようなことは出来なかった。 いまはただ、少しでも多くの正確な情報を入手するべき時だ。 冷静に。心がけて、膝の上に組んだ両手を置く。

「そうだ。ガイアは回復に向かっていると云える」

そうして魔女は愛おしげな眼差しで青き月を見つめた。ガイアで暮らしていた人類。 この少女は、その時代を覚えている、おそらくは唯一の存在なのだ。 そうと思えば、不思議と感傷的な気持ちになる。

だが、と低く魔女は呟いた。

「それは同時に、このセレネにかけられた魔法が終わりに近付いていることを示している。滅びに導くわけではない。本来の姿、元の人が住めない世界に戻るだけだ。その目安が長針であるおまえ、そして短針でもあるわたしだ。いかなる仕組みかは知らぬが、私だけでも充分その用は果たせたのに、竜たちはそう定めた」
「俺の」

云いかけて、目を見開く。

「おまえが、短針?」

魔女は少女のように微笑んだ。

「短針はゆるやかに時を刻む。長針はこのセレネにて人の生を生きる。繰り返し繰り返し、長針は生まれ、そして生きて死ぬ。おまえは何度目の長針かは知らぬが、そうしてガイアの回復を測る時計は動き続けていたのだ。そして、わたしはさらにもう一つの役割を選んだ」

微笑を消して、凛然としたまなざしを取り戻す。

「善き、魔女と。いずれ訪れる時の果て、人の和が成される瞬間を見守る存在となろうと。自らを迫害する人々を呪う魔女ではなく、欲深き人々がそれでも人の和を成し、ガイアに帰還する瞬間を、その様子を見守り続ける魔女であろうと。その人の和を成すために、帝国皇帝は竜族によって役割を与えられた」
「だが、帝国は、人の和を乱している」

忘れがたい痛みのために声を上げると、魔女は瞑目して頷いた。

「そう。侵略などでは人の和は求められない。かつてガイアにおいても繰り返し行われ、そして人類の皆が身にしみて知っているはずの事実だ。それなのになぜ、アルシードは、先の皇帝は侵略などを始めたのか……」

呟くように魔女の言葉は消える。その終わりを待って、アルセイドは再び声をあげた。

「待つだけか?」
「え?」
「ガイアに帰還するため、おまえは人の和を待つだけかと云っている」

がたんと腰掛けていたソファから立ち上がり、魔女の元に歩みを進める。 ごく近くに魔女を見下ろして、アルセイドは言葉を続けた。

「帝国はこのセレネを不当に蹂躙し、おまえが望む人の和など望めそうもない。それでも可能性の低い瞬間を待つだけなのか」

糾弾を受けても、魔女は揺らがない。 だが瞳が違ってきていた。力強く、きらめきを増したまなざし。――初めて出会った頃の瞳で告げる。

「もはや、人の和だけでは足りぬだろう」 「なに?」 「帝国皇帝のふるまいによって、不審を抱いているのは人類だけではない。このセレネ本来の生物、竜、エルフ、ドワーフ。そしてガイアより訪れた人類、魔法使い、妖精。すべての種族、――このスティグマの種族の和が成さなければ、速やかなるガイア帰還は叶うまい」
「ならば俺が、そのスティグマの和を成そう」

アルセイドは力を込めて告げると、魔女は目を細めて告げる。

「事態の困難さを理解できぬ者ほど、簡単に云ってくれる」
「ならば何もしないことがよいことか?」
「よいことではなかろうが、他人に責任を押し付けるような羽目にならなければよい、と云っているのだ」

まだ処理しきれない情報もある。知らない知識も、きっとまだ多く存在するのだろう。 魔女の云う通り、その新たなる一面を見たらアルセイドはこれまでのようにうろたえてしまうのかもしれない。

だが、既に選択したのだ。
長針としての役割に、真っ向から立ち向かってやるのだと。

ただガイアの回復を示す目安と云うだけでは満足できない。このセレネに人々が暮らせなくなると云うのなら、知らしめる方法を考える。その延長として、スティグマの和が必要というのでは、成すしかないだろう。

沈黙のまま、アルセイドと魔女は見つめ合い続けた。睨みあいと云っても良いかもしれない。 だが、ふ、と、魔女は微笑んだ。

「知っているか、アルセイド。長針とはな、短針をも動かすもの。おまえの選択は、わたしの心までも動かした」

斜めに窓に向けていた身体を、アルセイドに向ける。真っ向から彼に向かい、その視線を受け止め、そしてその言葉を告げた。

「だからこそ、その証として我が真名を明かそう。我が名はアルテミシア。初代帝国皇帝異母妹にして、名を消された皇女」

その言葉が持つ意味の大きさに驚き、だが見る見る内に青ざめていく魔女に言葉を返していた。

「覚えておこう。だが」

指を伸ばしてその頬に触れた。急激に青白く、また冷汗を流し始めた顔は、いまだ呪いをかけられたままだと云う言葉を思い出させる。立っているのもつらいだろう。引き寄せるように抱き寄せ、その耳元に囁きかけた。

「だが俺は、おまえを善き魔女と呼ぼう。おまえ自身が選んだ、命より魂より大切な役割の名前を」

くすり、と肩のあたりで笑う気配がする。 そして身体を預けるように力を抜いて、アルセイドにもたれかかった。 すでに意識はない。これほどの呪いをまだ受けているのだと、抱えた身体を抱き上げながら、アルセイドは唇を噛んだ。

(死者の、呪いか――)

それは長針たる彼にも、解くことが出来るものなのだろうか。 逝ってしまった竜の長に問いたい衝動に駆られた。

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