MENU
「24時間、料理の注文を承ります。」

公開している創作を大幅に書き直して、2022年11月、文芸社より発行していただきました。

現在、発売中です。

試し読み

故郷

――このセレネでは、どこに行っても、あの青き月ガイアが目に入る。まるであるべき故郷の存在を忘れさせないためのように。

「どうしても、行くのか」

出来るだけ気配を消したつもりのイストールは、突然背後からかけられた声に動きを止めていた。この数日、最も自分に多く声をかけてきた存在の声だ。伯父だというその人は、自分と同じ名前を持っている。

だから母しか呼ぶことのなかった愛称をその人は呼んだ。その度に揺れる想いがあり、そしてきしむ心地がある。背中を向けたまま静かに溜息をついて、イストールは口を開いた。

「時間の流れとは残酷なものですね」

期せずして、かつて竜族の1人が魔女に告げた言葉を、口にする。
時間とは残酷だ。心の中でもう一度繰り返す。

かつてここを訪れた時に胸に抱いていたのは期待と希望だった。母と同じ血の一族の元で暮らせるという期待、そして新しい生活が始まるのだという希望、そのどちらも打ち砕かれ、絶望と共にこの街を去った。そして父の元に向かい、彼に仕えた。

その時、決して消えることのないだろうという確信を抱いていた、復讐への希求はもはや、ない。

もはやイストールは物を知らぬ子供ではなかったし、相手を理解できぬ子供でもなかった。だからかつて自分が拒絶された理由も、態度が軟化したように見える理由も理解できる。青い実が時間を経て熟すように、時間が立つことで理解できるようになった部分が、復讐への意欲を失わせるのだ。もはや、どうでもいいと思わせるほどに。

だが、ここはもはや、イストールの故郷ではなかった。

「それは、帝国こそがおまえの故郷になったということか?」
「いいえ。――いえ、そうなのかもしれません。少なくとも、25年の歳月、過ごした時間の分だけ、あの帝国に執着がある」
「ひねくれた答えだ。素直に気がかりなのだと云えばいいだろうに」

温かな苦笑に満ちた叔父の答えに、ふと哀しくなって背中を向けたままイストールは微笑んだ。
微笑むしかない。そんな状況だ。

涙を落とすほどではない痛みが、叔父の気配に気づいた時から胸に宿り続けている。
このようにあれたら。このように穏やかで温かであれたら、というあこがれが胸をきしませる。

同じ血を引く叔父と甥、なぜこのようにも違うのか、とも思った。それは育ってきた時間や環境にもよるのだろうし、そもそも自分には人間の血が入っている、そのことも関係しているのだろう。この人のようにはなれない、その敗北感がこの数日イストールを苛み、そしてせっかく許された状況から出て行こうとする根本的な理由だった。

「気がかり、などというものではありませんよ」

用心深く表情を取り繕って、背後に立つ叔父を振り返った。青い光に照らされている叔父を見て、その必要がないことに気付いた。背後には今、青き月が輝いている。その光の元、自分の表情は照らし出されないだろう。隠し通せるだろう。

「ただ、自分が始めたことを途中で終わらせることがいやなだけです。他の人間に奪われることもね。誰も赦しますまい、そんなことは」
「フィレラ。そなたを赦さぬものなどこの街には――」
「わたしが、わたしを赦さないのです。罰などというものではなく、自分以外の何者にも意思を左右されることを厭っているのですよ」

傍から見ているものには、自分は先の皇帝である父の云うがままに踊らされているように見えるだろう。
だがそれは違う。父は、結局のところ、ガイアもセレネも共に自分のものにしたかっただけだ。支配したかったのではなく、共に自分の故郷としたかった。

そしてふたつの故郷を、子供たちに譲りたかった。だからこその侵略であり、そのきっかけは、ガイアの種族とセレネの種族の間に生まれた自分なのだということにとっくに気付いている。だからこそ、子供であることを強く主張することもなく、一番の側近として仕え続けたのだ。

子供としてではなく、側近として仕えることは、ある意味誰よりも父の傍にいることが出来る選択だった。
だからこそ。

「――そういうところが、姉上を思い出させるよ」

どこか眩しげに眼を細めて、叔父は呟いた。

行くがいい。そのままの口調で告げた後、背中を向ける。ざっと砂を蹴り、そして遠ざかっていく背中に、やはり切なさを覚えた。もう逢うことはないだろう。人間の血が濃いイストールには、魔法が消滅したルナに留まることは出来ない。だから生きている間には、決してエルフの叔父に逢うことはあるまい。そうと思えば、ひと言、告げるべきかと思った。

だが、そんな言葉などない。

もう、イストールの故郷はここではない。温かな母につながる記憶も希望も期待も、25年前に砕かれた。
今の彼を突き動かすのは、25年間、共にあった父であり、彼から受け継いだ意思であり、そして腹違いの弟妹への想いだった。

「王権など、もはや意味がない」

アルテミシアは、予想以上に頑張ってくれた。ルナの憎しみはすべて彼女に向かっている。あとは彼女に仮初の死を与え、その隙に人々をガイアへ帰還させるのだ。帝国にいる頃から、すべての情報はイストールの元に集っている。不可能だと思われていたスティグマの和も成され、またレジスタンスによって速やかなる情報伝達が可能となった。人類が戻るべき故郷に帰還する日が訪れようとしているのだ。

――ただ、それでも。

少なくともイストールは、父が踏めなかったガイアの地に立ち、このセレネをたまらないほどの哀切を以って見上げるだろう。このセレネは、父母が眠る地、そして親族が住まう地。生誕してよりこの齢になるまで過ごした地だ。

そしてそれはイストールだけではない。

(ふたつの故郷を、共に抱いて)

ふと魔女と長針を想う。スティグマの和を成そうとした、――否、成し遂げた2人。
このエルフの街で得たものが、イストールの唇を苦笑の形にほころばせた。

目次